第103章 海の彼方に置いてきたもの
第103章 海の彼方に置いてきたもの
宮島口のフェリー乗り場は、平日にもかかわらず多くの観光客で賑わっていた。
改札を抜け、フェリーへと乗り込む。
俺たちは客室を通り抜け、瀬戸内海の心地よい潮風が吹き抜けるデッキへと向かった。
船が静かに岸壁を離れ、白い引き波を立てながら、目的の宮島へと進み始める。
海を渡る風が、エヒメの白いブラウスと、長いプリーツスカートを優しく揺らした。
遠くに見える島影を眺めながら、俺はふと思い立って声をかけた。
「なぁエヒメ。お前たち姉妹も、大昔にこうやって船に乗って海を渡ってきたんだろ?」
「そうじゃな……」
エヒメは手すりに手をかけ、眩しそうに目を細めて海を見つめた。
「あの時はこのような立派な船も電車もなかったからの。この国に辿り着くまで、四年間ほどかかったわ。本当に、大変な旅じゃった……」
「四年!? そんなにかかったのか」
「うむ。ようやくこの国に辿り着いた時には、あらかじめ聞いておった八幡様(応神天皇)はもう崩御された後でのう。じゃが、次の代の仁徳天皇にも、我らは随分と良くしてもらってな……」
「そうなんだ……。本当に、歴史の中を生きてきたんだな、お前は」
改めて、目の前にいる少女のような神の、果てしない時間を実感して溜息が出る。
「……なぁエヒメ」
「なんじゃ?」
「前に海を渡るとき、片方の衣を無くした『因果』の話をしてただろ? 『両方揃えて履くと穴が開』く、みたいなやつ」
「そうじゃ。それがどうした?」
「いや、今日は……ちゃんと両方の靴下、揃っているなと思って」
「穴が開いていると思っておったのか?」
俺がエヒメの足元に視線を落とすと、エヒメは不敵に笑い、スカートの裾を少しだけ持ち上げて、俺に足首を見せてきた。
「よく見ろ、紡。ここが少し違うだろ?」
「え……?」
差し出された足首を凝視する。少し照れつつもよく見ると、左右の靴下の丈の長さや、折り返しの刺繍のデザインが、違っていた。
「あ……気づかなかったよ」
「そうじゃ。はじめから違えば、揃わぬことで悩むことはないからのう」
「なるほどな。……やっぱりお前は、いつまで経っても『片っぽ靴下さん』だな」
エヒメは、その視線を再び遠い海へと戻し、ぽつりと、どこか哀愁を帯びた声で呟いた。
「……長く生きておれば、なくす物も多いわ」
「エヒメ……?」
「衣だけではない。人との縁も、かつての同胞も、数え切れぬほどのものを、わらわはあの海の彼方に置いてきてしまったからのぅ……」
「……寂しかっただろうな」
「良く松の下で、姉妹揃って海の向こうを懐かしんだものじゃ……」
自嘲気味に微笑むエヒメの横顔には、長い年月の孤独を背負った本物の『神』の気高さがあった。
フェリーのエンジン音が低く響くなか、俺たちの乗った船は、ゆっくりと大鳥居の待つ神の島へと近づいていく。
エヒメの失くしてきたものの重さを胸に感じていた。




