第七十八章 幕間――エナンナの物語(1) 神に捧げられる夜
星々は、音もなく砕けた艦の残骸を照らしていた。
エナンナは、虚空の中をゆっくりと漂っていた。上下も前後もない宇宙の中で、どちらへ流されているのかも分からない。ただ、自分の身体が少しずつ壊れていく感覚だけは、嫌になるほどはっきりしていた。
胸郭の内側で働いている分子機械の群れは、まだ完全には止まっていない。だが、その動きは明らかに鈍っていた。ひび割れた装甲の縁で、修復用の微細な光が何度も明滅しているのに、欠損部は塞がり切らない。シャドーマターの取得効率も、先ほどから連続して低下し続けていた。視界の端には、自己診断情報が淡い文字列となって流れ、損耗率、再生率、演算維持率、通信層の不安定化、そのどれもが、見たくもない方向へ数字を傾けている。
ここで終わるのだろうか、とエナンナは思った。
そう考えても、もう驚きはなかった。恐怖は、たしかにある。だが、それは人間だった頃のような、身体が震える種類の恐怖ではない。もっと静かで、もっと深い。どこか達観に似た感覚をともなっていた。自分は機怪人形となって、永遠に近い身体を与えられた。しかし、永遠とは、決して壊れないという意味ではなかったのだと、こんな時になって改めて理解する。
彼女の周囲には、無数の残骸が散っていた。
細く裂けた装甲板。
艦の骨組みだった金属梁。
焼け焦げた分子機械の雲。
凍ったように硬直したドローンの断片。
その一つ一つが、先ほどまで確かに戦っていた艦隊の名残だった。
旗艦シグネアの最後の瞬間も、まだ意識の表面に貼りついている。
シグネアの堅固な外殻を支えていたシールドの位相層が、それに触れた瞬間から崩れ始めた時の感覚を、エナンナは忘れられなかった。
普通の砲撃なら、厚い盾が削られ、熱が走り、耐えきれなければ貫通される。
それならまだ、戦場の理屈として理解できる。
しかし、あの紫の光は違った。盾そのものが、“守る”という働きを忘れていくようだった。構造がほどけ、意味がほどけ、存在がほどける。そんな破壊だった。
その後の記憶は断片的だ。
衝撃、回転、静寂――そして、今。
エナンナは、ゆっくりと首を巡らせた。
星の海は美しかった。こんな状況でさえ、そう思ってしまうのが少し可笑しかった。
宇宙は、いつだって美しすぎる。
人がどれだけ戦い、どれだけ壊れても、そんなことには少しも興味がないみたいに、ただ冷たく澄んでいる。
自分は、ここで二度目の死を迎えるのだろうか。
一度目の死を思い出す。
あの時も、自分は、こんなふうに何かの境目で空を見ていた気がした。
その記憶に触れた瞬間、彼女の意識は、ゆっくりと、ずっと昔の夜へ沈んでいった。
***
高原の風は、昔から冷たかった。
昼間は乾いた土の匂いを運び、草の上をざらりと撫でていく。
その風も、日が落ちれば急に鋭くなり、石造りの家の隙間から忍び込んで、寝台の上の体温さえ奪っていく。
エナンナが生まれ育った村は、そんな風が吹く高原の上にあった。
空が広かった。
それが、彼女の最初の記憶の一つだった。
村は小さく、石を積んだ低い家が肩を寄せるように並んでいる。
畑は痩せていて、羊の群れも多くはなかった。
しかし、昔に比べればずいぶん暮らしやすくなったのだと、母はよく言っていた。
昔は獣を追って歩き、実りを拾い、冬が来るたびに何人もいなくなったという。
いまはオオムギを育てることができる。石を積んで風を避けることも知った。数を数え、種を蒔く時期を見分けることも覚えた。
――それらを村へ教えたのは、“神”だった。
村人たちはそう信じていた。
半魚人のような姿をした神が、ときどき空の向こうから現れ、畑の作り方や、算数や、石を削る術を教えていく。
だから、村は少しずつ豊かになった。
だが、神は恵みだけをもたらすわけではない。供物も求めた。祈りと畏れを要求した。そして、時には人も。
そのことを、村の大人たちは誰も真っ向から口にしない。
しかし、子供たちでさえ知っていた。
神は、ありがたい。
しかし、神は、恐ろしい。
その二つは、村では最初から同じ意味だった。
エナンナの母は、この村の生まれではなかった。
北から来た女だと、村の女たちは噂していた。さらに北、もっと寒くて、森と海の匂いが濃い土地から来た、シャーマンの血を引く寡婦だ。
彼女は村人たちの中にいても、いつもどこか少し浮いて見えた。
草を編んで薬を作るのがうまく、火の揺れ方や鳥の声で天気を読む。そういう“見える人”として頼られながらも、完全には仲間として受け入れられていない。
その半端な立ち位置を、幼いエナンナは、言葉にできないまま感じ取っていた。
自分もまた、少しそうだった。
エナンナは、他の子たちより空を見上げることが多かった。
風が変わる前に、それを肌で感じることがあった。
夜の静けさの中で、まだ来ていない足音みたいなものを、先に知ることもあった。
母は、そんな娘を見て、何も言わずに髪を撫でるだけだった。
しかし、その目の中に、誇らしさと不安が混じっていることを、エナンナは薄々感じていた。
――だから、自分が選ばれた時も、驚きはしたが、完全には意外ではなかった。
「今年の供物として、神へ捧げられることになったのは、エナンナ、お前だ」
村長は、石造りの集会所で、厳かな顔をしてそう言った。
そう告げられた時、村の空気は、まるで最初からそう決まっていたかのように静かだった。
「……神の恵みは、供物によって支えられている。今年は畑も広がったし、羊も増えた。ならば、それに見合うものを捧げなければならないのだ。分かってくれ」
神官役の男は、もっともらしい理由を並べた。
「エナンナ、お主は、血筋も良く、神の目にかなうだろうからな」
母だけが、顔色を変えた。
けれど、そこで叫ぶことはしなかった。
叫んだところで、何も変わらないからだ。
村の男たちも、女たちも、目を逸らすばかりだった。誰も彼女の味方にならない。神を怒らせるわけにはいかないと、皆が思っている。
その夜、母はエナンナに言った。
「逃げようか?」
暗い室内で、小さく、震える声で。
しかし、その言葉には、計画の熱はなかった。
高原の外へ出れば、どこに何があるのか分からない。
娘を抱えて逃げ切る未来が見えない。
それでも口にしたのは、そう言うしかなかったからだろう。
エナンナは、少しだけ考えてから、首を振った。
「逃げても、見つかる気がするわ。きっと、見張られている」
それは、諦めだったが、それだけではなかった。
――当時の私は、怖かった。神がどんな姿をしているのか、自分がどうなるのか、想像するだけで胸が苦しくなった。
それでも、“空の向こうへ行くのかもしれない”という思いが、胸の底で小さく揺れていた。
その気持ちを口にすると、母はもっと苦しむだろう。
だから、エナンナは言わなかった。
代わりに、母に髪を梳かれるまま座っていた。
香草の匂いが髪へ移り、額に油が塗られ、供物のための衣が整えられる。
村の女たちも手伝いに来たが、その手つきは優しい者もいれば、どこか他人事のような者もいた。
エナンナは、その間中、外の風の音を聞いていた。
高原の夜の風は、冷たくて、乾いていて、いつも変わらない音をたてていた。
もうこの音を聞けないのかもしれない、とその時初めて思った。
***
月が高く昇る頃、エナンナは小屋にひとりでいた。
供物の娘は、その夜だけ村の外れの小屋へ移される。
穢れを避けるため、と大人たちは言うが、本当は逃げないように見張るためでもあるのだろう。
窓は小さく、戸は重い。
中には藁と薄い毛布しかない。火も弱く、夜の冷たさがじわじわと染みてくる。
しかし、窓から見える空だけは美しかった。
高原の星空は、いつも異様なくらい澄んでいた。
星が近い。
手を伸ばせば届きそうだと、本気で思うくらい近い。
エナンナは、膝を抱えてそれを見上げていた。
自分は、神に喰われるのだろうか。
どこか遠い場所へ連れていかれるのだろうか。
あるいは、ただ殺されるだけなのか。
何も分からない。
分からないことが、一番怖かった。
その時、戸が、音もなく開いた。
エナンナは、全身をこわばらせた。
息が止まりそうになった。
ついに来た、と思った。
しかし、そこに立っていたのは、村人たちが語る半魚人の神ではなかった。
若い男だった。
月明かりの中で、その姿はひどく異質だった。
村の男たちとは、顔のつくりがまるで違う。肌は滑らかで、汚れひとつなく、髪は闇の中でも妙に整って見える。
目の色も不思議だった。暗いのに、そこだけわずかに光を持っているみたいに見える。
エナンナは、怖いと思うより先に、その美しさに見入ってしまった。
そして、分かった――これは人間ではない。
男は、その反応を見て、口元だけでわずかに笑った。
「面白い」
意味が分かったことに、エナンナはさらに驚いた。
村の言葉ではなかったはずなのに、意味だけが頭の中へ落ちてくる。
「怯えるより先に、観察するか」
その声には、愉しむような響きがあった。
エナンナは、ようやく我に返る。
「あなたが……神?」
男は、小屋の中へ一歩入ってきた。
月明かりが、その横顔を滑る。
美しかった。
でも、その美しさは、人を安心させる種類のものではなかった。
冷たくて、鋭くて、こちらを切り分けて見ているみたいな美しさだった。
「そう呼ばれているものの一人だ」
その答え方は、肯定のようでもあり、妙に曖昧でもあった。
エナンナは、目を離せなかった。
男は、彼女の周りを半歩だけ回るようにして見た。
触れていないのに、見えない手で皮膚の表面をなぞられているような感覚があった。視線だけで、自分の骨の中や頭の奥まで覗かれている気がした。
怖い。
でも、目を逸らしたくない。
逃げたいのに、逃げられないのではなく、なぜか見ていたい。
そんな、ひどく嫌な魅了だった。
「なるほど」
男は、静かに言った。
「悪くない」
その評価に、エナンナの胸が小さく跳ねた。
――後の自分なら、それが“人間としての価値”ではなく、“素材としての性能”を見ている言葉だと分かっただろう。
しかし、この時の私には、そこまでは読めなかった。ただ、自分はこの存在に見出されたのだと、ひどく勝手に思ってしまった。
「わたしは、どうなるの?」
エナンナがそう訊くと、男――キーフラスという名前だと、後で知ることになる――は、少しだけ首を傾げた。
「お前は、神に喰われるわけではない」
その言い方には、村の言い伝えなど取るに足らない、とでも言うような軽さがあった。
「もっと遠くへ行く」
その言葉は、怖いはずなのに、ひどく甘く響いた。
「空の向こう?」
「そうだ」
キーフラスは、迷いなく答える。
「お前の村も、高原も、そのさらに向こうだ」
その瞬間、エナンナの胸の中で、恐怖と好奇心が激しくぶつかった。
母からは、離れたくなかった。
村も嫌いではない。
でも、その“向こう”を見たい気持ちも、どうしようもなく本物だった。
キーフラスは、その揺れを全部見抜いているような顔をしていた。
そして、その目には、やはり値踏みの色がある。
にもかかわらず、エナンナは、それを嫌だとは思えなかった。
この人は、自分だけを見ている。
村長でも、神官でも、母でもない、別の目で――その事実だけで、胸の奥が熱くなってしまう。
「行くか」
そう訊かれて、エナンナは頷いた。
頷いてから、自分でも少し驚いた。
命じられたからではない。
自分で選んだような気がしたからだ。
***
村の外れの丘を越えた先で、エナンナは神の船を見た。
夜の中に沈んでいる巨大な影だった。
最初は黒い岩山のように見えた。
しかし、近づくにつれ、それが自然のものではないと分かった。
表面にぬめるような光が走り、ところどころから蒸気めいたものが吹き出し、全体がごくゆっくり脈動しているようにも見えた。
船、というより、巨大な生き物の殻みたいだと思った。
近づくだけで、湿った熱気がまとわりついてくる。
高原の乾いた夜気とは正反対の、ぬるく、重く、生臭い空気だ。
エナンナは思わず顔をしかめた。
キーフラスは、それを見てまた少し笑った。
「不快か?」
「湿っているわ」
そう言うと、彼は喉の奥で小さく笑うような音を立てた。
「お前たちには、そうだろうな」
その“お前たち”という言い方が、妙に胸に残った。
彼にとって、自分たちは、明確に神なのだ。別のものなのだ、と分かった。
それなのに、その距離のある言い方さえ、エナンナには、どこか心地よく感じられてしまった。
船体の一部が開き、内部への通路が現れた。
足を踏み入れた瞬間、エナンナは本気で後悔しかけた。
中は、湿地そのものだった。
床は金属らしいのに、少し柔らかく湿っている。
壁は滑らかで、ところどころ脈打っているように見えた。
空気は重く、熱を含み、植物と腐敗の間のような臭いがした。
遠くでは、水音のようなものまで響いていた。
そして、その空間を、半魚人たちが動き回っていた。
村で語られていた神の姿、そのままだった。
濡れた皮膚に、横に広い頭、異様に大きな目――彼らは、エナンナを見ても、ほとんど驚きもしない。
ただ、珍しい動物を見るような目で一瞥して、すぐにそれぞれの仕事へ戻っていった。
その視線に少しだけ震えたのを思いだす。
キーフラスの目はまだ“見ている”感じがした。
でも、この半魚人たちの目は違った。彼らにとって、自分は完全に物だった。
その中で、キーフラスだけが人間の姿をしていた。
彼だけが、湿った世界の中で、乾いた異物みたいに見える。
それが、妙に頼もしくもあり、怖くもあった。
濡れた通路を歩きながら、何度か本気で戻りたくなった。
しかし、戻る場所はもうない。
村へ帰ったところで、供物として逃げ戻った娘を迎える余地はないだろう。
母の顔を思い出して、胸が痛んだ。
でも、それでも、足は前へ出た。
キーフラスがいる――そのことだけが、いまの彼女の支えだった。
外が目の前にあるような四角い窓がいっぱいある部屋――今はスクリーンが多く配置された制御区画だと分かっている――に連れて行かれて、支柱のようなものに固定された。
すると、その窓から見える景色が浮かび上がった。
何のショックも、浮かぶ感覚もなかった。
でも、神々と一緒に空を飛んでいる――その感覚に、驚くことしかできなかった。
やがて、すぐ空が蒼く、暗くなり、星の世界に出たことが分かった。
船は、ほとんど時間の感覚を与えないまま進んだ。もう、驚くことさえ忘れて、その窓の様子を眺めていた――と、思いだした。
やがて窓のようなものの外で、星の並びが流れ始めた。
空間そのものが折れ曲がって、また元に戻るような奇妙な感覚が身体の奥を通り抜けた。
キーフラスが何か語っていたような気がするが、スクリーンの眺めに圧倒されていた。
そのまま星が流れるのをただ見つめているうちに、すぐ目的地に到着した。
数百光年を越えたと、後から知ることになる。
しかし、その時の自分には、ただ星の中をただ船が進んだという感覚しか分からなかった。
***
船外へ出た時、エナンナは、立ち尽くすしかなかった。
そこは、もはや高原の村の延長ではなかった。
空が違った。
地平線も違った。
光の数も、違った。
夜であるはずなのに、遠くの地平線まで光の筋が走っていた。
塔のようなものがいくつも立ち、そこから細い橋や通路が空中へ伸びていた。
上空には別の船が浮かび、地上では、見たこともない機械や構造物が静かに動いていた。
遠くで時々、雷みたいな光が走るが、それは天気のせいではなった。
――今思えば、何かの実験設備か、兵器の試験か、そういう人の意思で生まれた光だった。
「ここは、惑星イハァトパーだ」
キーフラスはそう教えてくれた。
「ジャープッカ技術装備部の研究惑星の一つだ。現在、魔法戦士計画のために、いくつかの異星人が集められている」
そのときは、その言葉の意味がまったく分からなかった。
しかし、やがて、エアカーで連れて行かれた建物で、自分以外の“素材”を見ることになった。
黄色い鳥のような生き物がいた。
羽があるのに、空を飛ぶための生き物には見えない。くちばしは細く長く、目だけがやけに賢そうだった。
別の区画には、金属の塊が歩いていた。四角くも丸くもない形で、表面を波打たせながら移動していた。
さらに遠くには、動く岩みたいな異星人がいた。石の塊に節があり、そこがゆっくり曲がることで前進する。
どれも神ではなかった。
しかし、どれも、自分と同じように、ここへ連れてこられたのだと分かった。
――その瞬間、私は、ようやく理解したのだった。
自分は、神の花嫁ではなく、供物ですらない。何かを試すための材料だ、と。
その事実は、冷たかった。
胸の奥が一気に冷え、村に残してきた母の温もりが、急に遠くなった。
けれど、そこで完全な絶望には落ちなかった。
キーフラスが、少し離れた場所でこちらを見ていたからだ。
彼の目には、やはり値踏みの色がある。
それでも、その視線は自分をきちんと捉えている。
他の半魚人たちのように、ただの物として処理しているだけではない――そう思いたかったのかもしれない。
彼に見られていることを、救いだと思ってしまったのだ。
愚かなことだと、後の自分なら分かる。
しかし、その時の少女地代の私にとっては、それが本当に唯一の支えだった。
異星人たちの区画の入口で、一度だけ足を止めた。
キーフラスの方を振り返る。
彼は、ほんのわずかに顎を引いた。
先へ行け、という合図だった。
エナンナは、その視線に従った。
怖かった。
本当に、たまらなく怖かった。
けれど、その怖さと同じくらい、知りたいとも思っていた。
自分はこれからどうなるのか。
この空の向こうには、何があるのか。
この男は、自分をどこへ連れていこうとしているのか。
神に捧げられる夜は、こうして終わった。
――そして、エナンナという少女の、本当の意味での人生は、その夜から始まったのだった。
幕間3話スタートです。マザーの昔話です(涙)




