第九十六章 ラウンジで休憩~若葉の歓迎会をしよう
デルタ大陸の今後の方針を考える会議が終わった。
神子本部神殿の中に、少しだけ気の抜けた静けさが戻ってきた。
先程まで、中央卓の上に並んでいたデルタ大陸の赤茶けた地形図も、毒々しい色の地衣類の拡大映像も、拘束された大型個体の断面図も、いまはもう消えている。
壁面の表示は、通常の拠点運用画面に戻り、窓の外には、いつも通りの扶桑の海が見えていた。
それだけで、ずいぶん気分が違う。
もちろん、問題が解決したわけじゃない。
デルタ大陸は相変わらず厄介だし、今後も監視しなければならない。
でも、会議の場で結論が出ると、人の頭は少しだけ「次の呼吸」を取り戻せるらしい。
僕は、中央卓から少し離れて、ラウンジ側の窓際へ移動した。
海が見える。
高台の下では、建設用ドローンがまだ何機か動いている。
風は穏やかで、空は、もうだいぶ午後の色へ傾いていた。
「ふう……」
思わず、そんな声が漏れる。
すると、後ろから、ぱたぱたと小さな足音がした。
「ゆがんでた?」
若葉だった。
振り向くと、若葉が少しだけ首を傾げてこちらを見ている。
たぶん、会議の中で何度も出てきた「歪み」とか「干渉」とか、そういう単語の印象が残っているのだろう。
「うん。ちょっと歪んでた」
僕がそう答えると、若葉は、少しだけ眉を寄せた。
「へんなの、いた」
「いたよ」
「もう、こない?」
その問いに、僕は少しだけ言葉を選んだ。
大丈夫だよ、と即答したい。
でも、完全には言い切れない。
「すぐには来ないと思う」
僕は、できるだけ穏やかな声で言った。
「でも、来ても大丈夫なように、ちゃんと見張ることにしたから」
若葉は、その言い方を自分の中で確かめるように、少しだけ考えた。
それから、小さく頷く。
「みはる」
「うん」
僕は、若葉の方を見て応えた。
「ちゃんと、みはるよ。分からないまま怖がるよりは、ずっといい」
若葉は、全部を理解しているわけではないだろう。
それでも、「へんなの」はまだいるかもしれないことと、「ちゃんと見張る」ことだけは分かったらい。
「わたしも、みてる」
その言葉に、僕は少し笑った。
そうだ――若葉も、僕たちも、青葉も、ブライアントも、みんなで見ていくのだ。
扶桑の海も、森も、河も。
そして、デルタ大陸の乾いた荒野も、その地下に眠るものも。
神子本部神殿の窓の外には、今日も海が見える。
その穏やかさの向こうに、もう一つの顔を持った大地がある。
この星は、きれいだけど、同時に厄介だ。
だからこそ、面白いのかもしれない。
そして、だからこそ、守る価値があるのだろう。
その時、ジェプラが、お茶の乗ったトレイを持ってラウンジ側から歩いてきた。
「お二人とも、少し休まれてください」
その言い方が、いかにもジェプラらしい。
会議が終わったあと、まず空気を切り替えるための飲み物を持ってくる。そういう細やかさがある。
トレイの上には、湯気の立つカップが三つと、小さな焼き菓子のようなものが並んでいた。
もちろん、全部が完全な意味で地球由来ではないのだけれど、見た目としてはかなり“お茶とおやつ”だった。
「ありがとう」
僕が受け取ると、ジェプラは少しだけ安心したように微笑んだ。
「弓良殿、会議のあいだ、ずっと難しい顔をしておられましたから」
「え、そうだった?」
「しておられました」
きっぱりだった。
その横で、若葉もこくりと頷く。
「してた」
「若葉まで……」
僕が苦笑すると、ジェプラは、少しだけおかしそうに目を細めた。
「でも、そういう時の弓良殿は、ちゃんと“考えている顔”なので、私は、好きですよ」
その言い方が、なんだか不意打ちみたいで、僕は少し返事に困った。
「ありがとう……?」
「はい」
ジェプラは、すごく自然に頷いた。
若葉は、そこで焼き菓子に気づいたらしく、じっと見上げている。
「これ、たべるの?」
「食べるよ」
僕が言うと、若葉は少し嬉しそうにした。
機怪人形の身体では、食べることは必要ではない。けれど、味や食感を知ることは、若葉にとって明らかに“楽しいこと”になりつつある。
ジェプラが、小さな皿を若葉の前へ置く。
「これは少し甘いです。たぶん、お好きだと思いますよ」
若葉は、そっと一つ手に取った。
少しだけ匂いを確かめて、それから、かじる。
しばらく、もぐもぐと静かに味わってから、若葉は顔を上げた。
「……さくさく」
「うん」
「……すき」
その感想に、ジェプラがすごく嬉しそうな顔をした。
「よかったです」
その様子を見ていると、さっきまでのデルタ大陸の話が、ほんの少し遠ざかる。
こういう時間も必要なのだろう。
ずっと緊張したままだと、たぶん、どこかで判断が歪む。
だから、こうして、お茶を飲んで、若葉の「さくさく」を聞いて、ジェプラがそれに喜んでいるのを見るくらいが、ちょうどいいのかもしれない。
「ジェプラは?」
僕が聞くと、ジェプラは少し驚いたように自分を指した。
「私、ですか?」
「うん。会議の間、だいぶ真面目な顔してたけど、怖かった?」
その問いに、ジェプラは少しだけ考えた。
それから、正直に言う。
「怖くなかった、と言えば嘘になります」
その返答は、変に格好をつけていなくて、よかった。
「あの大陸に何かがおかしいということも、その地下に、こちらの都合だけで触れてはならないものがあるかもしれないということも、よく分かりました。ですが……」
ジェプラは、そこで窓の外の海を見た。
「それでも、扶桑が悪い星だとは思いません」
その言葉に、僕は少しだけ目を瞬いた。
ジェプラは、そのまま続ける。
「海も、森も、河もある。若葉さんが歩けるようになりました。危ないところがあるからといって、その全部が損なわれるわけではありません」
それは、たぶん、いまの僕に必要な言葉だった。
デルタ大陸を見て帰ってきたあと、僕の中では、扶桑の印象が少しだけ複雑になりすぎていた。
きれいな星だけど、同時に危うい星でもある。
その両方が、うまく重ならずにいた。
けれど、ジェプラの言い方は、とても単純だった。
危ない場所があるけど、それで他の良いものが消えるわけではない。
だから、両方を含めて守る。
たしかに、その通りだ。
「そうだね……」
僕は、カップを持ち直しながら言った。
「全部ひっくるめて、この星なんだろうな」
「はい」
ジェプラは、嬉しそうに頷いた。
若葉は、その会話の意味を、全部は分かっていないだろう。
しかし、自分にも関係があることだと思ってはいるようだ。
「ふそう」
そう言って、若葉は少しだけ胸を張った。
「わたしの」
その言い方が、妙に可笑しくて、でも、すごく自然だった。
「うん」
僕は笑って答えた。
「若葉のでもある」
「わたしの、おうち」
「そうだね」
ジェプラも、その言葉に柔らかく目を細めた。
「みんなのおうちです」
その一言で、なんだか本当に、この建物の空気が少しだけ変わった気がした。
拠点、神子本部神殿、扶桑、神域――。
いろいろな言い方はある。
でも、若葉の言う“おうち”という言葉が、いまは一番しっくりきた。
その時、ラウンジの入口の方から、青葉がこちらへ歩いてきた。
機怪人形ボディの方の青葉だ。会議のあいだずっと淡々と結論をまとめていたのに、今は、少しだけ空気がやわらいで見える。
「弓良、表情が少し戻りましたね」
「戻った?」
「はい。会議の終盤は、デルタ大陸の断面図を睨みつけているようでした」
「そんな顔してたかな……」
「していました」
青葉は、いつもの落ち着いた調子で言った。
でも、その声には、ほんの少しだけ、愉快に思っている気配があった。
ジェプラが、すぐに同意する。
「しておられました」
「若葉も言ってたね……」
僕が額を押さえると、青葉は、静かにカップを受け取りながら言った。
「ですが、結論は妥当でした。あの場で無理に“解決策”まで決めようとしなかったのは正解です」
「それ、褒めてるのかな?」
「褒めています」
そうはっきり言われると、ちょっとだけ照れくさい。
「ありがとうございます、青葉さん」
ジェプラが、お茶を渡しながらそう言うと、青葉は軽く頷いた。
「いえ。ジェプラがこの場の空気を切り替えてくれたのも助かっています」
ジェプラは、その言葉に少しだけ目を見開いた。
それから、耳をぴんと立てて、嬉しそうに微笑む。
「……そう言っていただけると、報われます」
若葉は、青葉にも焼き菓子をすすめようとして、少し手を伸ばした。
「おねえちゃん、さくさく」
青葉は、その皿を見てから、若葉を見た。
「ありがとうございます。あとでいただきます」
若葉は、それだけで満足したらしく、こくりと頷いた。
その後、ギラもラウンジへ顔を出した。
『なんや、もうお茶会始まっとるやん』
「お疲れさま」
僕が声をかけると、ギラは翼を少しだけ広げる。
『お疲れさまやあらへん。わい、ちゃんと資材の動線見直してたんやで』
「知ってるよ」
『ならええけど』
そう言いながら、ギラも当然みたいに席へついた。
ジェプラが、少し呆れたような、でも慣れたような顔で、もう一つカップを出す。
「ギラさんも、どうぞ」
『お、気が利くなあ』
「気が利くのではなく、最初から人数分あります」
『そういうとこやぞ』
そのやり取りが、いつもの調子で、僕は少しだけ肩の力が抜けた。
ギラは、焼き菓子を一つつまんでから、若葉を見る。
『で、若葉は、もう“さくさく”したんか?』
若葉は、なぜかそれを自分の評価みたいに受け取ったらしく、真顔で頷いた。
「した」
『そらよかった』
ギラは、適当に返しているようで、でも、その目元は少しやさしい。
若葉は、そういう軽い会話にも、だいぶ慣れてきている。
最初の頃なら、たぶん意味が分からず固まっていた。
でもいまは、少し考えて、それから自分なりの返事を返せるようになってきている。
そのことに気づいて、僕はなんだか少し嬉しくなった。
ラウンジの外では、海風が吹いている。
遠くでドローンが一機、低く戻っていく音がした。
デルタ大陸の赤い荒野は、いまこの場にはない。
もちろん、問題そのものが消えたわけじゃない。
でも、こういう時間があると、ちゃんと“向き合うための余白”ができる。
僕は、湯気の立つカップを手にしたまま、窓の外の海を見た。
「また、ちゃんと見に行かないとね……」
誰にともなくそう言うと、若葉がすぐ反応した。
「また、へんなところ、みるの?」
「そうだね、また行くことになる、かも」
僕は、若葉を見て答える。
「でも、今度は、ちゃんと準備してからだね」
若葉は、その意味を全部は分からなくても、“もうすぐまた行くわけじゃない”ということは分かったらしく、小さく頷いた。
ジェプラが頷いた。
「はい。今日は、しっかり休んでください」
その言葉には、命令ではなく、純粋な気遣いがあった。
若葉も、それに続くみたいに言う。
「やすむ」
ギラは、焼き菓子をかじりながら肩をすくめた。
『休める時に休むのも、開拓者の才能やで』
青葉も、静かに頷いた。
「同意します。疲労を持ち越したまま考えると、判断が乱れます」
それぞれ、言い方は違う。
でも、言っていることは同じだった。
僕は、微笑んでから頷いた。
「うん。今日は、ちょっと休む」
デルタ大陸のことは、明日からまた考えればいい。
いまは、この海と、この建物と、この人たちのいる空気の中で、一度だけ深く息をついておこう。
そう思えた。
***
その夜、僕は、また神子本部神殿の自分の部屋にいた。
地上で過ごす夜も、少しずつ当たり前になり始めている。
といっても、まだ何日も経ったわけではない。
でも、昨日まで“新しい部屋”だった場所が、今日はもう“戻ってきた場所”みたいに感じられるのだから、人の感覚というのは案外、早く馴染むものなのかもしれない。
窓の外には、海が見える。
夜の海は昼よりずっと静かで、輪郭が曖昧だ。
湾の向こうには、巡洋艦『青葉』の灯が浮かんでいる。
完全に離れているわけではない。あの白い艦は、いつでもそこにあって、いざという時には動ける。そう思うだけで、少し安心する。
でも、今夜の僕は、昼間よりずっと静かな気持ちで、その灯を見ていた。
ラウンジでジェプラや若葉たちと話した時間が、思っていたより効いていたのだろう。
会議のあと、そのまま一人で部屋へ戻っていたら、たぶん、デルタ大陸の赤い地面と、あの大型の蜥蜴のことばかり考えていた気がする。
でも、若葉とジェプラの言葉のお陰で、少し、落ち着いた気がする。
僕は、部屋の照明を少し落として、窓辺の椅子に腰を下ろした。
床も壁も、夜になると少し色が暖色系に調整されるようだ。
地上用SERの電力でまわっている静かな部屋だった。SERは、空間があるという情報――宇宙の膨張そのものを、エネルギーに変換しているのだそうだ。
この建物の横に、そのSERがあるけど、ほとんど音はしないから、静かだ。
いや、この静けさは、巡洋艦『青葉』の中とは違う、少しだけ外の気配を含んだ静かさだった。
「デルタ大陸か……」
小さくそう呟いてみる。
口に出すと、やっぱり、あの景色が戻ってくる。
赤茶けた荒野に乾いた風、酸化した土の匂い、岩陰、基準杖の青白い光――。
そして、飛び出してきた、あの蜥蜴のような大型個体がいた。
……扶桑は、きれいな星だと思っていた。
海があり、森があり、河があり、若葉が歩いて、神子本部神殿があって、みんなでお茶を飲める場所だった。
その認識は、たぶん間違っていない。
でも、それだけではなかった。
デルタ大陸には、別の顔があった。
乾きすぎた地面と、あの大型個体だけでなく、小さな蜥蜴や、毒々しい色の地衣類もいた。
そして、地下に眠っていそうな、シャドーマターと干渉する鉱脈もありそうだ。
美しいとか、住みやすいとか、そういう言葉だけでは収まらないものが、同じ扶桑の中にある。
「難しい……」
僕は、そう呟いてから、少しだけ笑った。
ようやくちゃんと難しさを認められた時の笑いだ。
理想郷みたいな星なら、話はもっと単純だっただろう。
海も森も全部順調で、危険地帯もなくて、ただ港と町を広げていけばいいだけなら――ずっと楽だったはずだ。
けれど、たぶん、そうではないからこそ、扶桑は“本当の場所”になっていくのだ。
海の側だけを見て、きれいだな、住めそうだな、と言うのは簡単だ。
でも、反対側の大陸まで見て、その危うさや、厄介さや、昔の残骸みたいなものまで含めて、それでもここを拠点にしようと思うなら、少しだけ覚悟がいる。
たぶん、今日の遠征は、その覚悟のために必要だったのだろう。
僕は、椅子に座ったまま、少しだけ目を閉じた。
デルタ大陸は、厄介だけど、価値もありそうだ。
資源の可能性――シャドーマタークリスタルの鉱脈もそうだけど――他の大陸と違う、極限環境の生態系自体が、生物資源になるかもしれない。
または、もしかしたら、扶桑全体を理解するための鍵そのものが、あそこにあるのかもしれない。
危ないから近づかないだけでは済まない。
欲しいから掘る、というのも多分、違う。
見て、測って、待って、必要ならまた行く。
今日の会議で決めた方針は、結局、かなり正しかったのだと思う。
「急がない、か……」
それは、少しだけ、僕自身へ向けた言葉でもあった。
扶桑に来てから、いろいろなことが一気に動きすぎていた。
拠点を決めて、神子本部神殿ができて、扶桑と名づけて、若葉が歩けるようになって、デルタ大陸の異常まで見つかった。
普通なら、もっとゆっくり進むはずのことが、ずっと加速したまま続いている。
だから、ここで一度、“急がない”と決めるのは大事なのかもしれない――少なくとも、デルタ大陸については。
僕は、窓の外の海を見た。
夜の海は静かだった。
でも、その静けさの向こうに、あの赤い大陸が同じ惑星の上にあるのだと思うと、不思議な感じがする。
同じ世界の中に、海の匂いがする場所と、酸化した土の匂いしかしない場所がある。
どちらも扶桑だった。
そして、どちらも、僕たちが向き合うべき場所だ。
そう考えると、少しだけ、前向きになれた。
怖いことは怖いし、気持ち悪いものは気持ち悪い。
あのゾンビみたいな大型の蜥蜴とか、正直、二度と見たくないくらい嫌だった。
でも、それで全部が嫌になるわけではない。
むしろ、どこが危なくて、どこが心地よくて、何を急いではいけないのかが分かったから、良かったと思う。
「まあ、なんとかなるかな……」
そう呟いてみる。
根拠があるわけではない。
でも、空元気でもなかった。
青葉がいるし、ブライアント、ジェプラ、若葉も、ギラも、太郎も、ハチョキもいる。
一人でデルタ大陸へ向かって、一人であれを見たなら、たぶん今ごろもっと暗い気持ちになっていたと思う。
でも、いまの僕には、一緒に見て、一緒に考える相手がいる。それだけで、ずいぶん違った。
部屋の照明を、さらに少し落とす。
休止状態へ入る前の静かな準備の時間だ。
機怪人形の身体だから、人間みたいにまぶたが重くなるとか、意識が曖昧に沈むとか、そういう感覚とは少し違う。
けれど、ちゃんと“眠る前の気持ちの整理”にあたるものはある。
今日見たもの、今日決めたこと、まだ決めていないこと――それを整理すると、心の中のざらつきが、少しだけ減った。
「……よし」
僕は、椅子から立ち上がって、寝台へ腰を下ろす。
そこで、ふと、ジェプラが昨夜ここへ来て、神域の未来の話をして、すごく真面目な顔で「添い寝は必要ですか?」と聞いてきたことまで思いだしてしまった。
「いや、いま思い出すかな?」
思わず、一人で小さく笑う。
デルタ大陸の反芻で少し張っていた気持ちが、そのせいで、妙にほぐれた。
僕の仲間には、ああいう“どう反応したらいいのか分からないくらい真面目な会話”をしてくる人もいるのだ。
それもまた、ここでの生活の一部なのだろう。
「まあ、明日もやることは多いし……」
そう言って、僕は休止状態への移行を意識した。
完全に問題を片づけて眠るわけではない。
でも、少しだけ整理はついた。
そして、昨日よりは、ちゃんと前を向いている。
デルタ大陸のことは、また明日から考えればいい。
今日は、扶桑の夜の中で、静かに一度休めばいい。
そう思ったところで、意識はゆっくりと深い静けさの方へ沈んでいった。
***
デルタ大陸から帰ってきた翌朝、神子本部神殿の中には、前の日までとは少し違う空気が流れていた。
静かではあるけど、その静けさは、休息のあとのものというより、少し考え込みすぎたあとのものに近かった。
ラウンジの窓からは、いつも通り、扶桑の海が見える。
高台の下では建設用ドローンが動き、港側では資材が運ばれ、湾の向こうには巡洋艦『青葉』が白い艦体を静かに浮かべている。
見た目には、何も悪くない。
むしろ、拠点は日に日に整ってきていた。
本部棟の外壁も、共用区画も、搬送路も、居住棟も、もう「仮の小屋」ではなく、ちゃんとした拠点の輪郭を持ち始めている。
それなのに、僕たちの気持ちの方だけが、デルタ大陸の赤茶けた荒野を少し引きずっていた。
あの乾いた風、大型の蜥蜴、化石を依り代にしたかもしれない何か――。
地下に眠っていそうな鉱脈と、歪んだシャドーマターの流れ。
朝から、青葉はいつも通り仕事をしていたし、ブライアントもデータ整理に入っていた。
太郎は太郎で、拘束サンプルの冷凍保管状態と周辺機材の点検を進めている。
みんな、手を止めてはいない。
でも、どこか少しだけ、会話の弾み方が鈍かった。
そんな空気を、最初に破ったのはジェプラだった。
「弓良殿」
ラウンジの中央卓で、青葉と一緒に監視ログを眺めていた僕へ、ジェプラが少し改まった様子で声をかけてくる。
振り向くと、彼女はなぜか、すでに“何か決めてきた顔”をしていた。
「どうしたの?」
「提案があります」
その言い方が、妙にきっぱりしている。
そして、たぶん、こういう時のジェプラの提案は、だいたいもう本人の中ではかなり固まっている。
僕は、少しだけ姿勢を正した。
「うん。どんな提案?」
ジェプラは、ひとつ頷いてから言った。
「大分、神殿もできてきたので、お祝いのパーティーをしましょう」
「パーティー?」
「はい」
ジェプラは、今度は少しだけやわらかく微笑んだ。
「まだ、若葉さんの歓迎会を、きちんと開いていなかったではありませんか」
その一言で、僕は少しだけ目を瞬いた。
たしかに、そうだった。
若葉が機怪人形の身体を得て、歩けるようになって、神子本部神殿の中で一緒に暮らすようになってから、いろいろなことが一気に起きすぎていた。
デルタ大陸遠征もその一つだ。そのせいで、若葉の“正式なお祝い”のような場を、ちゃんと設ける余裕がなかった。
「そういえば……」
僕がそう言うと、ジェプラは少しだけ得意そうな顔になる。
「そうなのです。それに」
彼女は、そこで窓の外へ視線を向けた。
「神子本部神殿も、もうかなり形になっています。完全ではありませんが、少なくとも、最初の拠点としては十分に“できてきた”と言える段階です」
その言葉に、僕もラウンジの中を見回した。
広い共用空間、窓、整えられた卓、居住区画へ続く廊下、厨房支援区画、壁面の表示、出入りするドローン――。
もう内装もほとんど完成していて、確かに、もうここは単なる工事途中の建物ではなくなっている。
神子本部神殿、という名前を、半ば本気で背負い始めた場所だ。
「気分転換も兼ねて、ということ?」
僕がそう尋ねると、ジェプラは素直に頷いた。
「はい。デルタ大陸の件は、もちろん大切です。ですが、だからといって、この扶桑の良いところまで、少し曇った気持ちで見てしまうのは、もったいないと思うのです」
その言葉は、昨日、ラウンジで彼女が言っていたことの延長にあった。
危ない場所があるけど、それで全部が悪い星になるわけではない。
――そういう意味では、ジェプラはたぶん、昨日からずっと一貫している。
「若葉さんが歩けるようになったことも、ここに住み始めたことも、ちゃんと祝って差し上げたいです」
ジェプラはそう言って、少しだけ照れくさそうに目を伏せた。
「そして、私も、祝いの場が欲しいです……」
その最後の一言が、妙に正直で、僕は思わず少し笑ってしまった。
「ジェプラも、ちょっと気を張っていたんだね?」
「張っておりました」
即答だった。
「ですから、皆さんで少し賑やかにして、扶桑の“よい方”を、あらためて感じるのは悪くないかと」
その提案は、とてもジェプラらしかった。
単に騒ぎたいわけではなく、神域としての意味、共同体としての意味、そして生活としての意味を、全部まとめて考えた上での祝いなのだ。
僕は、自然に頷いていた。
「いいと思うよ」
そう言うと、ジェプラの耳がぴんと立った。
「本当ですか?」
「うん。若葉の歓迎も、神子本部神殿の一区切りも、ちゃんと祝いたい」
僕がそう言ったところで、ちょうどラウンジの反対側から若葉が歩いてきた。最近の若葉は、もうすっかりこの建物の中を自分の足で歩くのが当たり前になってきている。
まだ歩幅は小さいけれど、その一歩一歩に“ここに住んでいる子”の感じがちゃんとある。
「かんげい?」
会話の断片だけ拾ったらしい若葉が、首を傾げる。
「うん」
僕は笑って答えた。
「若葉の歓迎会をしようって、ジェプラが言ってくれた」
若葉は、しばらく意味を考えているみたいだった。
それから、少しだけ目を丸くする。
「わたしの?」
「そう」
「おいわい?」
「お祝い」
若葉は、その単語を自分の中で転がすように繰り返した。
「おいわい……」
そして、ゆっくりと嬉しそうな顔になっていく。
「する」
「するよ!」
その時、ギラが、いかにも今の話はだいたい聞こえていた、という顔でラウンジへ入ってきた。
『お、なんや、ええ話しとるやん』
「パーティーをしようって」
僕が言うと、ギラはすぐに笑った。
『そらええな。こういう時は、理屈こねるより、ちゃんと祝った方が空気回るで』
ブライアントも、その少し後ろから姿を見せる。
彼は、手元の端末を閉じながら、やれやれという顔でこちらを見た。
「ジェプラの提案か?」
「うん」
「妥当だな」
その評価は、ブライアントにしてはかなり素直だった。
「デルタ大陸の件は長期戦になる。昨日見つけた異常を、今日すぐ片づけられる訳ではない。なら、拠点側の生活と士気をちゃんと回した方がいい」
「士気って……」
「重要だぞ」
ブライアントは、いつもの調子で言う。
「特に、辺境の拠点はな。怖い話ばかりしてると、判断まで湿る」
その表現が少し面白くて、僕は思わず口元をゆるめた。
そこへ、青葉も機怪人形ボディの方で歩いてきた。
たぶん、ラウンジに集まる声の調子から、何か決まったのを察したのだろう。
「何を祝う話ですか?」
僕は、青葉に向かって言った。
「若葉の歓迎会と、神子本部神殿のある程度の完成祝い」
青葉は、一瞬だけ周囲を見回した。
若葉、ジェプラ、ギラ、ブライアント――そして、僕。
それから、静かに頷く。
「よいと思います」
その返答は短かったけれど、青葉がそう言うなら、ほぼ決まりみたいなものだ。
「準備、できそう?」
僕が聞くと、青葉は即座に答えた。
「はい。厨房支援系の出力を一時的に優先し、共用区画の照明調整と席配置を変更すれば、十分対応可能です。資材消費も、生活設備の範囲であれば問題ありません」
ジェプラは、その説明を聞いて、明らかに嬉しそうだった。
「では、やりましょう!」
その一言に、場の空気が少し明るくなった。




