第120章 忘れないでくれ
第120章 忘れないでくれ
「大丈夫だ」
姉妹たちの声が夕暮れの山に響く中、俺はもう一度、はっきりとそう口にした。
呆然と立ち尽くすオトの前に歩み寄り、その両手を優しく包み込む。
「オト。俺はただの、普通の会社員だ。困ったことがあれば、すぐに神様のお前たちに頼ってばかりいる、情けないただの人間だよ」
オトのジャケットの肩に乗る落ち葉をとる。
「……だからさ、たぶん、なんの執着もない俺は、神にも怪異にもなれない。何百年も生きるなんて、そんな器じゃないんだよ」
「紡……でも、わたしは……」
「でもな……」
俺は彼女の言葉を遮り、さらに一歩、距離を詰めた。
彼女の襟を正し、肩をつまんだ。
「神様のお前、オトに会えたこと。エヒメや、クレハや、アナハに会えたこと。それは、俺にとって何物にも代えがたい宝なんだ。……そこだけは、絶対に譲れない、俺のたったひとつの『執着』なんだよ!」
オトの大きな瞳が、小刻みに揺れる。
「時間がなんだよ。それに、お前のどこが神様なんだ? 俺のワイシャツを一枚だけ羽織ってベッドでゴロゴロして、お菓子を食べ散らかして部屋を汚して、お気に入りのシャンプーをこれでもかってくらい目一杯使って……」
口にしながら、俺の目から熱いものが溢れた。
「でもさ……それが、俺の知ってるオト、お前なんだよ」
俺はボサボサに乱れた彼女の黒髪を、今度は愛おしさを込めてそっと撫でた。
「人として短くしか生きられなかったなら、これからの時間は……俺と生きよう」
オトの目から、大粒の涙が零れ落ち、胸元を濡らしていく。
俺は彼女の涙をシャツの袖でそっと拭い、少し照れくさそうに笑ってみせた。
「そしてさ……いつか、俺が死んだら……」
「俺のことを……忘れないでくれ」
その言葉に、オトは一瞬だけきょとんとした顔を見せ、それから、かつての彼女らしい悪戯っぽい、けれど心の底から愛おしそうな微笑みをその唇に咲かせた。
「ふふっ……『君を忘れない』じゃないんだね」
「そうだったな。……でも、俺らしいだろ?」
「ええ。本当に、あなたらしいわ」
オトは照れくさそうに少し笑みを浮かべた。
「……ウチは絶対に忘れへんよ、紡くん。『秘密』もいっぱいあるしな」
張り詰めていた空気を破るように、背後からクレハの元気な声がした。
「わたしもですわ、主様。このアナハからは死んでも逃げられませんわ」
アナハがいつもの笑みで、一歩前に出る。
「そうじゃ、 我も楽しかったぞ! 紡のことは百年先まで語り継いでやる!」
エヒメがいつもの笑顔で腕を組んだ。
「……みんな、ありがたいけど、俺が今すぐ死ぬみたいに言うなよ!」
俺のツッコミに、オトが、そして三姉妹が、夕暮れの静かな鳥居の下で大きな笑い声を上げたのだった。
「紡、あなたらしいわ」
「そうだな、紡ならこうすると思ってたがの」
「ふふっ……」
ふいに、俺の耳にそんな声が届いた。
周囲を見渡すが、そこには俺たち五人以外、誰もいない。
あの声は……。
きっと……宗像の地の神は、俺のこの先の『航海』を……見守ってくれるだろう。
——終——




