第118章 ほどけた糸
第118章 ほどけた糸
アナハも警戒を強める中エヒメを見る。
小さく悲鳴を上げて俺の背中にがっしりと抱きつき、盾にするように隠れた。
「紡! あれはダメじゃ、我はああいう気味の悪いのは大の苦手なのじゃ……!」
「神様だろお前……! ってか、めちゃくちゃ引っ張られて動けない!」
「前に言ったじゃろ、わざわざ神の前にでてくる怪異などおらぬと……」
「主様、神社まで辿り着ければ結界があるので安心ですが、ここからではまだ少し先ですわね」
「ウチも、さすがにこの山道で三人同時に引っ張って走るんは無理やわ」
クレハがそう言うと、肩に掛けていたカバンを地面に降ろし、中に手を突っ込んだ。
その動作を見た瞬間、俺の脳裏に、これまでの旅で植え付けられた最大の恐怖がフラッシュバックした。
「ま、待てクレハ! あれを着るのは絶対に嫌だぞ!!」
「え? なんや突然大声出して?」
「『猪の目』のTシャツだろ!? 」
「『機尋』より、あのハートマークがデカデカと刺繍された、あの『モテない男のハートマークTシャツ』を着せられる方が、俺にとってはよっぽどトラウマなんだよ!」
必死に拒絶する俺を見て、クレハは呆れたように一瞬動きを止める。
それからクスクスと笑い出した。
「何いうてんのや、紡くん。今回はそんなんやないって。そもそも紡くんには、『組紐』があるんやから、あいつらも直接は襲ってはこれへんと思うで?」
「……そうだったな……。取り乱して悪かった」
自分の勘違いが恥ずかしくなり、俺は咳払いをしてエヒメの背中を支えた。
クレハがカバンの奥から取り出したのは、小さな袋だった。
「ほら、これや。糸島で織恵ちゃんへのお土産に買うといた『またいちの塩』やで」
それは、旅の途中で立ち寄った糸島の名産である、あの有名な天然塩だった。
お土産用にキープしていた神聖な海の塩を、クレハは魔除けとして片手にしっかりと握り直した。
「よし、これでバッチリや。……それにしても、なんでこんなところまで付いてきとんねん、あいつ」
クレハが山奥の闇を睨みつけ、ポツリと不機嫌そうにつぶやく。
怪異を遠ざける塩を携え、俺を引っ張る姉妹のぬくもりを背中と腕に感じながら、俺たちはオトの待つ『縫殿神社』の核心へと、さらに深く歩みを進めていった。
山道を抜け、縫殿神社の境内へと続く古びた石階段の下。
その鳥居の前に、一人の女性がぽつんと佇んでいるのが見えた。
……一目で、分かった。
「オト……!」
その名を叫び、俺は駆け出していた。
だが、そんな俺の背中に、鋭く強い制止の声が突き刺さる。
「紡、待て! 」
エヒメの声だった。
けれど、今の俺の耳には何も届かない。
構わず足を進め、ようやくオトの目の前まで辿り着いた俺は、そこで自分の目を疑った。
「……オト、なのか……?」
いつも艶やかに美しかった黒髪はボサボサに乱れ、いつも胸元が大きく開いてるシャツはシワだらけでボタンも所々とれている。
タイトスカートのスリットは無惨にほつれ、洗練されていた高いハイヒールには、べっとりと黒い泥がこびりついていた。
「どうしたんだよ、その格好……一体、何があったんだ……?」
「紡、こちらへ戻れ! 」
背後から響くエヒメの声。
「何言ってるんだよ、エヒメ! オトだよ? オトだぞ!」
「ちゃうで、紡くん……」
「主様、お戻りになって……」
クレハとアナハの声までが悲痛に重なる。
「お前ら、またいつもの冗談だろ? オトだよ、お前たちの、オト姉様だろ!」
俺は必死に笑みを作ろうとしながら、目の前のオトに向き直った。オトは虚ろな目で、ただじっと俺を見つめている。
その瞳には、かつての知性も、俺をからかうような悪戯っぽさも、何一つ映っていない。




