第119章 そうか、オト
第119章 そうか、オト
「なあ、オト。どうしたんだよ、こんなに汚れてさ。どこかで転んだのか? 怪我はないか?」
返事はない。
「髪、ボサボサじゃないか。帰ったらさ、あの、お前が気に入ってたオーガニックシャンプー……あれ、いっぱい使って俺が洗ってやるから。な?」
俺はシャツの袖で汚れた彼女の頬をそっと拭いた。
それでも、オトは微動だにしない。
「靴も、こんなに泥がついて……」
居ても立ってもいられなくなった俺は、その場に膝をついて座り込み、自分の手で、彼女のハイヒールについた泥を必死に拭い始めた。
「……結構汚れてるな。全然とれないや……」
「紡、やめろ!」
エヒメの、これまでに聞いたこともないような叫びが、静まり返った森の木々を激しく揺らした。
「やめないよ!!」
地面に膝をついたまま、俺は叫び返していた。
視界が涙で歪んでいく。
「やめるもんか! せっかく会えたんだ! やっと、やっと見つけたんだぞ……っ!」
俺は立ち上がり、オトの細い手首を掴んだ。
「大きい声出して悪かったな、オト。……帰ろう、俺の部屋に」
手を引く。
けれど、オトの身体は動かない。
「どうした? 歩けないのか? ……そうか、転んだときに怪我したんだな」
俺は溢れそうになる涙を手の甲で強引に拭うと、その足元で深く腰を落として背中を向けた。
「……また、おんぶしてやるよ」
あの日、夜の街で、甘えた彼女を背負って歩いたあの時のように。
「さあ、来い!」
俺は背中で、かつて愛した日常の温もりが戻ってくるのを、じっと待ち続けた。
静寂が、神社の階段下を支配していた。
背中を向け、屈み込んだままの俺の前で、ずっと虚ろだったオトが、ついにその乾いた唇を開いた。
「わたしは……神の力を使い切り、人に近づこうと思ったの」
その声はかすれていて、かつての美しい響きはどこにもなかった。
「だが、わたしを信仰する者が……」
「お前が今まで教えてきた、あの弟子たちか……?」
エヒメがオトも睨みつけた。
「わたしは、その信仰を恨み……この生を恨んだ。その果てに、わたしがなれた姿は……あの、姿……」
背後で、クレハが息を呑む音が聞こえた。
「……和歌山でウチらが見たあの怪異は……オト姉様だったの……?」
「わたしは、荒御霊にすらなれなかったわ」
オトの冷たい手が、ゆっくりと俺の肩に触れる。
その指先が、狂おしいほどの執着で俺の肩に食い込んだ。
「だから、紡……わたしと一緒に来て!」
「オト! お前も分かっておろう!」
エヒメの、絞り出すような声が響く。
「功績無き者が、神になることなどできぬことを! 理を違えるな!」
「だから!!」
オトが叫んだ。
「わたしの残ったすべての力で、紡に時間を与えるの! 何百年もの時間を!」
「紡を……紡をそんな祟り神や、怪異の同類にでもしたいのか!?」
エヒメの悲鳴のような叫びに対しても、オトはただ、狂おしいほどに純粋な瞳で俺の背中を見つめ続けた。
「それでも……! 同じ時を、同じ世界を生きられるなら、わたしは構わない!」
オトの涙が、俺の背中にポツリと染み込んでいく。
「紡……あなたなら、わかってくれるはず。ずっと、わたしの隣にいてくれるって……」
緊迫しきった空気の中、俺はゆっくりと立ち上がり、オトの方へと向き直った。
俺は、優しく彼女の瞳を真っ直ぐに見つめて、微笑んだ。
「……そうか、オト……ありがとう」
「紡――っ!!」
その言葉が、何を意味するのか。
エヒメ、クレハ、アナハの、絶望に染まった声が、夕暮れの山へと木霊した。




