第29章 水の中から見る世界
第29章 水の中から見る世界
彼女が連れて行ったのは、水族館とは少し趣の異なる、無機質でどこか神秘的なマリンミュージアムだった。
「魚が見たかったのか?」
「もう! ほんとうに分からないの?」
俺の腕を引っ張り、入場券の列に並ぼうとした時だった。
「あら、奇遇ですわね」
澄んだ声が背後から響いた。
俺は心臓が跳ねる思いで振り返った。
そこには、いつものフォーマルスーツ姿ではないオトが立っていた。
黒のニットワンピースに白のカーディガンを纏い、柔らかく身体に馴染む装い。
小柄ながらも、そのスタイルの良さが際立っている。
「……オト!? なんでここにいるんだよ」
「わたしと主様は、目に見えない糸で繋がっておりますから」
彼女はわざとらしく小首をかしげ、俺の隣に自然な動作で滑り込んだ。
「はあ!? なんでアンタがいるのよ!」
茅春が声を荒らげる。
「そ、それに。あなたのその格好……」
「私と出かけるのに、なんでその女と『リンクコーデ』してるのよ!?」
言われてみれば、俺とオトの服装は、誰が見ても意識して合わせたように見える。
「あら、これは偶然ですわ。主様がわたしのセンスを選んだだけのこと」
オトは涼しい顔で、茅春の抗議を鼻で笑った。
そして、抵抗する俺の腕をぐいと組むと、そのまま入場券売り場の窓口へ向かった。
「……主様、行きましょう。せっかくの休日、有意義に過ごしましょう」
俺はため息をつき、茅春に謝るための言葉を探しながら、オトに引きずられるようにしてゲートを潜った。
館内は、深海を思わせる深い青の照明に包まれていた。
無機質なコンクリートの壁に巨大な水槽が埋め込まれ、光を反射した青白い揺らぎが壁面をなぞっている。
静寂と冷気の中で、オトは水槽へ視線を走らせていた。
普段なら、何かを見つければすぐに言葉を挟む彼女が、今日は妙に静かだった。
泳ぐ魚の姿を追いながら、ときおり水槽の向こうにある何かを見るように、遠い目をしている。
白いカーディガンに映る青い波が、彼女をこの世のものとは思えぬ幻想的な姿に見せていた。
その横顔を見ていると、なぜか不思議な感覚に襲われる。
まるで彼女の方が、この場所を知っているような気がした。
「綺麗だな。オト、初めてか?」
「……水の中から見るのは初めてですわ」
その言葉が、妙に耳に残った。
オトはそれ以上説明せず、再び水槽へ視線を戻した。
「ちょっと、なんで二人でいい雰囲気になっているの!」
隣で茅春が詰め寄ろうとする。
「……全く、気が休まりませんわね」
「じゃあ、少しだけ主様をお貸ししますわ」
オトが俺の腕をほどいた。
「……『お貸し』ね。ありがとう、オトちゃん」
茅春は皮肉交じりに礼を言った。
オトが引き下がるなんてことはないと思っていたが、今は水槽の中の景色の方に気持ちがいっているのだろう。
あまりに熱心に見ていたせいか、オトは少し疲れているようにも見えた。
館内のレストランで、休憩がてら食事をとった。
オトはパスタをいつものようにペロリと平らげた。
その姿を見た茅春は、意外そうな顔をする。
「オトちゃん、よく食べるのにスタイル良いわね」
「ちゃんと栄養を摂らないと、スタイルは維持できませんわ」
そう言って、服越しにも分かる豊かな胸をわずかに張る。
その姿に、茅春は苦笑いを浮かべた。
「栄養と言えば、先日も主様が『鰻』を食べさせて精をつけろって……」
「その後で……甘くて……濃厚な……」
「……あなたたち、何を!」
オトの不敵な挑発に、茅春が食いつく。
「レアチーズケーキの話な!」
「ほんとうに、こいつらといると俺が太ってしまうよ」
そう言って訂正しようとすると、茅春が首を傾げた。
「『こいつら』って? まだ他にも……」
冷や汗を隠し、俺は言葉を重ねて懸命に話を逸らした。
そんな焦る俺を、オトは口元に艶やかな笑みを浮かべて、じっと見つめていた。




