第33章 触れられない手
第33章 触れられない手
張り詰めた空気の中でエヒメが話はじめた。
「……木が、窓を破ったか。それが自然というものじゃ。人間の造りしものは、あまりに脆いからのう」
かつて九州で土地の荒ぶる力(自然災害)と対峙してきた彼女だからこそ、言える言葉かもしれない。
「だがのう、織恵、おぬしがその手で『形にした』という事実は、そんなに脆く消える事はないはずじゃ」
エヒメがニヤリと笑い、続けて問う。
「織恵、教室はまだ開いておるか?」
「……兄媛様、まだ教室で、他の人か、直せるものを手直ししているはずですが……」
「行きましょう、織恵」
オトも立ち上がった。
俺もカバンを置き、彼女たちと家を出た。
彼女たちなら、何とか出来るのではないかと、思っていた。
俺たちが目にしたものは、あまりにも無残な姿になった織恵の展示物だった。
佐藤さんが写真で見せていた、あの軽やかな空気感を孕む造形は見る影もない。
雨に晒された染料はあちこちで流れ、重力に引かれた布地は歪に垂れ下がっていた。
「……乾かせば、なんとか戻せるんじゃないかと思ったんだけど」
佐藤さんの震える声が教室に響く。
その瞳には、絶望と、小さな希望がまだ消えずに混ざり合っていた。
エヒメは何も言わず、作品を着せたトルソーにゆっくりと歩み寄った。
彼女の指先が、布に触れる。
上から順に、まるで傷ついた生き物を慈しむように、彼女の手が布の表面を撫でていく。
オトも無言でその後ろに立った。
その眼差しは鋭く、布の糸一本一本の綻びを追っているようだった。
エヒメはゆっくりと顔を上げ、佐藤さんを真っ直ぐに見つめた。
その表情は厳格だが、決して切り捨てるような冷たさではなかった。
「……まだじゃ」
「え……?」
「一から仕立て直すのは無理じゃがのう。……織恵、この生地はまだ余っておるか?」
エヒメの問いかけに、佐藤さんが頷いた。
「ここは残すのじゃ」
エヒメが指し示したのは、染料が雨で無残に色が流れてしまった箇所だった。
佐藤さんは呆然としていたが、エヒメの眼差しは真剣そのものだ。
「その布はここに新しくドレープを作り、代わりにここを……そう、そこは切り落とせ」
エヒメが次々と指示を飛ばす。
それは迷いのない、完璧な修正計画だった。しかし、修正箇所はあまりに多い。
「姉様、それでは時間が足りませんわ」
オトが前に進み出た。彼女は迷うことなくハサミを手に取ると、湿った布地へ一気に刃を入れる。
迷いのない、あまりに鮮やかな太刀筋だった。
切り裂かれた切れ込みに、オトが指先を滑り込ませる。
彼女がスッと手を動かすと、先ほどまで雨に濡れ、重く垂れ下がっていた布が、まるで呼吸を始めたかのように微かな風を孕んで動き出した。
一体、オトは何をしたのか。俺にはその理屈さえ理解できなかった。
その時、エヒメが鋭い声で叫んだ。
「オト、それ以上はやめるのじゃ!」
「姉様!今、見せないで、いつ見せるのですか」
オトは厳しい顔で返し、手元を止めない。
佐藤さんがハッとして手を止め、オトの手元に注目した。そして、目の前の作品を凝視する。
そこには、佐藤さんが一から手配した新しい生地の生命力と、一度は雨に濡れて色が流れ、諦めかけた生地が偶然生み出した幻想的なグラデーションが、完璧な調和を保って存在していた。
「すごい……」
佐藤さんの口から、絞り出すような声が漏れる。
それは単なる修正品ではなかった。
諦めたはずの布が、以前よりも遥かに高い次元で一つの作品として昇華されていた。
「オト、お前は休んでおけ!」
エヒメの叱責が教室に響く。
エヒメは厳しい表情でオトを制すると、佐藤さんを連れて、他の生徒たちの作品が並ぶ場所へと向かった。
椅子に座り込むオトの隣に俺は立った。
厳しいエヒメの言葉に、俺はようやく、何が起こっているのかを理解し始めていた。
「……オト、お前が何をしたかったのかが、分かったよ」
俺の言葉に、彼女はゆっくりと顔を上げる。
その瞳は、いつもの妖艶な笑みを湛えていたが、どこか現実離れした透明感を帯びていた。
彼女は何も言わず、俺の右手をそっと取った。
その手には、温もりも冷たさも感じられなかった。




