第116章 おかえり、エヒメ
第116章 おかえり、エヒメ
神威の残余に当てられ、俺は中津宮の境内で膝をついたまま、どうしても立ち上がることができずにいた。
呼吸を乱し、地面を見つめる俺の身体を、不意に優しく力強い腕がそっと包み込んだ。
「エヒメ……」
「すまなかったな、紡……」
耳元で聞こえたのは、厳島神社で市杵島姫神を前に、自分を犠牲にしてでも俺の望みを叶えようとした、あのエヒメの声だった。
俺を抱きしめる彼女の腕に、力がこもる。
「我が間違っておった。誰かを助けるために、誰かを失うということは……残された者に、それ以上の悲しみを与えてしまうのだな」
「エヒメ……」
「我は、かつてのあの時と同じ過ちを、また繰り返しておるだけじゃった」
自嘲気味に呟く彼女の言葉を遮るように、俺は残った力を振り絞って声を張り上げた。
「お前はただ、強くて、優しすぎるだけなんだよ」
「紡……」
「市杵島姫にも湍津姫にも、こっぴどく叱られたのじゃぞ。人の心を蔑ろ(ないがしろ)にするな、とな」
少し困ったように笑う彼女のやわらかい胸の中で、俺の頭にポツリと、温かい雫が落ちてきた。
「姉様!」
少し離れた場所から、クレハとアナハの声が響いた。
エヒメは俺を抱きしめたまま顔を上げ、愛おしそうに二人の妹たちを見つめた。
「お前たちも、よくぞここまで来てくれたな。紡を支えてくれて……本当に、ありがとうな」
「姉様!」
クレハが目を潤ませながら大きく頷く。
すると、その隣でじっと俺たちの抱擁を見つめていたアナハが、すっと一歩前に踏み出した。
「姉様、お気持ちは大変よく分かりますが……そろそろ、交代をお願いしてもよろしいかしら?」
エヒメの胸から離れ振り向くと、そこには両腕を大きく広げ、満面の笑みで待機しているアナハの姿があった。
「アナハ、お前……」
思わずツッコミを入れたくなると、エヒメはクスリと、いつもの悪戯っぽい笑みを浮かべて俺の頭を撫でた。
圧倒的な神威に押し潰されそうだった俺の心は、帰ってきた彼女たちのぬくもりによって、完全に解きほぐされていた。
「では、行こうか」
エヒメが長い髪を風に揺らしながら、前を見据えて言った。
「そうだな。……オトに会いに!」
俺が応じると、エヒメは俺たちの顔を順番に覗き込んできた。
「その前に、まずは腹ごしらえじゃな。……まさかお前たち、我がおらぬのをいいことに、自分たちだけで美味しい物を食べたのではないだろうな?」
ギクリとした。昨夜の玄界灘の豪華な海鮮料理が脳裏をよぎる。
俺は慌てて引きつった笑みを浮かべ、両手を振った。
「そ、そんなわけないだろ! お前のことを考えたら、心配で飯も喉を通らなかったよ。なあ、クレハ、アナハ?」
「あ、うん! 喉を通らんかったなぁ!」
「ええ、全くその通りですわ」
あからさまに目を逸らしながら調子を合わせる姉妹。
そんな他愛のないやり取りに、エヒメは楽しそうに声を上げて笑った。
だが、みんなで歩き出す俺の胸の奥には、湍津姫神が最後に言い残したあの言葉が、刺さったままだった。
『弟媛は今、正常に話せる状態か分からんが……』
——オト……お前に、一体何が起きているんだ?
神宿る島を後にするフェリーの汽笛が、玄界灘の海原へ重く響き渡っていた。




