第114章 固定
第114章 固定
俺はまた、あの夢を見ていた。
頭上の空が水面のように静かに揺らぐ、あの不可思議な世界だ。
その揺らめく天の向こうから、長い髪の女性の姿が現れる。
——オトだ。
彼女は何も言わず、ただ真っ直ぐに、俺の方へと白く細い手を伸ばしてくる。
——近い。今なら、触れられる
俺は手を伸ばし、彼女の手を掴んだ。
確かな感覚があった。
オトは嬉しそうに、俺を自分の方へ引き上げ始める。
「オト……どこへ行くんだ……!」
問いかける俺に、彼女はただ静かに微笑むだけだった。
だが、俺の体はそれ以上『湖底』から浮き上がらなかった。
まるで強力な楔で地に縫い付けられているかのように引き留めている。
やがて、オトの手が俺から離れていく。
天へと帰っていく彼女の口元には、寂しげながらも、どこか少し満足そうな笑みが浮かんでいた。
「……オト!」
目が覚め、視界に飛び込んできたのは、ホテルの天井だ。
冷や汗を拭おうとしたが、腕が動かない。
「……うん!?」
夢か現実か分からず混乱する頭で自分の両脇を見ると、俺の体はクレハとアナハにピタリと抱きつかれ、完璧にロックされていた。
昨夜、真ん中にダイブした結果、両側から挟み込まれて『固定』されていたのだ。
あの幻想のような夢の中で、俺を地に繋ぎ止めていたものの正体を悟り、俺は戸惑う頭を振って、幸せそうに眠る姉妹を起こした。
朝一番のフェリーに乗り込み、俺たちはついに『神宿る島』、大島へと向かっていた。
甲板に出ると、遮るもののない玄界灘の強烈な潮風が頬を打つ。
「主様。中津宮の境内には、天の川が流れていますわ」
波しぶきを見つめながら、隣に立つアナハが静かに言った。
その言葉で、以前にアナハと二人で行ったプラネタリウムの記憶が蘇る。
一般的な七夕伝説とは少し違う、古来の天の川伝説が伝わっているのだと彼女は言っていた。
「主様があの川で禊をなさったら……その水面には、一体誰の姿が映るんでしょうね」
アナハは少しだけ視線を落とし、寂しそうな表情を浮かべた。
「俺は貴公子じゃないし、牛を飼ってるわけでもない。ただの普通の会社員だよ」
「……ふふ、そうですわね」
「でもさ」
俺は遠くに見えてきた島の影を見据えながら、少し笑って言葉を続けた。
「誰かを失うくらいなら、牛でもなんでも飼うよ」
アナハは一瞬目を見開いた後、嬉しそうにクスリと笑った。
「なんの話や?」
自販機で飲み物を買って戻ってきたクレハが、俺たちの間に割り込んで首を傾げる。
「別に。マンションで牛は飼えないって話だよ。神様くらいなら、いいけどな」
話の文脈が全く飲み込めないクレハが、さらに不思議そうに首を傾げる。
その様子がおかしくて、アナハと二人で顔を見合わせて笑ってしまった。
いよいよ、大島が目前にまで迫ってきた。
クレハが甲板の柵に手をかけ、島の中心にそびえる山を指差した。
「あ、紡くん見てみぃ! あの山の上からなら、田心姫神様のいらっしゃる『沖津宮』が見えそうやな!」
「おいおい、今日は御嶽神社までは登らないぞ。まずは中津宮だ」
「えー? 山って言うても、ビルの六十階くらいやで?」
「その例えは分かりにくいからやめろ……」
呆れる俺の隣で、クレハはケラケラと笑い、アナハは満足そうに微笑んでいる。
夢の中で感じたあの『固定感』の温もりを胸に、俺たちはついに、すべての結び目がある神宿る島へと足を下ろした。




