第22章 月を見上げる女神
第22章 月を見上げる女神
「主様、この女性は誰ですの? ……あまり近づくと、呪いをかけてしまいますわよ」
オトが冷徹な瞳で茅春を射抜く。
ただの居酒屋の会話とは思えないほど、空気が重い。
茅春も負けじと、俺の腕を自身の胸元へ強引に引き寄せた。
「そういうのは不健全です! 妹らしくしなさい」
「……妹らしく? ふふ、面白い冗談ですわね。わたしと主様の深淵なる仲に入り込もうなんて、随分と手癖が悪いですわ」
オトは涼しい顔で、茅春が頼んだばかりの揚げ出し豆腐を箸でつまみ、優雅に口へ運んだ。
——いや、それお前の注文じゃないだろ。
「川崎さん、まさか一緒に住んでないですよね?」
茅春の追求に、冷や汗が止まらない。
ここで嘘をついても、オトが爆弾を投下してくるのは目に見えている。
「実は……今、一緒に住んでいるんだ」
「そうよ。昨日もお風呂で、夜這いの予約をしてくださりましたわ」
オトが平然と言い放った言葉に、茅春の箸がカタンと落ちた。
「お風呂まで一緒に……それに、妹に夜這いなんて……!」
「ダメ、絶対だめよ! そんな不道徳なこと!」
茅春が鬼の形相で立ち上がる。
店中の視線がこちらに集まるのを感じ、俺は必死に弁明した。
「違うんだ、加藤さん! そういう意味じゃないんだよ! 彼女が『怖い』って言うから……」
「『怖い』からって、一緒に寝てるの!? どんなご家庭なのよ!」
茅春の悲鳴のような叫びが居酒屋に響き渡る。
「その後で、わたしの溢れた甘い蜜を……」
オトがさらに勘違いをさせる爆弾を投下する。
「違うんだ! 『桔梗信玄餅』のことなんだ、加藤さん、勘違いしないでくれ!」
茅春の顔からは血の気が引き、気絶寸前といった様子で固まっていた。
オトはけろりとした顔で、運ばれてくる品を平らげていた。
そのときだった。
「おやおや、川崎さん。修羅場かい? ここは居酒屋なんでな、ほどほどにな」
誰かの声に振り向くと、そこには居酒屋の片隅で静かに酒を飲んでいたはずの管理人の婆さんが立っていた。
いつの間にいたのか。婆さんはニヤリと笑うと、会計を済ませて店を出て行った。
——なんで婆さんがここに居たんだよ。
茅春の視線は俺を犯罪者を見るかのような目で射抜いている。
「……『桔梗信玄餅』、ね。川崎さん、いえ、紡。私……もう何も言いません。貴方のことは、私が責任を持って『更生』させますから」
「それにね、わたしのことも名前で呼びなさい!」
もはや説明は無意味だった。
茅春は決意に満ちた表情で俺のビールを取り上げ、飲み干した。
その横で、オトはいたって平然とメニューをめくっていた。
「この店はなかなか美味しいですわね。次は何を頼みます?」
この飲み会は、もはや昇進祝いでもなければデートですらない。
ただの、俺の社会的な死のカウントダウンだった。
ようやく居心地の悪い店を出て、茅春と別れた。
冷えた夜風が火照った顔に心地よかった。
散々な目に遭った俺の隣を、オトは浮世離れした美しさで歩いている。
「……オト。なんであんなことを言ったんだ? 茅春が完全に勘違いしていただろう」
俺が問いかけても、オトは月を見上げたまま沈黙を守る。
ただ、口元がわずかに、どこか満足げに小さく弧を描いた。
問い詰める気力もなく、俺たちは沈黙のまま家路を急いだ。
帰宅すると、そこにはエヒメが佐藤さんに熱心に針の運びを指導している光景があった。
「針の運びが鈍いぞ。もっとこう、布の繊維の導きに従うようにだ」
「兄媛さま、ありがとうございます。人間離れしたというか、これぞ神技です」
佐藤さんの言葉に、エヒメは胸を張り、笑った。
「我が司るのは、古より人々の衣を紡ぎ、その身を護る加護そのもの。針の一刺しに、布の命を吹き込むのだ」
佐藤さんは尊敬の眼差しを向け、エヒメはどこか得意げに胸を張っている。
どうやら学校の展示会に出す作品のアイデアを練っているらしい。
さっきまでの居酒屋の修羅場が嘘のような、日常の風景。
俺の苦労をよそに、部屋は今日も、神様たちのペースで回っている。




