第115章 もう一度、その名を
第115章 もう一度、その名を
フェリーを降り、潮の香りを纏いながら歩みを進めた俺たちは、ついに中津宮の前に立っていた。
それは、あの厳島神社のような鮮やかな朱塗りではない。
長い年月を経て木肌が渋く燻された、圧倒的な歴史と風格を感じさせる佇まいだった。
拝殿の前で静かに手を合わせ、目を閉じる。
——オト、お前は一体、どこにいるんだ……。
参拝を終え、導かれるように境内を回る。
やがて、小さな川を挟んで佇む『牽牛社』と、その対岸にある『織女社』の祠を見つけた。
「これが、大島の天の川だな……」
呟いた瞬間だった。
優しく降り注いでいた陽の光が、川の流れに乱反射し、白い輝きとなって一瞬で俺の視界を奪い去った。
思わず顔の前にかざした手を、ゆっくりと降ろす。
……その時、すでに世界は変貌していた。
「クレハ! アナハ……っ!?」
「ここですわ、主様」
「ここにおるで、紡くん」
慌てて振り返ると、『神御衣』姿の二人は平然とした顔で俺の傍らに立っていた。
安堵し、弾かれたように視線を正面へと戻す。
そこには、いつの間にか一人の女性が静かに佇んでいた。
その身から放たれるのは、これまでに出会ったどの神とも一線を画す、肌がヒリつくほどの圧倒的な神気。
「呉織、穴織、そして人の子。遠くまでご苦労じゃったな」
「湍津姫神様……」
そのあまりの威圧感に、俺の身体は完全に硬直した。
声を出すことすら、喉が拒絶する。
「兄媛を、迎えにきたのじゃろ?」
「はい!」
クレハとアナハが、真っ直ぐな声で同時に返事をする。
湍津姫神はふっと満足そうに微笑むと、流れるような動作でその美しい袖を大きく振った。
「エヒメ!」
俺の口から、自然とその名が溢れ出た。
袖の向こうから現れたのは、ずっと心配していた彼女の姿だった。
「心配かけたな、紡」
エヒメは、いつものように穏やかで優しい笑みを俺に浮かべてくれた。
「それでじゃ、人の子よ」
湍津姫神の、すべてを見透かすような冷徹で、けれど慈悲深い瞳が俺を射抜く。
「今回のことを、どうしたいのじゃ? ……おぬしを神域に引き込み、理を乱した弟媛を罰するか?」
「いえ……!」
俺が答えるより早く、アナハが毅然と言い放った。
「そんなことは、誰も望んでおりませぬ」
「そうじゃろな」
湍津姫神は低く笑った。
その声音には、俺たちの答えを最初から知っていたかのような響きがあった。
「会いたいんだ。会って、ちゃんと話がしたい」
俺は湧き上がる恐怖を抑え込み、必死に言葉を絞り出した。
オトが何を望み、なぜ俺を呼ぶのか。
それを知るまでは、終われない。
「弟媛は今、正常に話せる状態か分からんが……会ってやるが良い」
「どこへ行けばよろしいですか」
クレハの問いに、湍津姫神は遠くを見つめるように視線を巡らせた。
「もう、宗像に来ておる。すぐ会えるじゃろう。……紡よ、おぬしの心はすでに決まっておろう。我はただ、導くだけじゃ」
その言葉を最後に、湍津姫神は再び不敵に微笑んだ。
「ではな、絹縫姉妹よ。そして、人の子よ」
刹那、再び強烈な光の奔流が俺の目を刺した。
眩しさに耐えかねて手をかざし、そして次にその手を降ろした時――。
そこは、元の静かな中津宮の境内だった。
「う……あ……」
こちらの質問など一切受け付けず、ただ答えだけを置いていった圧倒的な存在。
その神威の残滓に気圧され、俺は緊張の糸が切れたように、膝から崩れるようにその場に倒れ込んでしまった。
激しく呼吸を乱す俺の視界に、一足の足元が映る。
「紡よ、本当に苦労をかけたな」
上を見上げると、そこには幻ではない、確かな実体を持った彼女が立っていた。
「エヒメ……っ!」
玄界灘からの潮風が、俺たちの間を優しく吹き抜けていった。




