第28章 甘やかしの夜
第28章 甘やかしの夜
玄関を開けたまま、俺は思わず深い溜息をついた。
二人の神が、テーブルの上の卵のパックを挟んで、熱い議論を交わしていた。
「……鰻というものは、錦糸卵をたっぷりと乗せ、ふっくらとした身と甘いタレを絡めて食すものじゃ」
「姉様、お言葉ですが、鰻の脂を中和するのは、古都の奈良漬け。さっぱりとした酸味がなければ、鰻の繊細な旨味は引き立ちませんわ」
「それに、江戸時代から続く最高の食べ合わせと言われてますわ」
「医学的にも栄養の吸収や消化を助けるとも言われていますのよ」
「瓜から作られた奈良漬けは『う』の付くもの同士、土用の丑の日に縁起を担がれるものなのですわ」
「神のくせに縁起を担ぐとは落ちたな、オト」
オトはいつも以上に饒舌で、高飛車な態度でエヒメを睨みつけている。
——元気そうだ。
今朝のあの姿が嘘のように、今は目の前の食い物のことで頭がいっぱいらしい。
「……お前ら、喧嘩するな。錦糸卵はレンジで作るから、それで我慢しろ」
「それと、オト。奈良漬けもあるぞ」
俺が帰ってきたことに気づくと、オトはトトトと小走りで俺の背中に回り、小刻みに震える。
「主様、姉様の食い意地が怖いのです」
「オト、かなり前から見てたぞ。お前が奈良漬けのことを熱く語っているあたりから……」
「佐藤さんから、ケーキの神饌ももらったぞ。仲良くしないとやらないぞ」
「……紡よ。奈良漬けまで用意したのか。……全く、貴様はどこまでこの甘やかしを続けるつもりじゃ」
エヒメはそう言いつつも、鰻を温めるための皿を自ら準備し始めた。
その手つきはどこか嬉しげだ。
俺たちは錦糸卵と奈良漬けの両方を食卓に並べ、晩餐を始めた。
食後、佐藤さんから預かった箱を開けると、中から二人の好物であるレアチーズケーキが出てきた。
「二人とも、佐藤さんに感謝しなきゃな」
そう言って俺たちはケーキを口に運んだ。
甘く濃厚な味わいが口の中に広がり、張り詰めていた空気が少しだけ緩む。
俺は団欒の和らぎに甘え、何気なく切り出した。
「……なあ。明日の土曜日、少しだけ外へ出てくるよ」
「……珍しいですね。主様が自ら予定を入れるなんて」
オトがフォークを止め、俺の顔をじっと見つめた。
その瞳は、何かを鋭く見抜くような静けさを湛えているが、彼女はそれ以上何も言わなかった。
土曜日の朝。
出かける準備をしようとすると、クローゼットの前にオトが立っていた。
彼女の手には、俺の持ち物の中から選りすぐられた服がある。
「主様、これをお召しになって」
差し出されたのは、白のカットソーの上に黒のカーディガン。
「ちょっと出かけるだけだから……」
そう俺が言っても、オトは聞く耳を持たず、俺の身なりを完璧に整えた。
待ち合わせの駅前。
約束の十分前に着くと、茅春は既に待っていた。
いつもとは違う、少しめかした私服姿。
俺に気づくと、彼女はぱっと表情を明るくして手を振った。
俺の姿を見るなり、茅春は満足そうに頷く。
「……うん、合格」
「……それで、用事って何だ?」
俺が聞くと、茅春は少しふくれたように頬を膨らませ、視線を逸らした。
「もう、ちゃんと言ったでしょ」
電車で数駅揺られ、降り立ったのは潮風が香る海沿いの街だった。
目的地を聞くのは止めた。
きっと怒られるだろうと思ったからだ。
駅から数分歩く間も、楽しそうに話す茅春の姿。
——今日は更生プログラムじゃなかったんだ。
そう思い、安心した。
彼女が、ある建物の前で足を止めた。
「ここよ。ここに来たかったの」




