第六十五章 因果の路
機怪都市の光は、どこまでも整然としていた。
中心塔へ向かって流れる青白い脈動も、足元の床を走る細いラインも、遠くの高架回廊を行き交う発光体も、全てが秩序の中で動いているように見えた。
乱れがない。音も少ない。都市なのに、人のざわめきの代わりに、巨大な装置の内部でしか聞こえないような静かな循環音が、空気そのものへ溶け込んでいる。
その整いすぎた景色の中に立っていると、逆に、自分の方が雑音みたいに思えてくる。
僕は、広場の中央にある透明柱から少しだけ視線を外して、息を吐いた。
息を吐いた感覚はあるのに、胸が上下した感じはしない。
身体はある。けれど、いまここにあるのは、本当の肉体ではなく、その代わりに再現された何かなのだろう。
歩けるし、立っていられるし、手も握れる。しかし、その全部がどこか、現実の一歩手前で止まっているような感覚が残っていた。
『弓良』
マザーが静かに僕の名を呼んだ。
その声に振り向くと、彼女は広場の先にある一つの通路へ視線を向けていた。中心塔へ続く主回廊ではなく、もっと細く、もっと目立たない道だ。
都市全体から見れば脇道にすぎないはずなのに、その入口だけが妙に目についた。そこだけ、光の質が少し違う。青白い都市光の中に、わずかに夕方の色が混じっているように見える。
『こちらです』
「行くよ」
『はい』
マザーの返事は短い。けれど、その短さのせいで、逆に重みがあった。
ガンマが、少しだけ楽しそうな、でも半分は真面目な顔で言った。
『おぬしの足で行った方がよい。見せられるだけではなく、近づくという感覚が必要じゃ』
「感覚が必要、って」
『因果の路は、説明だけでは安定せぬ。おぬし自身が“そこへ行く”と認識することが大事なのじゃ』
相変わらず、分かりやすいような分かりにくいような言い方をする。
しかし、今は理屈をきれいに理解できなくても、そういうものなのだと受け入れるしかなかった。
僕は、青葉の方を見た。
「一緒に来るんだよね?」
「もちろんです」
青葉は、黒髪の女の人の姿のまま、落ち着いて頷いた。
「本艦が離れる理由はありません」
その一言で、少しだけほっとする。
僕は、ゆっくりと通路の方へ歩き出した。マザーが先導し、その後ろを僕と青葉が並んで進んだ。
ガンマは、最初は、僕たちの後ろにいたけれど、途中からふわりと位置を変えて、少し高いところを滑るみたいに移動していた。
歩いているのか、飛んでいるのか、その境目がよく分からない。
通路へ足を踏み入れた途端、周囲の光が少し変わった。
都市の中を満たしていた均一な青白い光が、少しずつ色を失っていった。
いや、失うというより、別の色へ変わって行った。
銀色の床はまだ同じままなのに、その表面へ差す光だけが、淡い橙と紫を帯び始めた。夕方の色だ、と僕は思った。
何となく、喉の奥がきゅっと縮む。
見たことがある色だ。
毎日のように見ていたはずの色だ。
けれど、あまりにも久しぶりすぎて、懐かしいより先に胸が痛い気がした。
さらに、数歩進むと、通路の壁面が薄れていった。
消えた、という言い方は少し違う。壁そのものはまだあるような気がするのに、存在の輪郭が曖昧になって、その向こう側が透けて見え始めたのだ。
最初は、機怪都市の別の構造体が見えているのかと思った。しかし、違った。
そこにあったのは、見覚えのある高さの塀と、電柱と、ひびの入った歩道だった。
「……え」
思わず立ち止まりそうになる。
でも、足は止まらなかった。いや、止められなかったのかもしれない。通路そのものが、こちらを前へ押していくような感じがある。
景色が、重なっていく。
左側にはまだ、機怪都市の細い塔と、そこを流れる発光線が見えている。右側には、夕方の住宅街の路地と、低いブロック塀と、見慣れたカーブミラーがある。
現実と異界が、切り貼りされているわけではない。どちらも滑らかにつながっているのに、つながっていること自体が間違っているような、不安定な違和感だった。
「青葉」
「はい」
「これ、見えてる?」
「本艦にも観測できています。ただし、弓良の方が、より強く“過去として”認識しているはずです」
その言葉の通りだった。
僕にとって、この景色は単なる映像ではない。
空気の温度の記憶まで一緒に思いだされてくる。
夏でも冬でもない、中途半端な季節の夕方だ。
制服の襟元に触れる空気。帰り道のだるさ。どこか遠くで鳴る自転車のベル。そういうものまで、ちゃんと“ここにあった”と身体の奥が知っている。
通路の終わりに近づくと、とうとう機怪都市の構造は後方へ退いていった。振り返ればまだ光の柱や流路は見える。けれど、前を向けば、もうほとんど完全に、あの頃の日本の夕暮れだった。
『ここが、現在もっとも強く接続している地点です』
マザーの声が、少しだけ遠く感じた。
『すみませんが、ここで失礼します』
マザーが、静かにはっきりと言った。
「えっ?」
僕は、思わず振り返る。
不思議だった。彼女の姿は、すぐそこに見えているのに、声だけが、機怪都市にいた時より一枚薄い膜の向こうから聞こえるみたいだった。
逆に、夕方の街の気配は、どんどん濃くなっていく。
『私は、これ以上、深く踏み込めません。この先の事象との繋がりが足りず、因果に拒絶されるのです』
マザーの声は穏やかだったが、迷いはなかった。
『どうぞ、お二人で進んでください』
「分かった……」
ガンマも、珍しく茶化さずに続ける。
『わしも、これ以上先には行けぬ。どうぞ気を付けていくのじゃ』
「本艦は、一緒です」
「ありがとう」
マザーとガンマに礼を言って、その過去の世界の方に歩き出す。
***
青葉と一緒に歩いていく。
最初のうちは、まだ機怪都市の床を踏んでいる感覚があった。滑らかで、硬くて、どこか無機質なのに、生き物の内部みたいな静かな循環がある床だ。
でも、数歩進んだだけで感触が変わっていく。
僕は、アスファルトの道の上に立っていた。
舗装のざらつき。白線のかすれ。排水溝の金属蓋。道端の雑草。向かい側に並ぶ低層住宅。全部が現実的すぎるほど現実的だった。
空は、オレンジと群青の境目へ入りかけている。電線の黒い線が、そこへ幾重にも重なっていた。
空気まで変わった。機怪都市の乾いた静けさが薄れ、夕方の住宅街の湿り気と、遠くを走る車の音と、どこかの家から漏れてくる夕食の匂いが混じり始める。
「ここは……」
声が漏れる。
言葉にするまでもなかった。
毎日通っていた通学路だ。
高校の帰り道だ。大きな交差点を避けて、少し住宅街側へ回り込む近道だった。
曲がり角に、よく猫がいた。古いクリーニング屋の前を通って、細い坂を少し下る。そういう細部が、見た瞬間に胸へ戻ってくる。
でも、全部を思い出せる訳ではなかった。
まだところどころが思いだせなかった。分かるところと、霧に包まれたままのように感じるところがあった。
その曖昧さが、かえって怖かった。
「……ここだ」
僕は、立ち止まりそうになるのをこらえて呟いた。
通学路だった。僕が高校へ通っていた頃、何度も歩いたはずの道だ。
大通りを避け、住宅街側へ少し回り込む近道だ。
夕方になると、部活帰りの生徒たちがだらだら歩いている、何でもない放課後の道路だった。
制服姿の男子二人組がいた。少し前を歩く女子生徒もいた。自転車を押している生徒も、いた。
どれも、ひどく自然だった。
そして、歩道の先、緩やかに曲がる道路の向こう側に、人影が見えた。
女子生徒だった。制服姿で、肩までの髪、少しだけ小柄な体格をしている。
こっちへ顔を向けてはいない。だから、すぐに断定できるわけではない。しかし、その立ち方に、妙に胸がざわつく。
「あれ……」
僕は、無意識に半歩前へ出ていた。
その子は、歩道の端でいったん足を止め、何かを見ているようだった。足元か、あるいは少し先の植え込みのあたりかもしれない。
夕方の道には、誰もいないわけではない。遠くに自転車を押す人影があり、車道の向こう側には買い物袋を下げた女性がいる。
でも、その中で、その子だけが妙に鮮明だった。
鮮明なのに、まだ顔はよく見えない。
「美優……?」
自分でも確信はなかった。
断言したいのに、記憶がまだそこまで追いついていない。無理に名前を決めつけるのが怖い気もした。
青葉が、静かに言う。
「弓良の記憶が、この人物へ強く反応しています』
「うん……」
それは分かる。
胸の奥が妙にざわつく。喉が渇いた。足先が少しだけ前へ出たがる。そういう反応が、理屈より先に出ていた。
その時、視界の端に何かが動いた。
道路の端に、茶色い毛並みを夕方の光でつやりと光らせた猫がいた。
猫だ。
僕は、そこで急に、身体の内側から何かがせり上がってくるのを感じた。
猫、夕方の道、女の子――そして、たぶんこの先で起きる何か。
「……っ」
頭の奥が熱くなる。記憶の断片が、一気に近づいてくる。
でも、まだ映像にはならない。
何が起きたのか、はっきりとは思い出せなかった。
ただ、“よくないことが起きる”という感覚だけが、異様な生々しさを持って胸を打つ。
「弓良」
青葉が呼んだ。
「焦点が狭まっています。無理に記憶を掘り返しすぎないでください」
「でも……」
「いまは観測段階です」
その声が、どうにか僕を踏みとどまらせる。
そこに、茶色い毛並みを夕陽に光らせた猫が歩いていた。
細い路地の影から、するりと現れたその猫は、あまり人を怖がるふうでもなく、けれど誰かに飼われているような甘えた気配もなかった。
半ば野良で、半ばこの町の住民のような、そんな曖昧な顔をしている。
夕方の斜めの光を受けて、背中の毛が一本一本きらりと光った。
その小さな生き物は、電柱の根元に鼻を寄せ、何かを確かめるように一度だけひげを揺らすと、次の瞬間には何のためらいもなく車道の方へ飛び出した。
「あ――」
僕は、息を呑んだ。
その猫に気づいた女の子が、反射的に車道へ飛び出す。
その動きには迷いがなかった。危ない、と頭で考えるより先に、猫が轢かれる、という一点だけで身体が動いてしまったのだと分かる飛び出し方だった。
制服のスカートの裾がふわりと揺れ、肩のあたりの髪が跳ね、細い腕が猫へ向かって伸びる。
その後ろから、もう一人、男子生徒が慌てて追っていく。
だが、その姿は、ぼんやりしてよく見えない。
背格好は分かる。
制服を着ていることも分かる。
顔をしかめて、美優を止めようとしていることも分かる。
それなのに、輪郭の肝心なところだけが霧の向こうにあるように曖昧だった。
顔も、声も、表情も、見えそうで見えない。まるで、この光景全体が、何かひどく不安定な記憶の上に置かれているみたいだった。
そこへ、大きなトラックが突っ込んできた。
路地の奥から、重く腹に響くディーゼル音が迫ってくる。
車体の白い側面が夕陽を鈍く反射し、前面のガラスには、道路脇の家並みが歪んで映っていた。
速度が妙だった。
住宅街の道を走るには、明らかに速すぎる。
「危ない!」
僕は、ほとんど無意識に叫んでいた。
その声と同時に、身体の奥で何かが跳ね上がる。
考えるより先に、シャドーマターの流れが引き出されるのが分かった。
念動力の魔法だった。青葉から何度も教わった、物を直接押し返すための力だ。
けれど、いまのそれは練習のような落ち着いた発動ではない。
助けなければならない、間に合わせなければならない、その焦りそのものが、魔法の形を先に作ってしまっていた。
ここは、機械天国の中で、僕は、意識だけが来ているはずだ。でも、しっかりと、魔法が使えた。
僕の意識が、トラックの前面へ叩きつけられる。
重い。
信じられないほど重い。
鉄の塊が持つ質量だけではない。
回転するタイヤ、前へ流れ続ける運動エネルギー、運転手の慌てた意識、夕方の道路の空気――そこへさらに別の“押し”が重なっている。
普通の自動車の感触ではなかった。もっと大きなものでも、宇宙船墓場で動かしていた記憶がある。
そして、その異常の正体が見えた。
トラックの上に、半魚人のような黒い醜悪な影が何体も現れていた。
最初は、荷台に貼りついた黒い染みのようにしか見えなかった。だが、視線を向けた瞬間に、それらは“染み”ではなく“意思を持った影”へ変わった。
ぬめった皮膚を思わせる輪郭に、横に広がった頭部、裂けたように長い口があった。
水棲生物にも人間にも似ていない、だがその両方を無理に混ぜ合わせたような、不快な形だった。
目だけが、不自然に光っている。
いや、光っているのではない。
そこだけ、因果の暗がりがむき出しになっているように見えた。
しかも、そいつらはただ車体の上にしがみついているだけではなかった。
「……運転手に、憑いてる!」
僕は、思わず叫んだ。
何体かの半魚人は、フロントガラスを半ば無視するようにして、運転席へ潜り込んでいた。いや、潜り込むというより、運転手の身体そのものへ黒い影を重ねていた。
ハンドルを握る両腕に、黒いぬめりの腕が何本も重なっている。
右足には、さらに濃い影がまとわりつき、アクセルを踏み込ませる方向へ、執拗に押し続けていた。
運転手本人の意識が、薄く悲鳴を上げているのが分かる。
完全に乗っ取られてはいない。
だが、自分の身体の動きに、複数の異質な意思が無理やりねじ込まれている。
その意思の感触は、ぞっとするほどおぞましかった。
怒りでも、憎しみでもない。
もっと乾いていて、もっと冷たくて、もっと機械的な執着だった。
事故は起きる。
女の子は轢かれる。
その結果が必要だ。
その結果に向かって、世界は押し込まれなければならない。
そういう、黒い意志の塊だった。
半魚人たちは、ただアクセルを吹かしているのではない。
“そうなるはずの未来”を、現在へ無理やり引き寄せようとしている。
事故という結果を、因果律の側から押しつけているのだと、理屈ではないところで理解した。
「させるか……!」
僕は、念動力の焦点を二つに分けた。
一つは、トラックそのものだ。
車体前面に、見えない壁を叩きつける。
もう一つは、運転手の右足。アクセルへ絡みついている黒い影ごと、その踏み込みを逆方向から押さえ込む。
だが、そこで分かった。
これは単なる力比べではない。
鋼鉄を押すなら、まだ分かる。
物理的な質量と運動エネルギーを、こちらの念動力で受け止めるだけなら、苦しくても筋は通る。
しかし、運転手の足に絡みついている黒い意志は、そうではなかった。
僕が足の動きを止めれば、そいつらはすぐに別の結果を探る。
アクセルが駄目なら、ハンドルを切る。
ハンドルが駄目なら、ブレーキのタイミングをずらす。
いや、それすら違う。そもそも“どの操作で事故が起きるか”ではなく、“事故が起きたという結果”だけを先に置いて、そこへ届く手段を後から何通りでも押し込んでくる。
まるで、因果の川を黒い手で無理やり曲げようとしているみたいだった。
その感触が、僕の意識へ直接ぬめりついてくる。
結果が先、手段は後――そういう異様な論理だった。
トラックのフロントが、ぎしりと嫌な音を立てる。
エンジンがうなり、前輪がわずかにぶれる。
僕の念動力と、半魚人たちの黒い意志とが、正面からぶつかっている。
だが、その間にも、美優は車道の中へ出ていた。
猫を抱き上げかけたまま、目を見開いている。
後ろから、ぼやけた男子生徒が、その肩を掴もうとしていた。
あと少しで届く。
けれど、その“あと少し”が致命的に遠い。
「弓良」
隣で、青葉の声がした。
その声だけが、異様なほど澄んでいた。夕方の騒音も、ディーゼル音も、半魚人たちのぬめった意志のざわめきも、その一声の前では少し後ろへ退く。
「私と一緒なら大丈夫です」
青葉が、僕の手を握る。
その瞬間、世界の見え方が変わった。
トラック、運転手、アクセルに絡みつく黒い意志、美優――ぼやけた男子生徒。
そして、その間をつないでいる因果の傾き。
全部が、ただの混乱ではなく、制御すべき構造として立ち上がった。
青葉の演算が、僕の意識へ直接重なってくる。
これまで僕一人では、ただ必死に押し返すことしかできなかった黒い流れに、どこから干渉し、どこを遮断し、どこを守ればいいのかが、一気に見えるようになる。
「シールドを!」
「はい」
言葉を交わすより早く、僕たちの意識は同じ方向へ動いていた。
まず、美優と男子生徒の前へ、薄い光の膜を張る。
単なる壁ではない。
半透明の、しかし因果の押し込みを通さないための位相の膜だ。
シャドーマターを薄く広げ、二人の周囲だけ、高次側から“轢かれる結果へ繋がる線”を逸らすように固定する。
美優が抱いた猫の先、ぼやけた男子生徒の肩先、そのさらに前方へ、柔らかい円弧を描くようにシールドが展開した。
半魚人たちは、すぐにそれへ気づいた。
運転手に憑いていたうちの二体が、するりとそこから離れる。
そして、今度はシールドへまとわりつこうとした。
黒い腕が、光の膜の表面を掻く。
爪とも指ともつかないものが走るたびに、薄い膜が波打つ。
頭の奥で、不快なきしみが鳴った。
そこに込められている意志が、あまりにも露骨だったからだ。
守るな、通せ、結果はひとつだ、邪魔をするな――黒い意志は、言葉ではなく、そういう圧として襲ってきた。
押しつけがましく、粗暴で、でも奇妙に冷静だ。
まるで、宇宙そのものの裏側に刻まれた“悪い手順書”を、そのままこちらへ読ませようとしてくるみたいだった。
「っ……!」
僕は、歯を食いしばった。
シールドを保つ。
トラックを止める。
運転手を守る。
その全部を同時にやらなければならない。
しかも、半魚人たちは、トラックを止めれば諦めるという相手ではない。
事故の結果そのものを押し込もうとする限り、どこか一つでも守りが甘くなれば、そこから入り込んでくる。
そこで、僕は気づく。
これは、物理の話だけではない。
単にトラックを止めるだけでは、足りない。
“事故が起きる”という因果そのものに、こちらから別の結果を上書きしなければならないのだ。
助かる、止まる、間に合う――その三つを、こちらの側の因果として固定するしかない。
僕の背後に、淡い光輪の輪郭が立ち上がった。
完全な発動ではない。
けれど、光輪に近い位相制御の構えが、僕の意志を高次元側へ強く押し出す。
半魚人たちの黒い意志が“事故が起きる”という結果を押しつけるなら、こちらは“助かる”という結果を光で固定する。
黒い意志と、白い光――ぬめりつくような執着と、澄んだ構造。
その二つが、因果律の浅瀬ではなく、もっと深い流れのところでぶつかり合う。
運転手の身体が、びくんと大きく震えた。
ハンドルが左右へぶれ、タイヤが軋む。
半魚人たちが、運転席の中で一斉に顔をこちらへ向ける。
その顔には、怒りらしきものすらなかった。
あるのはただ、“予定を狂わされた不快”だけだ。
「運転手を離せ!」
僕は、念動力ではなく、もっと“剥がす”感覚で力をぶつけた。
半魚人たちは、ぐにゃりと揺れた。
運転手の右足に絡んでいた黒い腕が、一瞬だけ浮く。
その隙を、青葉が逃さなかった。
「今です!」
青葉の補助が入り、僕の念動力が、アクセルを踏み込む右足そのものではなく、“右足が踏み込まれた結果へ届く線”を一段ずらす。
運転手本人の意志が、ようやくそこへ食い込む。
黒い意志が押していた足が、ほんの少しだけ戻った。
エンジン音が変わる。
高く唸っていた音が、わずかに落ちた。
トラックの前輪が、ほんの少しだけ減速側へ入った。
まだ止まらない。
だが、“止まらないまま轢く”という確定した未来は、少しだけ揺らいだ。
半魚人たちは、それに対してさらに黒い意志を強めてきた。
今度は、直接運転手の身体を操るだけではない。
道路そのものへ、空気の流れへ、光の角度へ、ブレーキが遅れるかもしれないという可能性へ――そういう無数の細い因果へ黒い糸を伸ばし始める。
事故が起きるなら、それでいい。
方法は、問わず、結果だけを確定させる。
その執拗さが、ひどく嫌だった。
嫌な意志が、この夕暮れの住宅街の上に、重なって押し込もうとしている。
「……っ、こいつら!」
僕は、自分でも驚くくらい強い嫌悪を込めて、光輪の位相をさらに前へ押した。
青葉の手が、少しだけ強くなる。
「弓良。焦って構いません。でも、形は崩さないでください」
「分かった……!」
本当に分かっていたかは怪しい。
でも、青葉が隣にいるから、どうにか崩れずに済んでいた。
僕は、美優と男子生徒の前に張ったシールドを一度だけ厚くする。
光の膜が、夕陽の中で一瞬だけ白く輝いた。
そこへ突っ込んできた二体の半魚人が、真正面からぶつかる。
黒い腕が、膜の表面を滑った。
裂こうとする。
捻じ曲げようとする。
“助かる”という結果の固定を、外側から“いや、やっぱり轢かれる”へ引き戻そうとする。
僕は、その力の向きそのものを感じ取った。
そこで逆向きに、白い因果を押し返す。
美優は助かり、猫も助かり、男子生徒は間に合い、トラックは止まる――。
その四つを、一つの束としてシールドの内側へ固定する。
すると、半魚人たちの形が、ぶれた。
奴らの存在は、意志が結果へ食い込んでいるからこそ保たれている。
なら、その結果の方をこちらが強く固定すれば、黒い意志の足場は崩れる。
半魚人の口が、不快なほど大きく裂けた。
悲鳴のようなものが、今度は頭の奥に直接突き刺さる。
だが、その悲鳴と同時に、運転席の中の影が一気に剥がれた。
ハンドルから、アクセルから、運転手の肩と首筋から――黒いぬめりが、何かに引き剥がされた泥みたいに、外へ飛び散る。
運転手が、ようやく本来の自分の意思でブレーキを踏んだ。
タイヤが悲鳴を上げる。
トラックの車体が前のめりに沈み込み、白線の上に長い黒い跡を残しながら、がくんと大きく揺れた。
その瞬間、残っていた半魚人たちが最後の力で、美優たちの方へ飛びかかった。
「青葉!」
「はい」
僕と青葉の意識が、完全に重なる。
今度は、守るためだけではなく、追い払うための光だった。
背後に立ち上がっていた光輪の輪郭が、ひときわ強くなる。
夕陽の中で、白く、澄んだ、だが圧倒的に鋭い光が広がった。
それは、半魚人たちの黒い意志へ直接触れた。
黒い意志と、白い意志、事故を起こすための執念と、助けるための構造――それらが、もう一度、真正面からぶつかる。
今度は、僕の方が押し勝った。
半魚人たちの身体が、影の形を保てなくなる。
腕が裂けた。
顔が崩れ、黒いぬめりが光に焼かれ、煙のように散る。
その時、僕は、一瞬だけ、彼らの意志の底に触れた気がした。
怒りでもなく、悲しみでもなく、もっと冷え切った、遠いところから流れ込んできた空虚な決意――。
起こす、壊す――その先に、自分たちが戻るための道を作る。
そんな、ひどく間違った帰還願望にも似たものが、かすかにあった。
だが、それも一瞬だった。
次の瞬間には、光に飲まれ、半魚人たちは完全に散った。
そして、トラックが止まる。
前輪が、きいいっと高い音を立てた。
車体が大きく前へ沈み込み、ほんの数十センチ先で、美優たちの前に止まる。
猫を抱えた美優が、唖然として立ち尽くしている。
そこへ、ぼやけた男子生徒が駆け寄る。
その顔は、やはりよく見えない。
でも、その必死さだけは、妙に胸の奥へ刺さった。
彼の焦り方、美優へ手を伸ばす角度、何より、“とにかく助けなきゃ”としか思っていない感じ――。
それが、僕自身のものだと、胸の奥が知っている。
助かった。
僕は、その場で荒い息を吐いた。
手の中には、まだ青葉のぬくもりがある。
シールドの残光が、薄く夕方の空気に溶けていく。
道路の上には、長いブレーキ痕だけが残っている。
青葉が、静かに言った。
「いまのは、ただの事故ではありませんでした」
「うん……」
僕は、小さく答えた。
もう分かっていた。
あれは、黒い意志が、因果律の側から事故を押し込もうとした出来事だった。
そして、僕と青葉は、シャドーマターの光で、それを押し返したのだ。
助けたのは、美優と猫と、あの男子生徒だけではない。
たぶん、あの時の僕自身の未来も、あそこで少し書き換わった。
そう思うと、胸の奥が、不思議なくらい静かに熱くなっていた。
「よかった……あ!」
でも、その瞬間、黒い影の残滓が、道路の中央にまだ残っているのに気づいた。
半魚人たちは消し飛んだ。
でも、その力の中心みたいなものが、薄い黒い染みみたいになって道路の上にこびりついていた。
事故という結果そのものを固定しようとする“釘”みたいなものだ。
僕は、それを見た瞬間に分かった。
ただトラックを止めるだけでは足りない。
あれを残したままでは、路そのものがまだ繋がったままだ。
「青葉」
「はい」
「まだ終わってない。あれが残ってる」
青葉は、僕と同じものを見ていたらしい。静かに頷く。
「同意します。あれが結節点です」
僕は、美優と、過去の僕と、止まったトラックを一度に視界へ入れた。
あの二人は、まだ気づいていない。
事故は止まった。けれど、何かがまだそこに残っていることには、たぶん気づいていない。
なら、今やるしかない。
「あれを壊せば、終わるんだよね」
「はい」
青葉の返答は迷いがなかった。
「今なら、可能です」
僕は、もう一度、青葉の手を強く握り返した。
怖さはあった。
でも、それ以上に、やらなきゃいけないという感覚が強かった。
僕と青葉のあいだを、シャドーマターの流れが一気に走る。
今度は念動力だけでは、ない。道路の中央に残る黒い結節点そのものを、情報の塊として掴み、引き剥がし、焼き切るようなイメージが自然に組み上がった。
青白い光が、細く鋭い槍みたいに圧縮される。
「消えろ!」
その一撃が、道路の中央の黒い一点へまっすぐ突き刺さった。
瞬間、世界がひび割れたみたいな感覚があった。
音ではない。
でも、何か巨大なものが、内側から裂けたと分かる。
黒い結節点が、ひときわ強い悲鳴を上げる。半魚人たちのものよりずっと深く、ずっと嫌な、時空の歪みそのものが鳴いているような響きだった。
道路の上の黒さが、一気に引き裂かれる。
それと同時に、男子生徒の顔が、ぼやけているまま、見えた。
高校二年生の僕だと、はっきり分かった。
今より少し幼くて、必死で、格好悪いくらい焦っていて、それでも、美優を助けようとすることだけは疑っていないことが、その必死さから分かった。
「……僕だ」
その認識が、今度こそ胸の奥へ完全に落ちた。
その瞬間、道路全体を包んでいた夕方の空気が、大きく揺れた。
電線、塀、白線、止まったトラック、美優、過去の僕――全部が、水面に映った景色みたいに震える。
けれど、崩れはしない。
代わりに、道路の中央にあった黒い結節点だけが、音もなく砕けて、青白い粒子へ変わっていった。
「切れます」
青葉の声が、はっきりと響く。
「弓良、そのままです」
僕は、過去の僕から目を逸らさずに、なおも力を込めた。
砕けた黒い粒は、今度は散らない。
逆に、何か見えない流れへ吸い込まれるみたいに、道路の上から消えていく。
その時、過去の僕が、美優の肩を支えながら何かを言った。
――その瞬間、なにか、どこか近くにいる美優のことを感じた。どうも、僕たちの器の間に共鳴が生じているように思った。
『……』
声は、はっきり聞こえなかった。でも、助かってよかった、と、本気で思っている心情が伝わってきた。
風景の美優の方は、猫を抱えたまま、その僕を見ている。
驚いて、息を詰めて、でもどこかで、その男子生徒を覚えてしまうみたいな目だった。
それを見た瞬間、僕の中で何かが静かに繋がった。
そうか。ここから全部が始まったのかもしれない。
僕と美優、事故、機怪天国、路、源悪の意志――その全部の結び目が、今、目の前で断ち切られていく。
夕暮れの世界が、今度は壊れるのではなく、静かに遠ざかっていく。
役目を終えた夢みたいに、道路の輪郭が薄れていく。
でも、不安定さはない。
前みたいに、何かへ引きずり込まれる感じもない。
「因果の路、切断を確認」
青葉の声が、静かに告げた。
「源悪の端末構造の接続も消失しています」
僕は、そこでようやく長く息を吐いた。
「……終わった?」
「はい」
青葉は頷く。
「この路は、もう機怪天国へ干渉する通路として機能しません」
その言葉の意味が、少し遅れて胸へ落ちる。
終わった。少なくとも、この因果の路は、もう源悪の意志が機怪天国へ絡みつく足場ではなくなったのだ。
最後に、夕暮れの道路の上にいた美優と、過去の僕が、ほんの少しだけこちらを向いた気がした。
もちろん、見えているはずはない。
でも、その一瞬だけ、二人が“何かが変わった”ことを感じ取ったように思えた。
次の瞬間、世界は青白い光へ溶けた。




