第八十九章 身体完成~若葉が歩いた!
若葉のボディ形成は、その日のうちに始まった。
万物プリンターの主出力は、港湾設備や本部棟の追加区画、それに居住区画の安定化へ回っていたけれど、青葉は、そこから一部を切り分けるようにして、新しい機怪人形ボディの設計へ入った。
「テンプレート自体は、マザーから受領済みです」
本部棟の一角に急ごしらえで設けた製造区画で、青葉が言う。
「ただし、そのまま複製するのではなく、若葉の意識構造と現在の依り代状態に合わせて調整します。完成まで二日程度、必要です」
若葉は、半透明の姿のまま、その工程をじっと見ていた。
「こわい?」
僕が聞くと、若葉は少し考えてから首を横に振った。
「こわくない」
「楽しみ?」
今度は、少し間があった。
「……わからない。でも、ほしい」
その答えは、すごく正直だった。
たぶん、まだ想像がついていないのだろう。
歩くことや、重さを持つこと――触れた時に、本当にそこへ指先が止まること。
若葉は、いままで、ずっと仮想体だった。
その仮想体ですら、意識がはっきりしてからまだ日が浅い。
だったら、身体を持つことをうまく想像できなくても当たり前だ。
ただ、その“ほしい”という一言だけで十分だった気もする。
***
若葉の身体が完成する日、僕は、青葉と一緒にハンガー横の万物プリンター室へ向かった。
若葉も、いつもの半透明な仮想体の姿でついてくる。
まだ本体は遺跡の中のバイオコンピューターにあるままだが、こうして一緒に歩いていると、もうすっかり拠点の一員みたいだった。
廊下を抜けて、格納庫寄りの区画へ入ると、空気が少し変わった。
生活区画の柔らかい静けさとは違う。
低く抑えられた駆動音と、ごく微細な振動が感じられる。
温度は、わずかにひんやりしている。
万物プリンターのある部屋は、ハンガー横でも特に大きく取られていた。自動扉が開くと、僕は、思わず少しだけ足を止めた。
「……やっぱり、すごいな」
何度か見ているはずなのに、万物プリンターの前に立つと、毎回そう思う。
それは、単純に大きい機械とは違う、ガラスと金属の塊だった。
いや、塊という言い方は少し乱暴かもしれない。
実際には、何層もの透明な壁面と、そこを貫く金属のフレーム、それに内部を取り囲む複雑な発光リングと導線が、ひとつの巨大な構造体を作っている。
しかし、全体として見た時の印象は、やっぱり“ガラスと金属の巨大な塊”がいきなり部屋の中央に置かれている、というのが近かった。
その内部では、微細情報媒体素子が雪片のように舞っていた。
白いけど、ただ白く光っているだけではない。
角度によっては青く、別の瞬間には銀色にも見える、ごく小さな光の破片が、重力を無視したように幾層にも漂っているのだ。
それが、渦を巻いたり、面になったり、細い線に収束したりしながら、中央の空間で何かを少しずつ形づくっていた。
光が、内部からやわらかく明滅する。
そのたびに、形成されつつある輪郭が、わずかにはっきりしたり、また半透明に戻ったりする。
若葉が、僕の隣で小さく呟いた。
「雪……?」
たしかに、雪みたいだった。
機械の中なのに、どこか季節の景色を思わせる。
「うん、『疑似幻雪』と呼ばれていた、ってブライアントが言っていたよ」
でも、それがただきれいなだけのものではなく、いままさに“身体”を作っているのだと思うと、不思議な感覚になる。
青葉が、その発光する構造体を見つめながら言った。
「形成されたものは、直接、格納庫に転送されます」
「ここで最後まで組み上げるわけではないんだね?」
「はい。こちらは、主形成室です。形成後に、直接、格納庫側の安全区画に転送されますす」
なるほど、と僕は頷いた。
たしかに、これだけのものをそのまま生活区画寄りで完成させるより、格納庫へ転送した方が安全なのだろう。
でも、その説明よりも少し印象に残ったのは、青葉の横顔だった。
いつも通り、表情は大きくは動いていない。
でも、たぶん、少しだけ違う。
「青葉」
「はい」
「なんか、楽しみそうだね?」
そう言うと、青葉は、ほんの少しだけ瞬いた。
「そうでしょうか?」
「うん」
僕は、万物プリンターの内部を見ながら言った。
「無表情なんだけど、その中に期待感がある感じ」
青葉は、一拍だけ間を置いてから、静かに言った。
「楽しみです」
その返答は、短かった。
でも、たしかにそこには、わずかな期待が込められていた。
「若葉が、安定した身体を持って、こちらにいられるようになりますから」
その言い方を聞いて、僕も少しだけ胸の奥がやわらかくなる。
若葉は、仮想体のままでも一緒にいられる。
でも、それはやっぱり、不安定だった。ふっと薄くなったり、遺跡側の状態に引っ張られたり、存在が揺れたりすることがある。
それが、ちゃんと“ここにいる身体”を持つ。
それは、若葉だけじゃなく、僕たちにとっても大きいことだ。
僕は、内部で舞う雪片みたいな素子を見ながら、ふと思ったことをそのまま口にした。
「そういえば、万物プリンターの原理って、あの惑星改造と同じ感じ?」
青葉は、すぐに頷いた。
「そうです」
その答えは、あまりにもあっさりしていた。
「ただし、必要なものを指定して、その情報を時空間から取り出す一連の手順を実行します」
「え?」
僕は、思わずそちらを見る。
「どっかから持ってきてるの? テレポートみたいに?」
「そうです」
青葉は、やっぱり落ち着いたままだった。
「創発させたのと同時に、そのコピーを、ほぼ同じ時空座標に置きます」
「……コピー?」
「はい。そのため、時空の情報連鎖構造は、ほぼ変化しません」
僕は、しばらくその言葉の意味を頭の中で組み立てていた。
時空間から必要なものを取り出す。
でも、完全に“どこかから失わせる”のではなく、同時にコピーを置いて、情報連鎖をほぼ変えないようにする。
「それって……」
僕は、万物プリンターの中を見つめたまま言った。
「……すごく回りくどいようで、でも、そうしないと時空が変になるってこと?」
「そのような理解で構いません」
青葉は、応えた。
「完全な無からの創造ではありません。必要な情報を時空間から呼び出し、その複製と再配置を行うことで、因果的な負荷を極力減らしています」
僕は、少しだけぞくっとした。
理屈としては分かる。
でも、分かるほど、逆に怖い。
要するに、この万物プリンターは、何でもぽんと“作っている”わけではない。
もっと危ういことを、危うくないように見える形で、ものすごく丁寧にやっているのだ。
「でも、“持ってくる”際に、シャドーマターを使うのかな?」
僕がそう聞くと、青葉は頷いた。
「はい」
それだけで、かなり納得がいった。
「なるほど……」
僕は、内部で明滅する光を見ながら、小さく息を吐いた。
「……ずっとテレポートし続けてるんなら、確かに、かなりシャドーマターを消費する訳だ」
「その通りです」
青葉は言う。
「シャドーマターだけでなく、そのコピーの際に、一部のエキゾチック物質が必要になることがあります」
「やっぱり、そうなんだ……」
僕は、少しだけ苦笑した。
万物プリンター――その名前だけ聞けば、本当に何でも無制限に出せそうな気がしてしまう。
でも、当然ながら、万能ではないのだ。
どこかの時空間から情報を引き、コピーし、因果を大きく乱さないように配置し、そのためにシャドーマターを消費し、さらに場合によってはエキゾチック物質まで必要となる。
便利すぎるからこそ、裏ではとんでもなく繊細で重い処理をしている。
「確かに、“万物”プリンターとはいえ、万能ではないんだなあ……」
僕がそう呟くと、青葉は、わずかにこちらへ視線を向けた。
「はい。非常に便利ですが、無制限ではありません」
その言葉は、最近ずっと聞いている資源問題にもつながっていた。
若葉の身体を作る、拠点を作る、そして、いずれ軌道施設を作ることもできるのだろう。
どれもできる。
でも、“できるからいくらでもやれる”わけではない。
その現実を、目の前の光景は、すごくきれいな形で見せていた。
若葉は、そういう難しい話を、全部は分かっていないのだろう。
でも、内部で形づくられていくものをじっと見ていて、それから小さく言った。
「わたし、できる?」
その問いに、僕は、すぐに答えた。
「できるよ」
青葉も、静かに続ける。
「はい。順調です」
その時、万物プリンターの内部で、雪片のように舞っていた微細情報媒体素子が、ふっと大きな渦を作った。
光が一段、強くなる。
中央で形成されつつあった輪郭が、少しだけはっきりした。
小さな身体、細い腕、やわらかな曲線――。
若葉は、それを見て、ほんの少しだけ息をのんだ。
僕も、同じだった。
この光の中から、もうすぐ若葉の身体が、こちら側へやってくる。
そう思うと、不思議と、自分まで少し緊張していた。
***
万物プリンターの内部で、微細情報媒体素子の雪片が大きく渦を巻いたあと、中央の輪郭は、いよいよ“身体”として分かる形になってきた。
小さな肩。細い腕。髪の流れ。ドレスのような意匠を持った外装の裾――。
さっきまで、ただの光の集積だったものが、少しずつ、「若葉の身体」としか言いようのない姿に近づいていく。僕は、それを見ながら、自然と息を詰めていた。
若葉も同じだった。
半透明の仮想体のまま、僕のすぐ横に立っている若葉は、いつもよりずっと静かだった。目の前で、自分の“入るはずの身体”が形になっていくのだ。落ち着いていられなくて当然だろう。
「若葉」
僕が小さく呼ぶと、若葉は、はっとしたようにこちらを見た。
「うん」
「大丈夫?」
そう聞いたものの、何がどう大丈夫なのか、自分でも少し曖昧だった。
怖いかもしれない。
楽しみかもしれない。
その両方かもしれない。
若葉は、少しだけ考えるようにしてから答えた。
「……どきどきする」
「そっか」
僕は、少しだけ笑った。
「じゃあ、たぶん正常だ」
その言葉に、若葉は、ほんの少しだけ安心したみたいに頷いた。
青葉は、万物プリンターの出力状態を最後まで見届けながら、静かな声で告げる。
『主形成、完了。最終位相安定化へ移行します』
その直後だった。
万物プリンター内部の光が、一度だけ、強く脈打った。
雪片のように舞っていた微細情報媒体素子が、今度は中央へ向かって収束する。
ばらばらのきらめきだったものが、ひとつの輪郭へ、さらにその内側の密度へ、押し込まれていく感じだ。
そして、中央の身体が、完全に見えた。
若葉だった。
もちろん、まだ眠っているように静かで、ただ立っているだけだ。
でも、そこにある小さな身体は、間違いなく若葉のために作られたものだった。
淡い色の髪で、やわらかな顔立ちだった。
人間の女の子にしか見えない、でも分子機械でできた精緻な皮膚をしている。
そして、最初から若葉らしい意匠として整えられた、ゴシック風のドレスを思わせる外装。
その姿を見た瞬間、若葉の仮想体が、僕の隣で小さく息を呑むのが分かった。
「わたし……?」
「はい」
青葉が答える。
「若葉の身体です」
その声音は、やっぱり静かだった。
でも、その静けさの奥には、明らかに期待があった。
「これより、格納庫へ転送します」
青葉がそう告げた次の瞬間、万物プリンター内部の輪郭が、ふっと薄くなる。
消えた、という感じではない。
位相が、一段だけずれた感じだった。
光の中に立っていた若葉の身体が、透明になり、そのまま、何もない空間へ滑り込むように見えなくなる。
「……転送?」
「はい。格納庫側の受け渡し区画へ移りました」
青葉がそう言って、僕たちに視線を向けた。
「行きましょう」
***
万物プリンター室を出て、ハンガー横の通路を抜ける。
格納庫へ向かう途中、若葉はいつもより少しだけ僕の近くに寄っていた。仮想体だから、重さはない。けれど、気配として、いつもより確かに近い。
僕も、なんとなく、歩幅を少しだけゆるめていた。
格納庫の自動扉が開くと、内部はいつもより広く感じた。
実際に広いのだろうけれど、それ以上に、今日は中央の一角だけが、ひどく静かで、目を引いたからだ。
受け渡し区画には、淡い光の円がいくつも床へ投影されていた。安全域を示すためのものらしい。
その中心に、さっきまで万物プリンターの中にあった若葉の身体が、静かに横たえられている。
近くで見ると、やっぱり小さい。
若葉の仮想体と同じ顔立ちなのに、実体としてそこにあるだけで、急に“守るべきもの”という感じが強くなった。
手を伸ばせば触れられそうで、でもまだ誰も触れてはいけないような、そんな空気がある。
「ちゃんと、いるね……」
僕が小さくそう言うと、青葉も頷いた。
「形成良好。器体構造に乱れなし。若葉、本体依り代との同期を開始します」
若葉は、自分の身体を見つめていた。
その視線は、好奇心だけでも、不安だけでもない。
長いあいだ“曖昧な形でしか存在できなかったもの”が、ついに具体的な器を得た時の、言葉にしにくい感情がそのまま出ているように見えた。
「どうするの?」
僕が青葉に聞くと、彼女は若葉の方を見て答えた。
「若葉が、自分で入ります」
その言い方に、僕は少しだけ緊張した。
無理やり押し込むのではない。
若葉自身が、自分の意志で、この身体へ入るのだ。
「若葉」
青葉の声が、少しだけ柔らかくなる。
「怖くありません。あなたは、すでにここまで来ています。あとは、この器へ、自分の意識の中心を移すだけです』」
若葉は、しばらく黙っていた。
でも、逃げたりはしなかった。
やがて、小さく頷く。
「……うん」
「では、こちらへ」
青葉が示すと、若葉の仮想体が、そっと前へ進んだ。
半透明の身体が、横たわる自分の身体の傍まで来る。
その光景は、理屈では理解していても、やっぱり少し不思議だった。自分が、自分を見下ろしている。
若葉は、その場で少しだけ立ち止まった。
「入れる?」
「入れます」
青葉が言う。
「あなたの魂は、すでにその身体と共有状態にあります。本体の依り代は遺跡側にありますが、意識の主座は、こちらへ安定して移せます」
若葉は、もう一度、小さく頷いた。
そして、ゆっくりと、自分の身体へ手を伸ばすみたいに、前へ進んだ。
半透明の輪郭が、眠るように静かな器体へ重なる。
最初は、何も起きないように見えた。
でも次の瞬間、身体の輪郭に沿って、淡い光が走った。
髪、首筋、肩、腕、胸元、脚――。
まるで、眠っていた分子機械の一本一本へ、意識が行き渡っていくようだった。
若葉の仮想体が、少しずつ薄くなる。
同時に、横たわっていた身体の表面に、ほんのわずかな熱と色が戻る。
「っ……」
僕は、無意識に息を止めていた。
若葉の仮想体は、最後に輪郭だけを一瞬残して、それから完全に器体へ溶け込んだ。
静寂。
次の瞬間、横たわっていた若葉のまぶたが、ほんのわずかに震えた。
「……」
指先が、動く。
呼吸をしているわけではない。
でも、確かに“起きる”側への動きだ。
青葉が、小さく告げる。
「同期完了。意識主座、機怪人形ボディへ移行しました」
その直後、若葉の目が、ゆっくりと開いた。
大きな瞳が、最初は少しだけ焦点を探して揺れる。
天井を見る。
青葉を見る。
僕を見る。
それから、若葉は、自分の手を持ち上げた。
半透明ではない。
ちゃんとそこにある、小さな手だ。
「……おもい」
最初の言葉が、それだった。
僕は、思わず笑いそうになった。
でも、笑うというより、胸が熱くなった。
若葉は、今度は指を曲げる。
ゆっくりと、開く。
髪が、肩の上でわずかに揺れる。
そのたびに、若葉の目が少しずつ大きくなる。
「いる……」
その声は、前に仮想体で言った時より、ずっと深かった。
ほんとうに、自分がここにいるのだと、身体の重さごと理解した声だった。
「うん」
僕は、自然にそう答えていた。
「いるよ、若葉」
若葉は、僕の方を見て、それから青葉を見た。
「おねえちゃん」
「はい」
「……いっしょ?」
その問いに、青葉は静かに、でもはっきり頷いた。
「はい。これからは、もっと、ずっと一緒にいられます」
その瞬間、若葉の顔が、少しだけくしゃっとした。
泣くわけではない。
でも、嬉しいのと安心したのと、たぶん少し怖かったのが全部ほどけたような顔だった。
僕は、その表情を見て、ようやく本当に、若葉がこちら側へ来たのだと思った。
***
若葉は、しばらく自分の手を見ていた。
小さな指を開いて、閉じる。
手首を少しひねる。
腕を持ち上げる。
そのたびに、髪が肩のあたりでふわりと揺れて、ドレス風の外装の裾が、わずかに擦れる音を立てた。
仮想体の時にはなかった、ちゃんとした“重さ”と“遅れ”がそこにある。
思っただけで全部が思った通りになるわけでは、ない。
でも、そのぶん、自分の身体を動かしている感覚が、たしかにあるのだろう。
「……へん」
若葉が、小さくそう呟いた。
その感想に、僕は少しだけ笑った。
「うん。たぶん、最初は、そうだと思う」
「正常です」
青葉が、いつも通り理知的な口調で補足する。
「仮想体と実体では、感覚入力も運動出力も異なります。特に、慣性、接地圧、姿勢制御は、初期段階では違和感が大きいはずです」
若葉は、説明を全部理解しているわけではないだろう。
でも、“へんでも大丈夫らしい”ということだけは分かったのか、少し安心したように頷いた。
それから、自分の脚の方へ視線を落とす。
まだ、起き上がってはいない。
身体は受け渡し用の台の上に、半ば横たわるような姿勢のままだ。
僕は、なんとなく息を詰めた。
次は、立つ。
たぶん、それが最初の大きな一歩になる。
「若葉」
青葉が、やわらかく声をかける。
「立てそうですか?」
若葉は、少しだけ考える顔をした。
それから、正直に言う。
「わからない……」
「そりゃそうだよね」
僕は、苦笑しながら答えた。
「だって、今までこういう身体で立ったこと、ないんだし」
若葉は、僕を見る。
その目の中には、不安もあるけれど、それ以上に“やってみたい”があるように見えた。
「やる」
小さい声だった。
でも、ちゃんと自分で決めた声だった。
「はい」
青葉が、頷く。
「最初は、慌てなくて大丈夫です。まず上体を起こして、次に足を床へつけてください。必要なら、演算を補助します」
若葉は、ゆっくりと肘へ力を入れた。
その動きは、ぎこちなかった。
でも、ぎこちないからこそ、本当に初めてなのだと分かる。
肩が少し上がり、髪が前へ落ちる。
小さな身体が、半分ほど起き上がる。
その瞬間、若葉が少しだけ目を見開いた。
「おもい……」
「重力が、あるからね。地球の一割増しくらいらしいよ」
僕がそう言うと、若葉は少しだけ僕を見て、それからまた自分の身体へ意識を戻した。
次に、足を台の縁から下ろす。
つま先が、床に触れる。
その時の若葉の顔が、すごく印象的だった。
驚いている。
でも、怖がってはいない。
“下に何かある”という、当たり前すぎることに、ちゃんと驚いている顔だった。
「ついた……」
「はい」
青葉が静かに言う。
「そこに床があります」
若葉は、たぶん、その返答の意味を全部は考えていない。
でも、そのまま、もう片方の足も下ろした。
小さな足裏が、床を踏む。
今度は、両足がある。
その状態で、若葉は、一度だけ、僕と青葉の顔を見比べた。
たぶん、“本当にこれでいいのか”と確認しているのだろう。
「大丈夫」
僕は、先にそう言った。
「ゆっくりでいいから」
若葉は、小さく頷いた。
そして、立とうとした。
最初の動きは、少し危なっかしかった。
脚へ力を入れる感覚が、まだうまく掴めていないのだろう。膝が少し震え、上体のバランスが前へ流れそうになる。
僕は思わず手を伸ばしかけた。
でも、その前に、青葉が小さく言う。
「若葉、自分の真ん中を意識してください。胸ではなく、その少し下です」
若葉は、その言葉の通りにしようとしたらしい。
肩の力が少し抜ける。
膝の入り方が変わる。
そして次の瞬間、すっと、身体が真上へ持ち上がった。
立った。
若葉が、自分の脚で、ちゃんと立っている。
「……」
僕は、一瞬、言葉が出なかった。
若葉自身も、すぐには喋らなかった。
目を丸くしたまま、ただ立っている。
でも、その顔は、明らかに何かを感じ取っていた。
「……たかい」
やがて、若葉はそう言った。
その感想が、あまりにも若葉らしくて、僕は、思わず笑ってしまった。
「そうだね。立つと、ちょっと高いよね」
「視点の変化です」
青葉が、いつもの調子で補足する。
「仮想体でも、視点の変化はあると思いますが、実体として床反力を受けながら立つのは初めてですから、感覚差は大きいはずです」
若葉は、まだ少しふらついていた。
でも、倒れそうなほどではない。
小さな手が、そっと宙で揺れる。
バランスを取っているのだ。
その仕草ひとつひとつが、いままでの若葉とは違う。ちゃんと“身体を持つ子供”の動きになっている。
「歩けるかな?」
僕が言うと、若葉は少しだけ緊張した顔になる。
「あるく」
「焦らなくて大丈夫です」
青葉が、またやわらかく言う。
「まずは、一歩だけ。転んでも、私たちがいます」
若葉は、こくりと頷いた。
それから、右足を少しだけ持ち上げようとして――思ったより上がらなかったのか、途中で止まる。
もう一度、意識を集中する。
今度は、ちゃんとつま先が床を離れた。
その一歩は、ほんとうに小さかった。
でも、たしかに前へ出た。
足が床へつく。
少し身体が揺れる。
反対の足が、そのあとを追うみたいに少しだけ前へ出る。
「あるいた……」
若葉が、自分で信じられないみたいに言う。
「うん」
僕は、気づいたら笑っていた。
「歩いたよ!」
若葉は、その言葉を聞いて、今度はもう一歩、前へ出た。
さっきより、少しだけ自然だ。
さらに、もう一歩。
裾が揺れ、髪が肩で跳ねる。
小さな足音が、格納庫の床へ響いた。
その音を聞いた瞬間、僕の胸の奥で、何かが本当に実感になった。
若葉は、もう仮想体として“そこにいるように見える”存在だけではなかった。
ここにいて、歩いて、近づいてこられる存在になったのだ。
若葉は、そのまま、ぎこちない足取りで僕のところまで来た。
最後の一歩だけ、少しバランスを崩しかけて、僕は、反射的に手を出した。
若葉の小さな身体が、僕の腕へ軽くぶつかる。
重さがあった。
軽かった。
でも、たしかに重さがある。
「……つかまえた」
若葉が、小さく言う。
「うん。つかまえられた」
僕がそう返すと、若葉は、少しだけ安心したみたいに僕へ寄りかかった。
青葉が、その様子を見ながら、ごく静かに言った。
「良好です」
その二文字に、たぶんいろいろな意味が含まれているのだろう。
同期も、感覚も、運動制御も、そして、若葉の精神的な安定も。
でも、僕にとって一番大きかったのは、もっと単純なことだった。
若葉が、自分の足で、こちらへ歩いてきた。
それだけで、十分だった。




