第六十三章 機怪都市
意識が、身体から引き剥がされる、というのは、こういう感じなのかもしれない。
そう思ったのは、マザーが『転送を開始します』と告げた直後だった。
強い衝撃がきた訳ではなかった。
目の前が真っ白になった訳でも、足元が抜けた訳でもなかった。
むしろ逆に、感覚が、静かに無くなっていった。
呼吸はしていないはずなのに、息を吸う感覚が薄れていった。
重力に引かれて床へ立っていたはずなのに、身体の重さという概念が、ゆっくりと意味を失っていった。
腕も、脚も、髪も、耳も、全部まだ“ある”気はするのに、それを持っているのが本当に自分なのかどうか、少しずつ曖昧になっていった……。
「っ……」
何か言おうとした。
でも、声帯が震えた感じはなかった。
声にする前の思考だけが先に流れて、それがそのまま僕の周囲へ染み出していくような、不思議な感覚だった。
『弓良、落ち着いてください』
青葉の声が聞こえた。
その声は、いつものように耳から入ってきたのではなかった。
もっと近く、僕の思考の、すぐ隣にいた。
『本艦も同時に転送されています。接続は維持されています』
「……これ、嫌かも……」
そう返したつもりだった。
実際には、口を動かした覚えはない。
でも、青葉には、しっかりと伝わったらしい。
『ええ。快適とは言い難い方式です』
そう言われると、少しだけ安心する。
青葉でもそう思うなら、僕が大げさに怖がっているだけではない。
次の瞬間、視界が開いた。
***
最初に見えたのは、空だった。
ただし、空と呼んでいいのか、少し迷うような天井だった。
高い。
とてつもなく高い。
どこかで区切られているはずなのに、遠すぎて境目が分からない。
薄い青銀色の光が幾層にも重なり、巨大なガラスのドームみたいにも見えるし、都市全体を覆う発光格子みたいにも見える。
星空ではない。
でも、人工の天井というには奥行きがありすぎる。
その下に、都市が広がっていた。
「……うわ」
思わず、そんな声が漏れた。
僕が立っていたのは、広い歩廊のような場所だった。
足元は、白に近い銀色の床材で、鏡みたいにぴかぴかしているわけではないのに、光を柔らかく返している。
床の下には、細い光の線が流路のように走っていた。
ただ装飾的なラインではない。
見ていると、どこかへ向かって、ゆっくり脈打ちながら流れている。
そして、その歩廊の先、左右、遠くの下方、さらに高い上層へと、都市の構造体が果てしなく連なっていた。
高層建築、という感じではない。
ビルが並んでいるのとも違う。
もっと立体的で、もっと有機的で、もっと巨大だ。
細長い塔が、枝分かれする木の幹みたいに空中で別の構造へ接続している。
橋にも見えるし、管にも見えるし、神殿の回廊にも見える通路が、何層にも重なって遠方へ伸びている。
壁面や塔の表面には、植物の蔓のような細い光の筋が走り、それがまた別の建造物へ吸い込まれていく。
ところどころに広いテラスのような円形区画があり、そこには噴水にも似た、でも液体ではなさそうな光の粒の流れが立ち上っていた。
都市全体が、機械でありながら、どこか生き物みたいだった。
美しい。
でも、人間の街の美しさとは違う。
便利そうとか、住みやすそうとか、そういう尺度を無視して、ただ“存在する構造そのものが見えている”感じがする。
「ここが……機怪都市……」
僕は、半分呆然としながら呟いた。
「そのようです」
青葉の声が、すぐ横から返ってきた。
すぐ横――そのことに少し遅れて気づいて、僕は、反射的に振り向いた。
そこにいたのは、女の人だった。
年齢にすれば、二十代前半くらいに見える。
長い黒髪を後ろでひとつに流し、落ち着いた色の衣服――いや、衣服に見える何かをまとっている。
顔立ちは、整いすぎるほど整っているのに、不自然な感じはない。
静かで、涼しげで、少しだけ大人びていて、でも冷たそうな感じは、ない。
そして、僕は、その顔を見た瞬間、息が止まりそうになった。
「……青葉?」
「はい」
その女の人は、いつもの沈着な声で答えた。
「本艦です」
「いや、え、ちょっと待って!」
僕は、思わず後ずさりしかけて、そこで、自分の身体がちゃんと床を踏んでいることに気づいた。
転送されたのだから、身体は置いてきたはずだ。
でも今、僕は、間違いなく“立っている”。
混乱しかけた頭をいったん押さえつけて、もう一度、その人を見る。
似ていた。昔、近所で遊んでくれた、あの青葉お姉さんに。
語り口が少し似ていると思って、僕がAIに青葉という名前を付けた、あの人に。
いや、あの人は中学生だったから、今は、おそらく僕が高校生だったときの青葉さんの年齢と同じくらいだろう。
まじまじと見つめる。
完全に同じ顔ではない、と思う。
でも、落ち着いた目の感じとか、口元の柔らかさとか、人を少しだけ上から見守るような雰囲気とか、そういうものが似すぎていた。
「なんで……?」
「弓良の認識しやすい形を取っているのだと思われます」
青葉は、そう言った。
「少なくとも本艦の感覚としては、“この姿であるべきだ”と自然に感じています」
「それが、なんかもう、すごく、ややこしいんだけど……」
「ええ。弓良の混乱は、理解できます」
理解できるなら、もう少し何とかならなかったのかな、と思わなくもない。
でも、青葉本人も落ち着いてはいるけれど、完全に平常という感じではなかった。
たぶん、彼女――いや、彼女と呼んでいいのか分からないけれど――にとっても、この姿は、初めてなのだろう。
「青葉、本当に青葉なんだよね?」
「はい」
青葉は、ほんの少しだけ口元を緩めた。
「弓良から見て、別人に感じられるかもしれない、という懸念ですね」
「うん……まあ」
「そこは、問題ありません。本艦です」
それを聞いて、少しだけ、ほっとした。
顔が変わっても、声と、話し方と、その落ち着き方は、確かに青葉だった。
その時だった。
『弓良さん、青葉さん』
静かな声が、前方から響いた。
僕たちの少し先、歩廊の中央に近い場所へ、薄青い光が立ち上がっていた。
最初は、霧の柱みたいに見えたが、ゆっくりと人の形を取った。
薄青い長い髪で、僕に似た顔立ちをした人だ。
しかし、僕より少し年上に見える落ち着きと、もっと完成された感じもする。
そう、マザーだ。
窓越しの映像で見た時より、ずっと“ここにいる”感じがあった。
でも、完全に物理的な身体とも違っていて、存在の密度だけが高い、とでもいうべき、妙な感じだった。
いってみれば、アラージの仮想体を、もっと濃くしたような存在感だった。
『ようこそ、機怪都市へ』
マザーは、穏やかにそう言った。
その少し後ろに、もう一つの人影が現れる。
『わらわもおるぞ』
狐族型の女性アンドロイド、機怪巫女γだった。
頬から首筋にかけて細い発光ラインが走り、肩や肘には明らかな機械的構造が見える。
しかし、社所ステーションで見たときよりも、より人間的な姿になっていた。
機怪巫女ガンマは、どこかふんわりした、それでいて偉そうな声でそう言った。
『さすがに、あの縛られ姿のままでは格好がつかんのでな』
その言い方で、少しだけ緊張が緩む。
「……元気そう、でいいのかな?」
『完全ではないが、喋るくらいはできる。意志様に、なんとか転送してもらったのじゃ』
ガンマは、胸を張るようにして言った。
『それより、おぬしよ』
彼女は、じろじろと僕を見た。
『やはり、けったいな造形じゃの』
「それ、また言う?」
思わず声が大きくなる。
ガンマは、少しも悪びれない。
『いや、人に見えすぎる。そこまで滑らかに擬態する必要は、普通ないのじゃ』
「擬態って、最初からこうなんだけど……』
『気にするな。美点じゃ』
「なんか、褒められてる感じがしないよ」
『半分は、褒めておる』
半分なのかと、僕が、少し口を尖らせると、青葉が横で静かに言った。
「ガンマ様の物言いは、最初からこうでした。気にしすぎない方がよいでしょう」
『おぬしも、なかなか弁が立つようになったの』
「元よりです」
青葉がそう返すと、ガンマは少しだけ愉快そうに目を細めた。
そのやり取りを見て、僕は、少し驚いた。
社所ステーションの時のガンマは、もっと機能不全に近かったし、何より状況が逼迫していた。
今の彼女には、余裕があった。
少なくとも、この都市の中では、かなり本来の調子へ戻っているらしい。
***
『まずは、見ていただきたいものがあります』
マザーがそう言うと、歩廊の先にあった空間が、すっと開いた。
壁が消えたわけではないものの、視界を遮っていた構造が、こちらに配慮したみたいに静かにずれていった。
その向こうに、都市の中心部らしきものが見えた。
僕は、思わず、息を呑んだ。
中心には、巨大な塔があった。
塔、というより、巨大な樹だった。
金属と光でできているものの、ファンタジー小説でたまにでてくる『世界樹』みたいに見えるものだった。
何本もの太い幹が空中で絡み合い、途中で分かれ、またどこかで繋がり直し、その表面を無数の光の筋が流れていく。
枝のように伸びた部分は、周囲の建造物や歩廊や浮遊構造へ接続していて、都市全体がその“樹”から育っているみたいに見えた。
しかも、その中心塔の内部には、液体でも気体でもない、青白い粒子の流れが脈打っていた。
血流にも似ている。
でも、もっと規模が大きくて、もっと静かで、もっと正確だ。
「すごい……」
それしか言えなかった。
「ここは、機怪天国の意志と工廠機構が、外界向けの理解可能な形へ変換された対話層です」
マザーの声が、静かに続く。
『あなた方人類にとっては、都市に見えるでしょう。グラブール人にとっては、神都に近く映るかもしれません。ですが本質的には、工廠の中枢へ近づくための、整えられた認識空間です』
「認識空間……」
『ええ』
マザーは頷く。
『機怪天国の本来構造を、そのまま異種知性へ見せても、意味を取れない、あるいは精神的負荷が高すぎる場合があります。ですので、ここでは、あなた方が理解しやすい形へ変換されています』
「じゃあ、この都市は、本当の都市じゃない?」
『我々、意志体の住む都市でもあり、それ以上の構造体でもあります』
マザーは、ひどくマザーらしい、曖昧なのに正確な答え方をした。
『あなたが歩いているこの床も、見ている塔も、情報の集合としては実在します。しかし、物質的な街並みと一対一対応しているわけではありません』
「分かったような、分からないような……高度な仮想空間ってこと?」
『現時点では、その認識で十分です』
そう言われると、もうその辺は一度脇へ置くしかない。
たぶん今の僕の頭では、工廠中枢の認識層とか、そういう話を一度で綺麗に理解するのは無理だ。
ガンマが、少し偉そうに胸を張った。
『要するに、ここは“分かるように見せておる”場所じゃ。ありがたいと思え』
「ありがたいのはそうなんだけど、その言い方だとちょっと微妙だよ」
『そうかえ?』
少しも分かっていない顔だった。
***
僕たちは、マザーとガンマに導かれる形で、歩廊を進み始めた。
歩く、という感覚はちゃんとある。
床を踏む感触も、身体の重心が前へ移る感覚もある。
でも、やっぱりどこか現実の身体とは違う。
それに、視界の外側がいつもより少し広い。
都市の光の流れや、遠方の構造の変化が、目の端でも妙にはっきり分かる。
「……これ、身体を置いてきてるんだよね」
僕が小声で言うと、青葉が横で応えた。
「物理的な意味では、そうです」
「普通に歩くことができるよ?」
『意志体にとって、自己認識しやすい運動系が再現されている』
「本艦も同意します」
……と思ったら、今のは青葉ではなかった。
前を歩くガンマだった。
「二人分の返答が重なると、少しややこしいな」
僕が言うと、ガンマはくすくす笑った。
『慣れよ。機怪都市では、思考と音声の境目が少し曖昧になる』
その曖昧さは、たしかに感じる。
誰かが喋ったのか、先に思考が届いたのか、一瞬だけ区別がつきにくいことがあった。
前方に、移動するたびに少しずつ景色が変わった。
最初は高層歩廊だった場所が、いつの間にか広い中庭のような空間になり、そこには水面の代わりに光の膜が揺れていた。
さらに進むと、今度は何本もの細い塔が立ち並ぶ区域へ出た。
それらは塔というより巨大な端末に近く、表面を細かな記号や発光線が絶えず流れている。
「あれは何?」
僕が訊くと、マザーが答えた。
『記録塔です』
「記録」
『はい。機怪天国内で発生した製造、保守、接続、対話、その一部が蓄積されています」
「一部、ってことは、全部では、ない?」
『全部を可視化すると、都市として成立しませんので』
それもそうか、と思った。
それにしても、“都市として成立しない”という物言い自体が、この場所の正体を示している気がする。
街に見えていても、実際には街ではない。
工場に見えていても、単なる工場ではない。
僕が理解できる形へ変換した上で見せられているものなのだ。
***
やがて、広いテラスのような場所へ出た。
そこからは、都市のかなり広い範囲が見渡せた。
下方には、無数の歩廊と塔と環状構造が重なり、遠方では中心塔へ向かっていく光の流れが幾筋も脈打っていた。
空中には、鳥にもドローンにも似た小さな発光体が静かに行き交っている。
あれもたぶん、この都市の機能の一部なのだろう。
マザーは、そのテラスの中央で立ち止まった。
『ここで、まず現状を共有します』
その声音が、少しだけ硬くなる。
『機怪天国は、現在、この瞬間も攻撃を受けています。源悪の意志による侵食は、主要部位から切り離しきれていない』
「……三割って言ってたやつ?」
『ええ。現時点では、大規模な侵食の進行は抑えられていますが、無視できる状態でもありません』
青葉が、静かに補足する。
「社所ステーションで確認したガンマ様の異常も、それが波及したと考えるのが妥当でしょう」
『その通りじゃ』
ガンマが、珍しく真面目な顔で頷いた。
『わらわは外縁窓口ゆえ、中枢の異変をまともに食らった。ここに戻れたのも、マザー様が強引に引き上げたからじゃ』
その口ぶりで分かる。
今こうして元気そうに見えても、危機はまだ終わっていないのだ。
「それで、僕たちは、何をすればいいの?」
僕が訊くと、マザーはまっすぐこちらを見た。
『説明しなければならないことが、まだあります』
「説明……」
『はい。あなた自身のこと。そして、なぜあなたと青葉さんが、ここへ来る必要があったのか』
その言葉に、少しだけ背筋が伸びた。
分かっていた。
ここへ呼ばれたのは、ただ機怪都市を見学するためではない。
僕自身が、この場所の問題と深く繋がっているからだ。
マザーは、ほんの少しだけ視線を和らげた。
『ですが、その前に、一度だけ確認したい』
「何を?」
『あなたは、ここに立って、不自然な懐かしさを感じていますか?』
その問いは、妙にまっすぐだった。
僕は、すぐには返答できなかった。
不自然な懐かしさ――それは確かに、あった。
ここは、見たことがない。
でも、どこかで知っていたような気がする。
歩廊の曲がり方、光の流れ方、中心塔を見上げた時の、胸の奥が少しだけ締まる感じも。
全部、初めてのはずなのに、初めてではないみたいな感覚があった。
「……ある」
僕は、正直に答えた。
「すごく変だけど、あるよ」
『そうですか』
マザーは、小さく頷いた。
その反応は、予想通りだ、と言いたげだった。
ガンマも、横からじっと僕を見ている。
『やはりの。おぬし、ここへ“来た”のではなく、“戻ってきた”感覚が少しあるのではないかえ』
「戻ってきたって……」
僕は、その言葉を聞いて、胸の奥がまた少しざわつくのを感じた。
戻ってきた。
それは、認めたくないような、でもどこかで怖いほどしっくり来る表現だった。
青葉が、少しだけ声を落として言った。
「弓良、負荷が上がっています」
「大丈夫。まだ大丈夫」
そう返したものの、本当に平気かどうかは分からなかった。
機怪都市は、美しい。
でも、その美しさの中に、明らかに僕自身の由来と関わる何かがある。
そう感じ始めると、景色の全部が急に“自分事”へ近づいてきてしまう。
マザーは、それでも容赦しなかった。
いや、容赦しないというより、ここで止めても意味がないと知っているのだろう。
『では、先へ進みましょう』
そう言って、彼女は中心塔の方へ向き直った。
『その懐かしい感覚は、おそらく、あなたの魂の記憶に由来します』
「魂?」
マザーは、頷いた。
『機怪人形は、魂を保っています。魔法を使うにも、魂が必要です』
その一言が、この機怪都市の空気そのものへ、静かに落ちていった。
僕は、思わず息を止めた。
青葉も、ガンマも、もう何も言わない。
光の流れる都市だけが、僕たちの周囲で静かに脈打っている。
ここから先は、もう景色の説明ではない。
僕自身の話だ。
そう分かって、僕は無意識に手を握りしめた。
この身体が本物なのか、意志体だけの仮の姿なのか、それすら曖昧なまま。
それでも、いま聞かなければならないことが、目の前にあるのだと理解していた。




