第102章 伸ばした手の先
第102章 伸ばした手の先
「ここは……あの世界か……」
薄明のなかで、俺は直感的に理解していた。
あの独特の、現実から遊離したような奇妙な感覚。
天を見上げると、ゆらゆらと波打って見えた。
上空から、幾筋もの淡い光の矢が所々に差し込んでくる、
静寂に満ちた世界。まるで、深い海のような、幻想的な青の領域。
その光の波を割るようにして、誰かがこちらへと近づいてくる。
すらりとした体に、水中にたゆたうような長い髪を持った、一人の女性。
——オト……!?
間違えるはずがなかった。
彼女は何も言わず、ただ静かに俺へと手を伸ばしてくる。
愛おしさと懐かしさに突き動かされるように、俺もまた、彼女の手を掴もうと右手を伸ばした。
あと少しで、その指先に届く。
その時。
何かが俺の右腕に強く絡みつき、引き留められた。
視線を落とすと、俺の腕に巻き付いていたのは、あの『組紐』だった。
——なぜ?
俺の様子を見て、彼女は動きを止めた。
そして、俺の腕の組紐を見つめると、うっすらとした笑みをその唇に浮かべた。
彼女はゆっくりと光の泡の中に溶け込むようにして、遠ざかっていく。
そのまま俺の意識は、現実の光へと浮上していった。
「エヒメ、そろそろ起きないと。朝飯食えないぞ?」
「うむ……そうじゃな」
もぞもぞと這い出てきて、ベッドの上で小さく伸びをするエヒメ。
俺は、今見た夢のことをエヒメには言わず、そっと右手を持ち上げた。手首の組紐をじっと眺めなた。
ホテルの一階にある朝食会場のビュッフェで、俺たちはトレイを手に並んでいた。
和洋折衷さまざまな料理が並ぶカウンターを前に、エヒメはなぜか小さなお皿を一枚持ったまま、神妙な顔で立ち尽くしている。
「エヒメ、それだけでいいのか? いつもの食欲はどうしたんだよ」
「……これだけ多くの食べ物を一気に目の前にされると、逆に何から手を付けてよいか分からず、食べづらいものじゃな」
「そういうものか?」
「うむ。我が食うには、紡の部屋の冷蔵庫を漁るくらいがちょうどよいわ」
そう言って笑ってはいるが、その瞳の奥にはどこか落ち着かない色が浮かんでいた。
これから厳島神社に向かい、市杵島姫に会うことに、神である彼女なりに緊張しているのだろうか……。
そんな俺の神聖な心配は、数分後に見事に裏切られることになる。
「少し様子が分かってきたぞ」
エヒメは呟くや否や、ビュッフェカウンターを計三回周回し、いかにも満足そうに『そこそこ』の量を平らげたのだった。
そこそこ心配して損した。
部屋に戻ると、エヒメが新大阪で受け取った紙袋に手を伸ばし着替え始めた。
「あ、ちょっと待て。部屋の外で待つよ」
エヒメは呆れたように笑った。
「おぬし、今更何を照れておるのじゃ。こんな、ベッドが二つも並んでおる部屋に、我を連れ込んでおきながら」
「まだそのツインルーム理論にこだわっているのか……。じゃあ、背を向けてるよ」
俺は衣擦れの音を聞きつつ、気になっていたことを質問した。
「なぁエヒメ。なんで次女の湍津姫様じゃなくて、三女の市杵島姫様なんだ?」
「市杵島様の方が、まだ話がしやすいからのう」
「仲がよかったのか?」
「うーむ、どちらかと言えば、我は次女の湍津様のによく引っ張り回された記憶がある」
「エヒメを無理やり引っ張り回す神様なんて、なんか想像するだけで凄いな……」
「ふふん、神代の姉妹などそんなものじゃよ。……よし、もうこちらを見てもよいぞ」
エヒメの声に、俺はゆっくりと振り向いた。
そして、その姿に言葉を失った。
そこにいたのは、俺が想像していた古風で重々しい装束ではなかった。
上衣は清潔感のある白いブラウス、下は動きやすそうな丈の長いプリーツスカートに見えた。
それは、かつての『朝服』のシルエットとラインを残しながらも、驚くほど現代風に、アレンジされた特別な一着だった。
「……似合っているな、すごく」
「そうじゃろう。クレハもアナハも、随分と腕を上げよったわ」
エヒメは満足げに、袖口の縫製や生地の端を確かめている。
「……少し触れてもいいか?」
言ってから、少しデリカシーのない聞き方だったかと後悔したが、エヒメは気にする風もなくと小さく笑った。
「よいよい、触れてみろ」
俺はできるだけエヒメの身体に直接触らないよう、肩のラインやスカートの生地にそっと手を触れた。
手のひらに触れた生地は、麻のようなしゃりとした心地よい張りを持ちながら、同時に絹のように滑らかに指先を滑っていく。
「ありがとう。俺には詳しいことはよく分からないけど……これが、もの凄く手の込んだ良い服だってことだけは分かるよ」
俺が手を引こうとした、その瞬間だった。
エヒメの手が、俺の右手を、ぎゅっと強く掴んだ。
「紡よ……」
引き締まった、声が部屋に響く。
「これから何が起ころうとも、決して自分を見失うな」
今朝の夢の光景が、脳裏をよぎる。
腕に巻き付いた組紐の感触が、確かにそこにある。
「……ああ、わかったよ」
俺が頷くと、エヒメは掴んでいた手を離し、少し背伸びをして、俺のスーツの襟元を優しくなおした。
そして、ポンポンと、励ますように俺の肩を優しくなでる。
「うむ。では行くか、紡。宮島の神に、会いに行こうぞ」
「ああ、行こう」
俺たちはホテルを後にし、ついに瀬戸内の宮島へと向けて出発した。




