第104章 時を逆行する糸
第104章 時を逆行する糸
「大きい島だな。宿泊施設もお店も多いし、普通に観光地として栄えてるんだな」
フェリーを降り、厳島神社へと続く参道を歩きながら俺が感心して呟くと、隣を歩くエヒメが口を開いた。
「まぉな。じゃが、コンビニはないがのう」
「……それが神の言う言葉か? もっとこう、厳かな感想とかないのかよ」
そんな軽口を叩きながら、俺たちは朱塗りの美しい厳島神社の境内へと足を踏み入れた。
本殿で旅の無事を祈り、参拝を済ませる。
あたりは多くの参拝客や外国人観光客で溢れかえっていた。
「なぁエヒメ、どこで会えるんだ? これだけ人が多いと、見つけるのも一苦労だし、そもそも神様がこんなところに……」
「観光は済んだか?ここではないぞ」
「なんだよ、ここじゃないのか……」
「まあ、せっかくだからデートというものじゃ」
エヒメは軽く笑って、俺を見た。
俺たちは海に浮かぶ大鳥居が見える、海沿いに来た。
さぁっと一陣の強い風が吹き抜け、瀬戸内の水面を激しく走る。
海面に反射する陽光がチカチカと視界を眩ませた。
次の瞬間。
耳を刺していた観光客たちの喧騒が、嘘のように完全に消え去っていた。
見回すと、あれだけいた周囲の人間の姿が、影も形もない。
この世界に存在しているのは、俺と、エヒメ。
……そして、少し離れた場所にぽつんと佇む、一人の女性だけだった。
彼女が、ゆっくりとこちらを振り向く。
その瞬間、俺は息をすることすら忘れ、声が出なくなった。
息を呑むほどの、この世のものとは思えない圧倒的な美しさ。
目の前の女性が纏う空気は、生物としての格が違うと本能が告げていた。
「兄媛命……。あるいは、天衣織女命と呼ぶべきか?」
女性の視線がエヒメへと注がれる。
エヒメは深く頭を垂れ、いつになく神妙な声で応じた。
「市杵島姫姉様。兄媛で結構です」
「そうか、久しいな兄媛」
慈愛に満ちた目を向けたあと、市杵島姫様は俺へと視線を移した。
「この者との縁(糸)のことで、参りました」
「ふむ、わかっておる」
市杵島姫様は、静かに頷いた。
「兄媛の紡いだ糸は、確かに『始まり』じゃったな……」
「やはり、そうですか……」
エヒメがうなだれる。
彼女の肩が微かに震えていた。
「……こちらに近づいておるな。しかし、原因は兄媛ではない」
「じゃあ、俺が……」
俺が声を上げると、市杵島姫様は静かに首を振った。
「はじめはエヒメを通し、おぬしに繋がった。だがな、紡。今は『別の糸』がおぬしを強く引っ張っておるのじゃ」
エヒメが顔を上げ、悲痛な目で俺を見つめた。
「姉様! もし我が始まりなのであれば……我を消しても構いませぬ! だから、この者の、紡の希望を叶えてやって欲しい! 」
「エヒメ! お前、何を言うんだよ!?」
俺は叫んだ。
「紡、我がおぬしを巻き込んだようなものじゃ! 」
「違う! 俺の意志だ! それに……市杵島姫様、その『別の糸』って……あいつのことだろ」
俺の言葉に、市杵島姫様は微かに目を見開いた。
「そこまで理解していましたか。紡、あなたが伸ばした手は間違っていませぬ。そして、その手を留めたのもまた、あなたの宝です」
市杵島姫の視線が、紡の手首の組紐に落ちた。そのまま静かに天を見上げる。
「この縁は、過去と未来、その両方に伸びています。……我でもこの糸は切れませぬ。この糸の『主』に会うのです」
「あやつは……オトは、我の妹じゃ」
エヒメが、絞り出すような声で言った。
「妹の責は、我が負う……。我が、すべてを引き受ける……」
こんなエヒメを俺は見たことがなかった。
いや、本当は知っていたのかもしれない。
彼女がどれほど優しく、どれほど一人で孤独を抱え込んできたのかを。
「あなたは昔からそうです、兄媛」
市杵島姫様が、ゆっくりと歩み寄り、エヒメの手をそっと包み込んだ。
「全部自分で背負おうとする。それが、あなたの美しいところでもあり……弱さでもあります」
そのまま、市杵島姫様は俺を真っ直ぐに見据えた。
「紡よ、探しなさい。そして、決めるのです」
エヒメの身体からすうっと力が抜け、崩れ落ちる。
それを市杵島姫様は優しく己の懐へと抱きとめた。
「兄媛はわたしが預かっておきます。心配せずに行きなさい」
「エヒメ……!」
「人が神を忘れられないことはある。……神が人を忘れられないかのように。紡、あなたとオトの縁は、時を逆行し、強くなっている」
優しく、その言葉を残し、市杵島姫様と言葉を失ったエヒメの姿は、消えていった。
気がつくと、周囲はいつの間にか、夕日で赤く、赤く染まり朱色の光が、瀬戸内の海面を照らし出していた。




