第110章 絡めた糸
第110章 絡めた糸
夜が明け、清々しい早朝の光が差し込む中、俺たちは再び石清水八幡宮の前に立っていた。
朝の空気はひんやりと冷たくて心地いい。
「……ケーブルカーは八時からか」
駅の案内板を見ながら俺が呟くと、隣のクレハがニヤニヤとこちらを見てきた。
「紡くん、そんなにケーブルカーに乗りたかったん?」
「そうじゃないけど……八幡宮がある男山って、結構な山の上だろ? 歩くのは大変かと思って」
「山って言うても、百メートルほどやで?」
「そんなに低いのか?」
「そや。ビルにしたら三十階ほどやね」
「……高いな。普通に高層ビルじゃないか」
完全にエレベーターに慣れきった現代人の感想を漏らすと、クレハは笑いながら、俺の手を引いて、御本殿へと続く石段を歩きだした。
「そんなん言うてたら、いつまで経っても八幡様に会えへんで。ほら、行くよ!」
「お、おい……。本当に八幡様に会えるのか?」
「会えるって。ウチの神様レーダーが、さっきから反応しとるわ」
「そんな便利なものがあるのか?」
「ふふ、冗談やって」
そんな他愛のない会話を交わしながら一歩一歩、緑に包まれた参道を登っていく。
やがて視界が開け、山頂近くに佇む御本殿が姿を現した。
周囲の深い緑に、大きく鮮やかな朱塗りの社殿が美しく映えている。
「国宝なんだ……。やっぱり、もの凄い格式だな……」
「紡くん、こっちや」
その厳かな佇まいに思わず感心していると、クレハがと俺の腕をを引っ張り、本殿の脇をすり抜けて展望所へと俺を連れて行った。
そこからは、京都の街並みが一望できた。朝日に照らされ、広がる景色は息をのむほどに美しい。
「ええ景色やろ?」
「あ、ああ。……そうだけど、俺たちは八幡様に会いに来たんだぞ?」
「そこや……」
「えっ!?」
クレハが視線を向けた、その瞬間だった。
展望所を、激しい風が吹き抜けた。
一瞬、強烈な風に目を伏せ、風が止むのを待ってからゆっくりと目を開ける。
それだけの間に、世界は完全に切り替わっていた。
都会の喧騒や遠くの街の気配が一切消え去った。
そして隣を見ると、クレハの姿が、あの丈の短い、軽快でありながら神聖な『神御衣』へと変わっていた。
「呉服大神か」
どこからともなく、深く威厳に満ちた声が響き渡った。
「はい。朝でございますので、この場所に御出座になられていると思っておりました」
クレハがいつになく恭しく頭を垂れる。
その視線の先、展望所から見える朝日の光の特等席に、圧倒的な存在感を放つ影が佇んでいた。
「はっはっはっ! さすがじゃのう、察しが良い」
豪快な笑い声が空気を震わせる。
その影は、ゆっくりとこちらへ振り返った。
「それで……そこの人の子は、紡か」
——なぜ、八幡様が俺の名前を知っているんだ?
動揺する俺を一見した。
その威圧感に気圧されそうになるのを堪え、クレハが一歩前に出て切り出した。
「八幡様。ウチらは、弟媛姉様を探しています」
「うむ……。あの娘、また姿を隠しおったか。前はよく、大和の国の元石清水に弟子達とおったものじゃがのう」
八幡様は懐かしむように目を細めた後、再びその鋭い眼光を俺へと向けた。
「その者との縁(糸)を、深く絡めてしまったようじゃな」
「絡めた……? 俺の糸をですか?」
俺が思わず問い返すと、八幡様は静かに真実を語り始めた。
「弟媛はな……人としての短い生に未練を残し、神となってからも、ずっと『人』に戻りたがっておった」
「しかし、それがどれほど困難なことであるかを思い知り……代わりに、おぬしという人間を、自分のいる神域へと引っ張ったのじゃ」
「よほど、おぬしの傍らの居心地がよかったのであろうな」
——オトが、俺の傍にいたがっていた?
神様としてではなく、ただの人間として、俺と同じ時間を生きたがっていた。
胸の奥が、ぎゅっと締め付けられるように痛む。
昨夜クレハが言っていた『時間を継ぎ合わせたかった』という言葉が、あまりにも重く脳裏に蘇った。




