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宇宙船墓場で古代エイリアンのアンドロイドとして転生した件  作者: 謎村ノン
第VI部 拠点開発編

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第八十九章 身体完成~若葉が歩いた!

 若葉のボディ形成は、その日のうちに始まった。

 万物プリンターの主出力は、港湾設備や本部棟の追加区画、それに居住区画の安定化へ回っていたけれど、青葉は、そこから一部を切り分けるようにして、新しい機怪人形ボディの設計へ入った。

「テンプレート自体は、マザーから受領済みです」

 本部棟の一角に急ごしらえで設けた製造区画で、青葉が言う。

「ただし、そのまま複製するのではなく、若葉の意識構造と現在の依り代状態に合わせて調整します。完成まで二日程度、必要です」

 若葉は、半透明の姿のまま、その工程をじっと見ていた。

「こわい?」

 僕が聞くと、若葉は少し考えてから首を横に振った。

「こわくない」

「楽しみ?」

 今度は、少し間があった。

「……わからない。でも、ほしい」

 その答えは、すごく正直だった。

 たぶん、まだ想像がついていないのだろう。

 歩くことや、重さを持つこと――触れた時に、本当にそこへ指先が止まること。

 若葉は、いままで、ずっと仮想体だった。

 その仮想体ですら、意識がはっきりしてからまだ日が浅い。

 だったら、身体を持つことをうまく想像できなくても当たり前だ。

 ただ、その“ほしい”という一言だけで十分だった気もする。


***


 若葉の身体が完成する日、僕は、青葉と一緒にハンガー横の万物プリンター室へ向かった。

 若葉も、いつもの半透明な仮想体の姿でついてくる。

 まだ本体は遺跡の中のバイオコンピューターにあるままだが、こうして一緒に歩いていると、もうすっかり拠点の一員みたいだった。

 廊下を抜けて、格納庫寄りの区画へ入ると、空気が少し変わった。

 生活区画の柔らかい静けさとは違う。

 低く抑えられた駆動音と、ごく微細な振動が感じられる。

 温度は、わずかにひんやりしている。

 万物プリンターのある部屋は、ハンガー横でも特に大きく取られていた。自動扉が開くと、僕は、思わず少しだけ足を止めた。

「……やっぱり、すごいな」

 何度か見ているはずなのに、万物プリンターの前に立つと、毎回そう思う。

 それは、単純に大きい機械とは違う、ガラスと金属の塊だった。

 いや、塊という言い方は少し乱暴かもしれない。

 実際には、何層もの透明な壁面と、そこを貫く金属のフレーム、それに内部を取り囲む複雑な発光リングと導線が、ひとつの巨大な構造体を作っている。

 しかし、全体として見た時の印象は、やっぱり“ガラスと金属の巨大な塊”がいきなり部屋の中央に置かれている、というのが近かった。

 その内部では、微細情報媒体素子が雪片のように舞っていた。

 白いけど、ただ白く光っているだけではない。

 角度によっては青く、別の瞬間には銀色にも見える、ごく小さな光の破片が、重力を無視したように幾層にも漂っているのだ。

 それが、渦を巻いたり、面になったり、細い線に収束したりしながら、中央の空間で何かを少しずつ形づくっていた。

 光が、内部からやわらかく明滅する。

 そのたびに、形成されつつある輪郭が、わずかにはっきりしたり、また半透明に戻ったりする。

 若葉が、僕の隣で小さく呟いた。

「雪……?」

 たしかに、雪みたいだった。

 機械の中なのに、どこか季節の景色を思わせる。

「うん、『疑似幻雪』と呼ばれていた、ってブライアントが言っていたよ」

 でも、それがただきれいなだけのものではなく、いままさに“身体”を作っているのだと思うと、不思議な感覚になる。

 青葉が、その発光する構造体を見つめながら言った。

「形成されたものは、直接、格納庫に転送されます」

「ここで最後まで組み上げるわけではないんだね?」

「はい。こちらは、主形成室です。形成後に、直接、格納庫側の安全区画に転送されますす」

 なるほど、と僕は頷いた。

 たしかに、これだけのものをそのまま生活区画寄りで完成させるより、格納庫へ転送した方が安全なのだろう。

 でも、その説明よりも少し印象に残ったのは、青葉の横顔だった。

 いつも通り、表情は大きくは動いていない。

 でも、たぶん、少しだけ違う。

「青葉」

「はい」

「なんか、楽しみそうだね?」

 そう言うと、青葉は、ほんの少しだけ瞬いた。

「そうでしょうか?」

「うん」

 僕は、万物プリンターの内部を見ながら言った。

「無表情なんだけど、その中に期待感がある感じ」

 青葉は、一拍だけ間を置いてから、静かに言った。

「楽しみです」

 その返答は、短かった。

 でも、たしかにそこには、わずかな期待が込められていた。

「若葉が、安定した身体を持って、こちらにいられるようになりますから」

 その言い方を聞いて、僕も少しだけ胸の奥がやわらかくなる。

 若葉は、仮想体のままでも一緒にいられる。

 でも、それはやっぱり、不安定だった。ふっと薄くなったり、遺跡側の状態に引っ張られたり、存在が揺れたりすることがある。

 それが、ちゃんと“ここにいる身体”を持つ。

 それは、若葉だけじゃなく、僕たちにとっても大きいことだ。

 僕は、内部で舞う雪片みたいな素子を見ながら、ふと思ったことをそのまま口にした。

「そういえば、万物プリンターの原理って、あの惑星改造と同じ感じ?」

 青葉は、すぐに頷いた。

「そうです」

 その答えは、あまりにもあっさりしていた。

「ただし、必要なものを指定して、その情報を時空間から取り出す一連の手順を実行します」

「え?」

 僕は、思わずそちらを見る。

「どっかから持ってきてるの? テレポートみたいに?」

「そうです」

 青葉は、やっぱり落ち着いたままだった。

「創発させたのと同時に、そのコピーを、ほぼ同じ時空座標に置きます」

「……コピー?」

「はい。そのため、時空の情報連鎖構造は、ほぼ変化しません」

 僕は、しばらくその言葉の意味を頭の中で組み立てていた。

 時空間から必要なものを取り出す。

 でも、完全に“どこかから失わせる”のではなく、同時にコピーを置いて、情報連鎖をほぼ変えないようにする。

「それって……」

 僕は、万物プリンターの中を見つめたまま言った。

「……すごく回りくどいようで、でも、そうしないと時空が変になるってこと?」

「そのような理解で構いません」

 青葉は、応えた。

「完全な無からの創造ではありません。必要な情報を時空間から呼び出し、その複製と再配置を行うことで、因果的な負荷を極力減らしています」

 僕は、少しだけぞくっとした。

 理屈としては分かる。

 でも、分かるほど、逆に怖い。

 要するに、この万物プリンターは、何でもぽんと“作っている”わけではない。

 もっと危ういことを、危うくないように見える形で、ものすごく丁寧にやっているのだ。

「でも、“持ってくる”際に、シャドーマターを使うのかな?」

 僕がそう聞くと、青葉は頷いた。

「はい」

 それだけで、かなり納得がいった。

「なるほど……」

 僕は、内部で明滅する光を見ながら、小さく息を吐いた。

「……ずっとテレポートし続けてるんなら、確かに、かなりシャドーマターを消費する訳だ」

「その通りです」

 青葉は言う。

「シャドーマターだけでなく、そのコピーの際に、一部のエキゾチック物質が必要になることがあります」

「やっぱり、そうなんだ……」

 僕は、少しだけ苦笑した。

 万物プリンター――その名前だけ聞けば、本当に何でも無制限に出せそうな気がしてしまう。

 でも、当然ながら、万能ではないのだ。

 どこかの時空間から情報を引き、コピーし、因果を大きく乱さないように配置し、そのためにシャドーマターを消費し、さらに場合によってはエキゾチック物質まで必要となる。

 便利すぎるからこそ、裏ではとんでもなく繊細で重い処理をしている。

「確かに、“万物”プリンターとはいえ、万能ではないんだなあ……」

 僕がそう呟くと、青葉は、わずかにこちらへ視線を向けた。

「はい。非常に便利ですが、無制限ではありません」

 その言葉は、最近ずっと聞いている資源問題にもつながっていた。

 若葉の身体を作る、拠点を作る、そして、いずれ軌道施設を作ることもできるのだろう。

 どれもできる。

 でも、“できるからいくらでもやれる”わけではない。

 その現実を、目の前の光景は、すごくきれいな形で見せていた。

 若葉は、そういう難しい話を、全部は分かっていないのだろう。

 でも、内部で形づくられていくものをじっと見ていて、それから小さく言った。

「わたし、できる?」

 その問いに、僕は、すぐに答えた。

「できるよ」

 青葉も、静かに続ける。

「はい。順調です」

 その時、万物プリンターの内部で、雪片のように舞っていた微細情報媒体素子が、ふっと大きな渦を作った。

 光が一段、強くなる。

 中央で形成されつつあった輪郭が、少しだけはっきりした。

 小さな身体、細い腕、やわらかな曲線――。

 若葉は、それを見て、ほんの少しだけ息をのんだ。

 僕も、同じだった。

 この光の中から、もうすぐ若葉の身体が、こちら側へやってくる。

 そう思うと、不思議と、自分まで少し緊張していた。


***


 万物プリンターの内部で、微細情報媒体素子の雪片が大きく渦を巻いたあと、中央の輪郭は、いよいよ“身体”として分かる形になってきた。

 小さな肩。細い腕。髪の流れ。ドレスのような意匠を持った外装の裾――。

 さっきまで、ただの光の集積だったものが、少しずつ、「若葉の身体」としか言いようのない姿に近づいていく。僕は、それを見ながら、自然と息を詰めていた。

 若葉も同じだった。

 半透明の仮想体のまま、僕のすぐ横に立っている若葉は、いつもよりずっと静かだった。目の前で、自分の“入るはずの身体”が形になっていくのだ。落ち着いていられなくて当然だろう。

「若葉」

 僕が小さく呼ぶと、若葉は、はっとしたようにこちらを見た。

「うん」

「大丈夫?」

 そう聞いたものの、何がどう大丈夫なのか、自分でも少し曖昧だった。

 怖いかもしれない。

 楽しみかもしれない。

 その両方かもしれない。

 若葉は、少しだけ考えるようにしてから答えた。

「……どきどきする」

「そっか」

 僕は、少しだけ笑った。

「じゃあ、たぶん正常だ」

 その言葉に、若葉は、ほんの少しだけ安心したみたいに頷いた。

 青葉は、万物プリンターの出力状態を最後まで見届けながら、静かな声で告げる。

『主形成、完了。最終位相安定化へ移行します』

 その直後だった。

 万物プリンター内部の光が、一度だけ、強く脈打った。

 雪片のように舞っていた微細情報媒体素子が、今度は中央へ向かって収束する。

 ばらばらのきらめきだったものが、ひとつの輪郭へ、さらにその内側の密度へ、押し込まれていく感じだ。

 そして、中央の身体が、完全に見えた。

 若葉だった。

 もちろん、まだ眠っているように静かで、ただ立っているだけだ。

 でも、そこにある小さな身体は、間違いなく若葉のために作られたものだった。

 淡い色の髪で、やわらかな顔立ちだった。

 人間の女の子にしか見えない、でも分子機械でできた精緻な皮膚をしている。

 そして、最初から若葉らしい意匠として整えられた、ゴシック風のドレスを思わせる外装。

 その姿を見た瞬間、若葉の仮想体が、僕の隣で小さく息を呑むのが分かった。

「わたし……?」

「はい」

 青葉が答える。

「若葉の身体です」

 その声音は、やっぱり静かだった。

 でも、その静けさの奥には、明らかに期待があった。

「これより、格納庫へ転送します」

 青葉がそう告げた次の瞬間、万物プリンター内部の輪郭が、ふっと薄くなる。

 消えた、という感じではない。

 位相が、一段だけずれた感じだった。

 光の中に立っていた若葉の身体が、透明になり、そのまま、何もない空間へ滑り込むように見えなくなる。

「……転送?」

「はい。格納庫側の受け渡し区画へ移りました」

 青葉がそう言って、僕たちに視線を向けた。

「行きましょう」


***


 万物プリンター室を出て、ハンガー横の通路を抜ける。

 格納庫へ向かう途中、若葉はいつもより少しだけ僕の近くに寄っていた。仮想体だから、重さはない。けれど、気配として、いつもより確かに近い。

 僕も、なんとなく、歩幅を少しだけゆるめていた。

 格納庫の自動扉が開くと、内部はいつもより広く感じた。

 実際に広いのだろうけれど、それ以上に、今日は中央の一角だけが、ひどく静かで、目を引いたからだ。

 受け渡し区画には、淡い光の円がいくつも床へ投影されていた。安全域を示すためのものらしい。

 その中心に、さっきまで万物プリンターの中にあった若葉の身体が、静かに横たえられている。

 近くで見ると、やっぱり小さい。

 若葉の仮想体と同じ顔立ちなのに、実体としてそこにあるだけで、急に“守るべきもの”という感じが強くなった。

 手を伸ばせば触れられそうで、でもまだ誰も触れてはいけないような、そんな空気がある。

「ちゃんと、いるね……」

 僕が小さくそう言うと、青葉も頷いた。

「形成良好。器体構造に乱れなし。若葉、本体依り代との同期を開始します」

 若葉は、自分の身体を見つめていた。

 その視線は、好奇心だけでも、不安だけでもない。

 長いあいだ“曖昧な形でしか存在できなかったもの”が、ついに具体的な器を得た時の、言葉にしにくい感情がそのまま出ているように見えた。

「どうするの?」

 僕が青葉に聞くと、彼女は若葉の方を見て答えた。

「若葉が、自分で入ります」

 その言い方に、僕は少しだけ緊張した。

 無理やり押し込むのではない。

 若葉自身が、自分の意志で、この身体へ入るのだ。

「若葉」

 青葉の声が、少しだけ柔らかくなる。

「怖くありません。あなたは、すでにここまで来ています。あとは、この器へ、自分の意識の中心を移すだけです』」

 若葉は、しばらく黙っていた。

 でも、逃げたりはしなかった。

 やがて、小さく頷く。

「……うん」

「では、こちらへ」

 青葉が示すと、若葉の仮想体が、そっと前へ進んだ。

 半透明の身体が、横たわる自分の身体の傍まで来る。

 その光景は、理屈では理解していても、やっぱり少し不思議だった。自分が、自分を見下ろしている。

 若葉は、その場で少しだけ立ち止まった。

「入れる?」

「入れます」

 青葉が言う。

「あなたの魂は、すでにその身体と共有状態にあります。本体の依り代は遺跡側にありますが、意識の主座は、こちらへ安定して移せます」

 若葉は、もう一度、小さく頷いた。

 そして、ゆっくりと、自分の身体へ手を伸ばすみたいに、前へ進んだ。

 半透明の輪郭が、眠るように静かな器体へ重なる。

 最初は、何も起きないように見えた。

 でも次の瞬間、身体の輪郭に沿って、淡い光が走った。

 髪、首筋、肩、腕、胸元、脚――。

 まるで、眠っていた分子機械の一本一本へ、意識が行き渡っていくようだった。

 若葉の仮想体が、少しずつ薄くなる。

 同時に、横たわっていた身体の表面に、ほんのわずかな熱と色が戻る。

「っ……」

 僕は、無意識に息を止めていた。

 若葉の仮想体は、最後に輪郭だけを一瞬残して、それから完全に器体へ溶け込んだ。

 静寂。

 次の瞬間、横たわっていた若葉のまぶたが、ほんのわずかに震えた。

「……」

 指先が、動く。

 呼吸をしているわけではない。

 でも、確かに“起きる”側への動きだ。

 青葉が、小さく告げる。

「同期完了。意識主座、機怪人形ボディへ移行しました」

 その直後、若葉の目が、ゆっくりと開いた。

 大きな瞳が、最初は少しだけ焦点を探して揺れる。

 天井を見る。

 青葉を見る。

 僕を見る。

 それから、若葉は、自分の手を持ち上げた。

 半透明ではない。

 ちゃんとそこにある、小さな手だ。

「……おもい」

 最初の言葉が、それだった。

 僕は、思わず笑いそうになった。

 でも、笑うというより、胸が熱くなった。

 若葉は、今度は指を曲げる。

 ゆっくりと、開く。

 髪が、肩の上でわずかに揺れる。

 そのたびに、若葉の目が少しずつ大きくなる。

「いる……」

 その声は、前に仮想体で言った時より、ずっと深かった。

 ほんとうに、自分がここにいるのだと、身体の重さごと理解した声だった。

「うん」

 僕は、自然にそう答えていた。

「いるよ、若葉」

 若葉は、僕の方を見て、それから青葉を見た。

「おねえちゃん」

「はい」

「……いっしょ?」

 その問いに、青葉は静かに、でもはっきり頷いた。

「はい。これからは、もっと、ずっと一緒にいられます」

 その瞬間、若葉の顔が、少しだけくしゃっとした。

 泣くわけではない。

 でも、嬉しいのと安心したのと、たぶん少し怖かったのが全部ほどけたような顔だった。

 僕は、その表情を見て、ようやく本当に、若葉がこちら側へ来たのだと思った。


***


 若葉は、しばらく自分の手を見ていた。

 小さな指を開いて、閉じる。

 手首を少しひねる。

 腕を持ち上げる。

 そのたびに、髪が肩のあたりでふわりと揺れて、ドレス風の外装の裾が、わずかに擦れる音を立てた。

 仮想体の時にはなかった、ちゃんとした“重さ”と“遅れ”がそこにある。

 思っただけで全部が思った通りになるわけでは、ない。

 でも、そのぶん、自分の身体を動かしている感覚が、たしかにあるのだろう。

「……へん」

 若葉が、小さくそう呟いた。

 その感想に、僕は少しだけ笑った。

「うん。たぶん、最初は、そうだと思う」

「正常です」

 青葉が、いつも通り理知的な口調で補足する。

「仮想体と実体では、感覚入力も運動出力も異なります。特に、慣性、接地圧、姿勢制御は、初期段階では違和感が大きいはずです」

 若葉は、説明を全部理解しているわけではないだろう。

 でも、“へんでも大丈夫らしい”ということだけは分かったのか、少し安心したように頷いた。

 それから、自分の脚の方へ視線を落とす。

 まだ、起き上がってはいない。

 身体は受け渡し用の台の上に、半ば横たわるような姿勢のままだ。

 僕は、なんとなく息を詰めた。

 次は、立つ。

 たぶん、それが最初の大きな一歩になる。

「若葉」

 青葉が、やわらかく声をかける。

「立てそうですか?」

 若葉は、少しだけ考える顔をした。

 それから、正直に言う。

「わからない……」

「そりゃそうだよね」

 僕は、苦笑しながら答えた。

「だって、今までこういう身体で立ったこと、ないんだし」

 若葉は、僕を見る。

 その目の中には、不安もあるけれど、それ以上に“やってみたい”があるように見えた。

「やる」

 小さい声だった。

 でも、ちゃんと自分で決めた声だった。

「はい」

 青葉が、頷く。

「最初は、慌てなくて大丈夫です。まず上体を起こして、次に足を床へつけてください。必要なら、演算を補助します」

 若葉は、ゆっくりと肘へ力を入れた。

 その動きは、ぎこちなかった。

 でも、ぎこちないからこそ、本当に初めてなのだと分かる。

 肩が少し上がり、髪が前へ落ちる。

 小さな身体が、半分ほど起き上がる。

 その瞬間、若葉が少しだけ目を見開いた。

「おもい……」

「重力が、あるからね。地球の一割増しくらいらしいよ」

 僕がそう言うと、若葉は少しだけ僕を見て、それからまた自分の身体へ意識を戻した。

 次に、足を台の縁から下ろす。

 つま先が、床に触れる。

 その時の若葉の顔が、すごく印象的だった。

 驚いている。

 でも、怖がってはいない。

 “下に何かある”という、当たり前すぎることに、ちゃんと驚いている顔だった。

「ついた……」

「はい」

 青葉が静かに言う。

「そこに床があります」

 若葉は、たぶん、その返答の意味を全部は考えていない。

 でも、そのまま、もう片方の足も下ろした。

 小さな足裏が、床を踏む。

 今度は、両足がある。

 その状態で、若葉は、一度だけ、僕と青葉の顔を見比べた。

 たぶん、“本当にこれでいいのか”と確認しているのだろう。

「大丈夫」

 僕は、先にそう言った。

「ゆっくりでいいから」

 若葉は、小さく頷いた。

 そして、立とうとした。

 最初の動きは、少し危なっかしかった。

 脚へ力を入れる感覚が、まだうまく掴めていないのだろう。膝が少し震え、上体のバランスが前へ流れそうになる。

 僕は思わず手を伸ばしかけた。

 でも、その前に、青葉が小さく言う。

「若葉、自分の真ん中を意識してください。胸ではなく、その少し下です」

 若葉は、その言葉の通りにしようとしたらしい。

 肩の力が少し抜ける。

 膝の入り方が変わる。

 そして次の瞬間、すっと、身体が真上へ持ち上がった。

 立った。

 若葉が、自分の脚で、ちゃんと立っている。

「……」

 僕は、一瞬、言葉が出なかった。

 若葉自身も、すぐには喋らなかった。

 目を丸くしたまま、ただ立っている。

 でも、その顔は、明らかに何かを感じ取っていた。

「……たかい」

 やがて、若葉はそう言った。

 その感想が、あまりにも若葉らしくて、僕は、思わず笑ってしまった。

「そうだね。立つと、ちょっと高いよね」

「視点の変化です」

 青葉が、いつもの調子で補足する。

「仮想体でも、視点の変化はあると思いますが、実体として床反力を受けながら立つのは初めてですから、感覚差は大きいはずです」

 若葉は、まだ少しふらついていた。

 でも、倒れそうなほどではない。

 小さな手が、そっと宙で揺れる。

 バランスを取っているのだ。

 その仕草ひとつひとつが、いままでの若葉とは違う。ちゃんと“身体を持つ子供”の動きになっている。

「歩けるかな?」

 僕が言うと、若葉は少しだけ緊張した顔になる。

「あるく」

「焦らなくて大丈夫です」

 青葉が、またやわらかく言う。

「まずは、一歩だけ。転んでも、私たちがいます」

 若葉は、こくりと頷いた。

 それから、右足を少しだけ持ち上げようとして――思ったより上がらなかったのか、途中で止まる。

 もう一度、意識を集中する。

 今度は、ちゃんとつま先が床を離れた。

 その一歩は、ほんとうに小さかった。

 でも、たしかに前へ出た。

 足が床へつく。

 少し身体が揺れる。

 反対の足が、そのあとを追うみたいに少しだけ前へ出る。

「あるいた……」

 若葉が、自分で信じられないみたいに言う。

「うん」

 僕は、気づいたら笑っていた。

「歩いたよ!」

 若葉は、その言葉を聞いて、今度はもう一歩、前へ出た。

 さっきより、少しだけ自然だ。

 さらに、もう一歩。

 裾が揺れ、髪が肩で跳ねる。

 小さな足音が、格納庫の床へ響いた。

 その音を聞いた瞬間、僕の胸の奥で、何かが本当に実感になった。

 若葉は、もう仮想体として“そこにいるように見える”存在だけではなかった。

 ここにいて、歩いて、近づいてこられる存在になったのだ。

 若葉は、そのまま、ぎこちない足取りで僕のところまで来た。

 最後の一歩だけ、少しバランスを崩しかけて、僕は、反射的に手を出した。

 若葉の小さな身体が、僕の腕へ軽くぶつかる。

 重さがあった。

 軽かった。

 でも、たしかに重さがある。

「……つかまえた」

 若葉が、小さく言う。

「うん。つかまえられた」

 僕がそう返すと、若葉は、少しだけ安心したみたいに僕へ寄りかかった。

 青葉が、その様子を見ながら、ごく静かに言った。

「良好です」

 その二文字に、たぶんいろいろな意味が含まれているのだろう。

 同期も、感覚も、運動制御も、そして、若葉の精神的な安定も。

 でも、僕にとって一番大きかったのは、もっと単純なことだった。

 若葉が、自分の足で、こちらへ歩いてきた。

 それだけで、十分だった。

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