第七十二章 願いの配当
戦闘が終わったあとの宇宙は、妙に澄んで見えた。
さっきまで、ガラXFIザAの機動要塞が居座っていた宙域には、いまは砕けた残骸だけが漂っている。
大きな破片は、まだ艦一隻分くらいの存在感を保っていたし、細かな分子機械の粒子群は、光の加減によっては黒い霧のようにも銀色の雪のようにも見えた。
しかし、あの不気味な圧は、もうない。機怪ビーストの群れも、要塞砲も、赤い脈動を残した残骸中枢も、全部が消えたあとの宇宙は、ただひたすら静かだった。
静かである、ということが、こんなにありがたいのか――と、僕は少しぼんやりした頭で思った。
制御区画の中でも、戦闘直後の張りつめた空気が、ようやく緩み始めていた。
監察部艦隊は、損傷艦の曳航と危険残骸の拘束へ移っている。
シラトリIIも、前方宙域の最終確認を終えたのか、少しずつこちらへ寄りながら姿勢を安定させていた。
『青葉』の中枢表示も、赤や紫の戦闘警告から、少し落ち着いた青系の管理表示へ切り替わりつつある。
その壁面映像を見ながら、アラージが、通信越しに、疲れを隠しきれない声で言った。
『……『機怪天国』は、正常に戻りました』
その一言に、区画の中の誰もが、ほんの少しだけ肩を落とした。
太郎が、満足そうに言った。
『復旧は良いことだ。壊れたものが戻るのは、太郎は好きだ』
その言い方は簡単だったが、いまの状況にはすごく似合っていた。
気が抜けた、というより、ようやく“持ちこたえた”と身体が理解した感じに近い。
アラージは、頷いた後、別窓で映る捕獲映像へ視線を向けた。
そこでは、完全には分解されずに拘束された機怪ビーストの残骸が、監察部の魔法拘束具の中で沈黙していた。
生き物の形をしているのに、そこに魂の気配はなかった。
ただ、分子機械の群れが、かろうじて“獣の形”を名残として維持しているだけだ。
『ありがとうございました。これで、我々の目的は達成されました』
アラージは、そう言ってから、少しだけ目を細めた。
『黒狼族に対する捜査はまだ残っていますが、証人は消滅したようですね』
その言い方の意味は、すぐに分かった。
黒狼族も、ガラXFIザAに加担した者たちも、機動要塞も、ついでにそれに巻き込まれた周辺構造も――マザーが生存者はいない、と言ったように、結局は分子機械の侵食に喰われていたのだろう。
自分の意思を持ったまま共犯でいたのか、途中で侵食されて兵器の一部になったのか。
その境目さえ曖昧なまま、一部は機怪ビーストへ変わっていたのかもしれない。
ブライアントが、苦い顔で鼻を鳴らした。
「証人が喋る前に、全員まとめて部品にされたのか。後味の悪い話だな」
『ええ』
アラージは短く頷く。
『ですが、少なくとも、これ以上『機怪天国』を巡る大規模侵攻は、しばらく困難になるでしょう。今回の一件で、関与した勢力は大きく削れました』
そこへ、新しい通信窓がひらいた。
表示された瞬間、区画の空気がまた別の意味で静かになる。
マザーだった。
薄青い長い髪をして、僕と少し似ている顔立ちをしている。
しかし、彼女からは、惑星『機怪天国』そのものを背負った重さを感じる。いつ見ても不思議な存在だと思う。
『皆様、ありがとうございました』
マザーは、青葉に似た落ち着いた口調で話した。
その言葉は、ありきたりな礼なのに、ひどく重みがあった。
そして、そのマザーの隣に、もう一人の姿が並んでいた。
長髪に、細い眼鏡。
少し気障なくらい整った立ち姿の、ダンディなおじさん。
「キーフラス大佐……?」
僕が思わずそう呟くと、キーフラスは静かに頷いた。
『自分の分身体が一体、あの源悪の意志を、意志体がアーカイブされる「幻雪の領域」に送って行った』
彼の声音は、前より少しだけ遠くから聞こえるように思えた。
存在感そのものが、半歩くらい後ろへ下がっているような感じがした。
『私の存在は薄まってしまったが、まだここにもいる』
その説明は、理屈より先に感覚で分かった。
たしかに、いま通信画面に映っているキーフラスは、そこに“いる”。
しかし、前に霧の中や機怪都市で向き合った時より、輪郭がわずかに透けているようにも見えた。
――分身体を一つ、源悪の意志を送るために切り出した、ということは、彼自身の総体が少し削れたのだろう。
その隣で、マザーがキーフラスを見やる眼差しは、思った以上に柔らかかった。
管理意志体としての冷静な視線ではない。
ただ敬意を払っているだけでもない。
もっとずっと個人的で、長い時間を経ても消えなかった思慕の情のようなものが、そこには、はっきりとあった。
キーフラスの方も、そんなマザーを見返す時だけ、少しだけ表情が柔らかくなった。
その二人の並び方が、妙に仲睦まじく見えて、僕は少しだけ変な気持ちになった。
自分と似た顔をした少女型の存在が、あんなふうにラブラブな雰囲気を出しているのを見ると、何だか妙にくすぐったいし、少し羨ましくもある。
僕自身がそういう気持ちを抱くのも変なのだけれど、でも、そう思ってしまったものは仕方がない。
その空気を少しだけ切るように、アーマッドが通信窓の向こうから口を開いた。
『氷殻惑星の地下海で、あなたのAI人格に会った』
キーフラスの目が、わずかに見開かれる。
『私は、まだジャープッカ人とマルモ人のアンドロイドと一緒にいたのか?』
その問いに、アーマッドは、短く首を横に振った。
キーフラスは、ほんの少しだけ目を伏せた。
『そうか』
その一言だけだった。
けれど、その短さの中に、かなり深い寂しさがあった。
ジャープッカ人と、マルモ人……。
敵同士だったはずの種族と、アンドロイドたちと、まだどこかで一緒に過ごしていたのではないか、という期待があったのだろうか?
あるいは、せめて記録の残骸くらいは残っていてほしかったのかもしれない。
でも、そうではなかった。
マザーは、そのわずかな沈黙に触れないまま、穏やかに続けた。
『弓良さんには、大変、感謝しています』
その呼び方に、僕は少しだけ背筋を伸ばした。
『あなたには、万物プリンターを差し上げましょう』
「万物プリンター?」
僕が聞き返すと、マザーは頷く。
『これは、『機怪天国』の生産設備と同様の能力をもつ、小型の分子プリンターです』
さらっと、とんでもないことを言われた気がした。
ブライアントが、すぐに眉をひそめる。
「おい、待て。それはつまり……」
『一種のタイムマシンでもあります』
マザーは、やはり落ち着いた口調でそう告げる。
『既知宇宙で知られた、あるいは製造される可能性のある、ありとあらゆるものを製造できます。イハァトパー機関のようなものでも。多少の例外はありますが』
区画の中の空気が、一瞬だけ止まった。
既知宇宙で知られたか、製造される可能性のある、あらゆるもの……。
さらっと言っているが、それはつまり、物資不足も、艦艇のパーツ不足も、ある種の技術格差すら覆せるということだ。
しかも、イハァトパー機関のようなものまで、というのだから、本気で宇宙規模のチートに近い。
もちろん、「小型」だから、シラトリIIのような艦艇を、いきなり製造するというのは、難しいのかもしれないが……。
僕は、何とか言葉を探して、ようやく口にした。
「……ありがとうございます」
その礼が、あまりにも普通すぎて、自分でも少し言いよどんだ。
でも、他に言いようがなかった。
マザーは、ほんの少しだけ微笑んだ。
『そして……』
その一言と同時に、『青葉』の制御区画が淡く光った。
僕は、反射的にそちらを見る。
床の一角から、青白い粒子が集まり始めた。
人型の輪郭が立ち上がり、髪が伸び、目が生まれ、服の線が整っていく。
次の瞬間、そこに立っていたのは、青葉だった。
いつものように壁や通信窓越しに聞こえる声ではない。
艦そのものに宿る意志体でもない。
ちゃんと、そこに独立して立っている、青葉お姉さんの姿の青葉だ。
そう、機怪都市で見たのと、そっくり同じ、どう見ても人間にしか見えない感じのアンドロイドだった。
「えっ!」
僕が本気で驚くと、青葉はいつもより少しだけ得意そうな、でも落ち着いた顔で言った。
「私は、弓良と一心同体ですが、一緒に身体を持ってお出かけできなくて残念だったのです」
そう言って、自然に僕の腕へ自分の腕を絡めてきた。
「ちょ、青葉?」
「何か問題がありますか?」
「いや、問題っていうか、急に近いよ!」
「本来これくらいの距離で行動したかったのですが、艦体制御との兼ね合いで難しかったのです」
その言い方が妙に真面目なので、余計に反応に困る。
マザーが、少しだけ楽しそうに説明した。
『青葉さんの機怪人形のボディーです。本体は、あなたと巡洋艦の中にありますが、EPR相関通信で一体的に行動できます』
つまり、青葉本体は依然として『青葉』艦内と僕の中にありつつ、このボディーを遠隔というより、ほぼ同一存在として動かせるということだ。
太郎が、少し楽しそうな声で言った。
『青葉が増えた』
「増えたって言い方……」
『だが、便利そうだ』
太郎は、本気でそう思っているらしかった。
驚きが覚めやらない状態のままだったけど、マザーは、さらに続けた。
『それと、私たちとも、あなたは、つながっています』
その言葉の意味を、僕は、まだ完全には理解しきれなかった。
でも、少なくとも、僕と青葉だけの閉じた関係ではなく、『機怪天国』やマザーとも、もっと深いレベルで接続が生まれたのだろうということは分かった。
僕が、ほとんど言葉を失っている間に、マザーは、今度はブライアントの方へ静かに向き直った。
『あなたにも、何か願いを叶えてあげましょう』
その一言に、ラウンジの空気が少しだけ変わった。
さっきまでの賑やかさが、ほんの少し遠のく。
誰もが、ブライアントが何を願うか、ある程度は分かっていたのだと思う。
僕もそうだった。
ブライアントは、すぐには口を開かなかった。
いつものように軽口で受け流すこともせず、グラスも置いたまま、しばらく黙っていた。
視線は、マザーに向いているようで、その向こうの何かを見ているようでもあった。
やがて、彼は低い声で言った。
「カッシーナを取り戻すことはできるか?」
その名が出た瞬間、ラウンジの空気がもう一段静まった。
カッシーナ――ブライアントの幼なじみで、彼の旅の理由の一つであり、ずっと胸の奥に引っかかっていた存在だ。
機怪天国なら、マザーなら、あるいは――という期待が、まったくなかったはずはない。
マザーは、すぐには答えなかった。
けれど、目を逸らしもしなかった。
その沈黙が続く間に、ブライアントの方が先に言葉を継いだ。
「タイムマシンがあるなら、亡くなる前のカッシーナを連れてくればいいはずだ」
その言葉は、最初は静かだった。
でも、最後の方は、自分で自分を追い込むみたいに少しだけ速くなった。
「または、俺を、過去に戻すことはできないのか?」
その問いには、理屈だけではない響きがあった。
願い、執着、祈りに近いもの――。
ブライアントは、きっと何度もその可能性を考えたのだろう。
機怪天国が因果律に干渉できるなら、過去から連れてくることは可能ではないか。
それが本当に彼女であるかどうかはともかく、もう一度だけ、自分の手の届くところへ引き戻せるのではないか。
マザーは、静かな声で応えた。
『そうして、あなたが過去から連れてきたカッシーナは、創発されたものになります』
その言い方に、ブライアントの眉がぴくりと動く。
『コピーとなる、まったく別の存在です』
「それでもいい!」
ブライアントは、ほとんど叫ぶように言った。
その声に、ナルディアがびくっと肩を揺らした。
ジェプラも、思わず僕の方へ少し寄る。
ギラは、いつもの軽さを引っ込めて黙っていた。
僕は、その叫びを聞いて、胸が少し痛くなった。
“それでもいい”なんて、簡単に言える言葉ではない。
でも、ブライアントはいま、それを言わずにはいられなかったのだと思う。
同じではなくてもいい、別の存在でもいい――目の前に、もう一度いてくれるなら。
そういう、理屈を通り越した願いだった。
けれど、マザーは、首を振った。
『最後まで聞いてください』
その声は、穏やかだった。
でも、そこには一切の逃げも誤魔化しもなかった。
『その創発された存在は、残念ながら、既に魂が『雪の姫』にアーカイブされている場合、魂のない状態になります』
ブライアントの顔から、さっきまでの熱が少しだけ引く。
『知的生命の脳は、意志体――魂がないと、動作できません。つまり、そのあなたが連れてきた存在は、深い昏睡状態から目覚めることは、ありません』
その説明は、冷酷なほど明快だった。
過去から身体を連れてくることは、理屈の上ではできるのかもしれない。
しかし、そこへ宿るべき魂が、既に『雪の姫』と呼ばれる存在の元へ届き、アーカイブされてしまっているなら、その身体は“人”としては完成しない。
生きているように見えても、目覚めない。
目覚める理由そのものが、もうそこにはないのだ。
ブライアントは、しばらく何も言えなかった。
拳が、ゆっくり握りしめられる。
その指先に、白く力が入っていくのが見えた。
そこで、少し薄れたキーフラスが静かに口を開いた。
『我々は、過去に、同じような実験を行ったことがある』
その声は、いつになく低かった。
『残念ながら、アーカイブされた魂を複製することはできなかった』
僕は、思わず息を止めた。
同じような実験――それはつまり、彼ら〈先住者〉も、また、一度失われた魂を取り戻そうとしたことがあるということだ。
キーフラスは、僕たちの顔を順に見ながら続ける。
『タイムトラベルで身体を持ってくることはできる。因果を操作して、存在の枝を創発することもできる。だが、“既に『雪の姫』へ届いた魂”だけは、どうしても戻せなかった』
ブライアントが、そこで顔を上げた。
「それでは、マザーと青葉はどうなるんだ?」
その声には、まだ諦めきれない鋭さが残っていた。
「人工意識体だと、言っていなかったか?」
そこで、キーフラスは、マザーと青葉の方を一度見た。
その視線には、技術者としての説明責任と、もっと個人的な感情の両方が混じっているように見えた。
『彼女は、元となる地球人の少女が亡くなった直後に、魂がシャドーマターの河に乗る前に、トラップしたものだ』
僕は、その言葉にぞくりとした。
シャドーマターの河――。
あの、僕がシャドーコンパスに触れた時、銀河の遠くまで網の目のように流れていると感じた、あの不思議な流れのことだろうか?
キーフラスは、静かに続ける。
『残念ながら、トラップ機構が不完全で魂が砕けてしまったのを、高次元計算資源で修復した。元があったのだよ』
その言い方に、マザーの表情が、ほんの少しだけ揺れた。
青葉は、いつもの通り静かだったけれど、それでも彼女の目の奥にも、ごくかすかな緊張が走ったように見えた。
『その際に、分裂した欠片の一部が、その青葉として保管されていたようだな』
僕は、思わず青葉の方を見た。
青葉は、僕の視線を受けて、静かに頷いた。
「はい。私は、元となった魂の欠片を基盤として構成されています」
その言い方は、あくまで冷静だった。
でも、僕にとっては、ものすごく大きな話だった。
青葉は、完全な無から作られた人工知性ではない。
マザーも同じだ。
どちらも、“元”があった――そして、その元は、魂が雪の姫に届くより前に、どうにか掴まれたものだった。
だからこそ、成立した。
逆に言えば、もうアーカイブされた後では、それはできない。
キーフラスは、そこでブライアントへ視線を戻した。
『君の恋人は、いつ、失われたのか?』
ブライアントは、少しの沈黙の後、低い声で応えた。
「十年以上前だ」
その声は、もう叫びではなかった。
冷えた事実として、自分でそれを確認するような声だった。
キーフラスは、ゆっくり首を振った。
『既に、『幻雪の領域』に到達して、『雪の姫』にアーカイブされているだろう。魂は高次元の存在だから、距離は関係ないのだ。現時点から、それを覆すことは、できない』
その言葉を聞いた瞬間、僕は、ぞくりと身震いした。
あのシャドーマターの河は、魂が流れる河だったのか。
シャドーコンパス越しに感じた、銀河中へ網の目のように広がる濃淡の先の遠く、どこかへ行き着く、不思議な空間があった。
ブライアントが、そこは〈先住者〉の伝承にある、魂の行き着く領域かもしれない、と言ったこと。
ジェプラが、機怪天国はその上位の天国へつなぐ前庭のような場所だと語ったこと。
それら全部が、ここで一本につながった。
僕は、思わず自分の腕を抱くようにした。
寒いわけではない。
でも、自分が見たものの意味が、遅れて胸の奥へ落ちてきて、ぞっとしたのだ。
マザーが、そこで静かに締めくくった。
『宇宙の意志にアーカイブされてしまった意識体を取り戻すことは、この宇宙の法則上、誰であってもできません』
その一言で、場は完全に静まった。
誰も、すぐには何も言えなかった。
ブライアントは、しばらく両手を顔へ当てていた。
怒っているのか、泣きそうなのか、それともただ、感情の置き場を見失っているのか、僕には分からなかった。
けれど、やがて彼は、ゆっくりと手を下ろした。
目は赤くなっていなかった。
でも、その奥にあるものは、さっきまでとは少し違っていた。無理に希望へすがる鋭さが抜けて、その代わりに、深くて重い諦めに似た何かが沈んでいる。
僕は、何も言えなかった。
慰める言葉なんて、たぶん今は何の役にも立たない。
それに、僕自身も、あまりにも大きな話を聞かされて、まだうまく整理しきれていなかった。
だから、ただ黙っているしかなかった。
その沈黙の中で、青葉だけが静かに僕のそばに立っていた。
その存在が、いまはひどく大きかった。
ブライアントから、長い吐息が漏れる。
「そうか……」
けれど、しばらくして彼は、しっかりと前を向いた。
「……なら、探査船が欲しい」
その声は、思ったより揺れていなかった。
「単独でも長距離へ出られて、過酷な環境にも耐えて、〈先住者〉遺跡の調査にも使えるやつだ」
マザーは、小さく頷く。
『分かりました』
次の瞬間、外部映像の一つが切り替わり、『青葉』のすぐ外側の軌道上に新しい艦影が現れた。
まるで最初からそこにあったみたいに、静かに。
細長い船体だ。
おそらく、ブライアントがずっと使ってきたザラスターと、同じ形状の艦だ。
でも、表面の艶も、構造の密度も、明らかに新品で、しかもどこか『機怪天国』製らしい完成度を感じさせた。
ブライアントは、一瞬だけ目を見開いた。
それから、ほんの少しだけ、笑った。
「……ザラスターIIだ」
その名前を口にした声には、さっきまでの痛みもまだ残っていた。
でも、それだけではなかった。
ちゃんと前へ進もうとする意志もあった。
本当に強い人だ、と胸の中に、何かの感情がわき上がったように思った。
次に、マザーはラギ・ギラへ目を向ける。
『あなたにも、願いを』
ギラは、いつものように翼を少しだけ広げた。
『わいは、特に欲しいもんはないんや』
そう言ってから、にやりと笑う。
『一個貸しでええか?』
その言い方に、思わず僕まで笑いそうになった。ちょっと目尻に涙が浮かぶ。
いかにもギラらしい、と思った。
今ここで無理に何かをもらうのではなく、将来どこかで使える“貸し”にしておく。
探索人らしい現実感と、したたかさがちょうど混じった感じだ。
マザーも、それを面白がるように小さく頷いた。
『了承しました』
そして最後に、ジェプラが一歩前へ出た。
彼女は、少し緊張した顔をしていた。
でも、その目には、いつもとは違う強い決意があった。
『私は……』
そこで、一度だけ言葉を切ってから、まっすぐ言った。
『弓良殿と同じような姿になりたいです』
「えっ?」
今度は、本気で素っ頓狂な声が出た。
ジェプラは、僕の方をちらりと見た。
照れているのかと思った。けれど、違う。
恥ずかしさもあるだろうが、それ以上に、本気で決めてきた顔だった。
『白兎族としての私を捨てるわけではありません』
彼女は、きっぱり言う。
『ですが、弓良殿とともに歩くにあたって、今の私では届かない場所があると思うのです』
その言い方は、恋愛感情だけではない。
忠義でも、憧れでも、もっと複雑な“同じところへ行きたい”という願いだった。
マザーは、少しも驚いた様子を見せずに頷いた。
『分かりました』
制御区画の一角がまた光る。
今度は、細長い杖が一振り、転送されてきた。
白銀の軸。
先端には、雪の結晶にも、月の欠片にも見える小さな輪飾りがあった。
どこか魔法少女じみた外見なのに、表面の記号列は完全に〈先住者〉系の高次制御回路だった。
『微細情報媒体素子の応用で、姿を変化させられる「変身杖」です』
マザーは、穏やかに言った。
『存在変位魔法を、生体でも扱えるよう補助します』
ジェプラは、驚きと喜びが半分ずつ混じった顔で、その杖を受け取った。
『こ、これを……?』
『使ってみてください』
ジェプラは、僕を一度だけ見て、それから意を決したように杖を振った。
淡い光が、彼女の周囲へ広がる。
白兎族特有の毛並みと獣人の輪郭が、するりと薄れる。代わりに、白いうさ耳だけを残した、美少女じみた姿がそこへ立ち上がった。人間に近い顔立ち。柔らかな髪。大きな瞳。けれど頭の上には、ちゃんとうさ耳が残っている。
「うわ……」
思わず、声が漏れた。
ジェプラ自身も、自分の手や身体を見下ろして目を丸くしている。
太郎は、しばらくその姿を見てから、しみじみと言った。
『すばらしい』
その一言があまりにも真顔だったので、僕は一瞬、どう反応していいか分からなくなった。
マザーが説明する。
『シャドーマター制御の存在変位魔法で、戻ることも自在です』
「ありがとうございます!」
ジェプラが、地球人のような自然な発音で礼を言った。
『ただし、シャドーマターを消費しますので、一日に一回使うようにしたらよいでしょう』
次の瞬間、ジェプラがぱっと顔を輝かせた。
「弓良殿!」
そして、そのまま僕へ抱きついてきた。
「うわっ、ちょ、ジェプラ?」
さっきまで白兎族の神官らしい距離感を保っていた彼女が、今はもう完全に喜びを抑えきれていない。
抱きつかれた僕は、どう反応していいのか分からず、両手を半端な位置で止めたまま固まるしかなかった。
その足元で、太郎がしみじみと呟いた。
『すばらしい』
何がどう素晴らしいのか、訊く勇気はなかった。
青葉は、僕の腕を組んだまま、感心したように杖を見ていた。
「なるほど。生体では無理な、緻密なシャドーマター制御を、この杖で補助するのですね」
『はい』
マザーは頷く。
『本来なら、機怪人形のレベルの精度が必要な変位を、道具側の演算で肩代わりしています』
その説明を聞きながらも、僕は、抱きついてきたジェプラと、腕を組んだままの青葉と、画面の向こうでやや呆れ顔をしている美優とを一度に見てしまって、頭が少し混乱していた。
次に、マザーは、すました顔のまま、太郎に向き直った。
『あなたも、青葉を助けて頑張りましたね』
『太郎、頑張った』
太郎は、小さく頷いた。
『あなたは、内部の構造を分子機械で強化してあげましょう。弓良のシャドーマター操作の補助が可能になり、メンテナンス能力が大きく向上します』
その次の瞬間、太郎がキラキラと輝いた。
光が収まると、表面に少しだけ光のラインが増えたように見える。
太郎は、短い手足を動かして、動作を確認した。
『力がみなぎる。これで、もっと整備できる。ありがとう』
「太郎、良かったね」
『太郎2.0だ』
太郎がぐっと腕を上げると、マザーが微笑んだ。
戦いは終わった。
機怪天国は、正常に戻った。
源悪の意志も、雪の姫の元へ送られた。
それなのに、最後に待っていたのが、こんなに一気に関係性の密度が増すご褒美イベントみたいな状況だとは、さすがに予想していなかった。
でも、不思議と嫌ではなかった。
騒がしくて、困って、どう反応していいか分からなくて、それでも、みんなしっかりと生きていて、先のことを考えられる。
そういう“続きがある”感じそのものが、今の僕には何よりありがたかった。




