第五十七章 監察艦隊、出航
話が終わっても、すぐに部屋を出る空気にはならなかった。
誰もが、いま卓の上へ並べられたものの大きさを、まだ頭の中でちゃんと整理しきれていなかったからだと思う。
機怪天国、失踪した供給中枢、黒狼族とガラXFIザA、シラトリの撃沈、アーマッドたちの行方、イハァトパー機関――。
――それから、機怪天国が正常化した暁に与えられる、“好きな願いをする権利”。
話だけ見れば、ずいぶん遠くまで来てしまった気がする。
つい少し前まで、僕は『青葉』の中枢に必要なものを探していただけのはずだった。
それが今では、グラブール人文明の心臓の失踪を追う話に変わっている。
でも、不思議と、現実感がないわけではなかった。
ナヴーピで見た神殿の空気も、ガナドラで感じた市場の欲望も、全部この大きな構図の枝として収まり始めている。
あまりにも大きい。
しかし、大きいからこそ、かえって妙に筋が通る。
アラージは、最後に確認するように言った。
『本件は、機怪天国の所在確認と正常化を主目的とする、神殿監察部の正式案件として取り扱います』
「正式、ね」
僕が小さく言うと、アラージは頷いた。
『はい。すでに現場判断では済みません。神子弓良、『青葉』、並びに関係者は、監察艦隊と協働して移動します』
監察艦隊――その単語が、部屋の空気をまたひとつ現実的にした。
話はもう、会議室の中だけで転がってはいない。
実際に、艦隊が動くし、僕たちも、それに加わる。
ブライアントが、腕を組んだまま、言った。
「艦隊の規模は?」
『最低限です』
アラージは、答える。
『ただし、最低限という表現は、ガナドラ商会保安部程度を想定している方には、あまり参考にならないでしょう』
「だろうな」
ブライアントは小さく息を吐いた。
『機怪天国が失踪し、黒狼族とガラXFIザAの関与が疑われる以上、神殿監察部としては、小規模な私的探査行動では済ませられません。監察、封鎖、保護、記録保存、外交的即応、その全てに対応できる艦隊が必要です』
その説明は、たぶん正しい。
でも、正しいからこそ、だいぶ大事になっている。
ナルディアが、少しだけ顔を引きつらせた。
「それって、けっこう大ごとだよね……」
「今さらそこに戻るんだな」
ブライアントが言うと、ナルディアは、むっとした。
「いや、だって、もう感覚が壊れてきてるんだって! ガナドラのショー会場から逃げたあたりで一回だいぶ壊れたし」
「その感覚は、ちょっと分かるかも」
僕が言うと、ナルディアは、すぐに頷いた。
「でしょ?」
そのやり取りに、ギラが小さく笑う。
『まあ、壊れるくらいでちょうどええですわ。ここから先、普通の感覚だけで追いつくのしんどいですから』
「それ、全然安心する話じゃないよ」
『安心させるつもりはあらへんです』
相変わらずだなと思う。
でも、ギラのこういう軽さがあると、重い話ばかりでも息が詰まりすぎない。
***
その会談が終わったあと、部屋の空気は、少しだけ奇妙な静けさに包まれた。
誰も、すぐには立ち上がらない。
アラージの仮想体が消え、卓の上の表示も整理されて、ようやく一段落ついたはずなのに、今度は逆に、それぞれが聞いた話の重さを自分の中で持て余しているようだった。
ブライアントは、卓の向こうの何もない空間を見つめたまま、考え込んでいた。
それは、深いところへ沈んでいくような顔だった。
僕は、その横顔をしばらく見ていたけれど、やがて小さく声をかけた。
「……願いのことを考えてるの?」
ブライアントは、すぐには返事をしなかった。
少し遅れて、視線だけをこちらへ寄越す。
「まあ、そうだな」
その声は、いつもより少しだけ低かった。
「これまでの話によれば、『機怪天国』とやらは、因果律を超越するという〈先住者〉の技術そのものでは、ないだろう」
僕は、黙って、その先を待った。
ブライアントは、卓の上に残っていた微かな表示の残像みたいなものを見ながら続ける。
「おそらく、制御可能な自動工場が残っている惑星かもしれない」
「工場惑星……」
「故郷の惑星ウォルデックにも、〈先住者〉のプラントが残っていた」
その言葉に、僕は少しだけ目を瞬いた。
ブライアントの故郷で、彼が時々、ほんの少しだけ言葉の端に滲ませる、簡単には整理しきれない過去の匂い。
「その大規模なものか……」
ブライアントは、半分独り言みたいに言った。
「しかし、自動で動く工場惑星? そして、工場に好きな願いをできるのか……?」
その疑問は、すごくもっともだった。
僕も、さっきまで聞いていた話を思い返す。
願いを叶える星の実態は、おそらく高度な自律工場だ。
必要な部品を作る、供物と贈物の循環を維持する、文明の心臓を支える――。
そこまでは理屈として見えてきた。
でも、“好きな願いをする権利”という話まで出てくると、やっぱりどこか人の理解を超える。
工場なら、作れるものに限界があるはずだ。
しかし、〈先住者〉の工場なら、その限界そのものが僕たちの感覚とは違うのかもしれない。
ジェプラが言っていた、神の星と天国についての神話伝承もある。それも分からない。
ブライアントは、まだ考え込んだままだった。
「ともかく、何でも叶える、なんて話を、そのまま信じる気はない」
「うん」
「だが、完全に切り捨てる気にもなれない」
その声には、理性と、捨てきれない願いの両方があった。
たぶん、彼は、分かっているのだ。
工場惑星であるなら、ただ願うだけで死者を奇跡のように蘇らせる、というのは想定できない。
でも、〈先住者〉の技術が、自分たちの“無理”をどこまで無理のままにしておくのか、それも、まだ不明だ。
僕は、少しだけ考えてから言った。
「……行かないと分からないよ」
ブライアントが、ゆっくりとこちらを見た。
「ずいぶん真っ当なことを言うな」
「だって、本当にそうだし」
僕は、肩をすくめた。
「ここで想像だけしてても、結局、見えてるのは伝説と推測だけじゃん。工場なのか、神話なのか、その両方なのかも、行ってみないと分からない」
ブライアントは、しばらく黙っていた。
それから、ごく小さく息を吐く。
「……そうだな」
その一言は、完全に割り切れた感じはなかった。
でも、少なくとも、思考を止めたわけではないと分かった。
僕は、それで十分な気がした。
願いのこと、カッシーナのこと、そして謎めいた『機怪天国』――全部、まだ霧の中にある。
けれど、その霧の中へ進むしかないのだと、今はもう分かっている。
***
その後、僕たちは深部区画の控室へ戻された。
戻された、というより、次の準備のために一時待機になった、という方が正しいのだろう。
オッコクでは、言葉ひとつにも、扱いの階層が出る。
控室は、最初の客室よりは機能寄りの感じだったけど、それでも十分な客室だった。
壁際の端末、軽い食事、飲み物、整理された座席――監察部の人間が、長い案件の間、参考人や協力者をここで待たせることを前提に作った部屋なのだろう。
ナルディアは入るなり、ソファへ半分投げ出されるように座った。
「……あー、疲れた」
「まだ、何も始まってないよ」
僕が言うと、ナルディアは天井を見上げたまま応えた。
「頭が疲れたんだって。戦う方がまだ楽な時あるじゃん」
「そうかな?」
ガナドラでは、身体が緊張していた。
オッコクでは、頭の方がずっと忙しい。
どちらが楽かと言われると、たしかに一概には言えない。
ブライアントは、部屋へ入って、すぐに端末を確認し始めていた。
神殿監察部から渡された仮アクセス権らしく、艦隊編成の概要や出航準備の進捗らしき情報が流れている。
さすがに全部は見せていないだろうが、“こちらももう案件の側だ”と分かる程度の情報は渡してくるらしい。
「どう?」
僕が尋ねると、ブライアントは視線を端末から外さずに言った。
「監察艦隊は、狐族中心の本隊が一つ。そこに神殿系の補助艦、記録艦、護衛艦が混ざる。白兎族からも立ち会いと連絡係が乗るみたいだな」
「白兎族も?」
ジェプラが少し身を乗り出す。
ブライアントは、頷いた。
「大きくは出さないが、完全に手を離す気もないらしい。ゲラバが本当に対応しているんだろうな」
その言葉に、ジェプラの表情が少しだけ柔らかくなった。
ゲラバは、オッコクへ直接来るわけではない。しかし、ちゃんと手当をしてくれているのが分かるだけで、少し安心するのだろう。
ギラは、部屋の片隅の端末で別系統の確認をしていた。
神殿監察部との共同捜査員として、こっちにも権限があるらしい。
「ギラは、最初から、そのまま同行扱いなの?」
僕が尋ねると、ギラは翼を少しだけ上げた。
『一応、そうなりますな。ガナドラの件で、わてが拾った証拠線と、機怪天国失踪案件の監察線が、いまんとこきれいに繋がっとるんで』
「じゃあ、もう正式に仲間みたいな感じだ」
『“みたいな”やのうて、もうだいぶそうですやろ』
そう言われると、たしかにそうだった。
僕、青葉、太郎、ブライアント、ジェプラ、ナルディア、ギラ――ガナドラで拾った縁が、そのまま、しっかりと残っている。
それぞれ立場も事情も違うのに、今は、同じ方向を向いている。
太郎は、部屋の中央で小さく座ったまま、僕たちを順番に見ていた。
『人数が増えた』
「うん」
『護衛対象も増えた』
「うん……そうなるね」
『たいへんだ』
「太郎、ちょっとだけ嫌そう?」
『少し』
正直だった。でも、その後で続ける。
『しかし、やる』
「ありがとう」
『当然だ』
その当然が、やっぱりありがたい。
***
少しして、神殿監察部側から新しい通信が入った。
連絡してきたのは、今度は、アラージではない。
狐族の、いかにも現場実務寄りの男だった。
長身で濃い灰色の髪にやや吊り気味の目で、耳の先に小さな識別飾りをしている。
制服の着方はきっちりしているが、学者や神官というより、艦を動かす側の人間という雰囲気が濃かった。
『神殿監察部機動艦隊 司令補佐のギースです』
声は、硬い。
でも、不必要に威張ってはいない。
『オッコク深部区画に滞在中の神子弓良、『青葉』、および同行者に、出航前の実務確認を行います』
ナルディアが、すぐに小さく僕へ囁いた。
「きた。“ちゃんとしてる人”の上位版!」
「分かる」
僕も小さく返した。
ギースは、こちらの空気には頓着せずに話を進める。
『機怪天国の探索は、監察艦隊本隊による外縁封鎖と、巡洋艦『青葉』を中心とする先行調査に分かれます』
「先行調査は、『青葉』なんですね?」
僕が確認すると、ギースは当然のように応えた。
『はい。理由は三つあります。ひとつ、神子弓良と『青葉』がシャドーコンパスに対して適性を示したこと。ふたつ、大艦隊の接近は機怪天国側を刺激する可能性があること。みっつ、神話的、外交的に、神の船が先行する形の方が摩擦が少ないこと、です』
「最後の理由、すごくオッコクっぽいな」
僕が言うと、ギラが横で笑う。
『理屈と神話を両方立てるんですわ。狐族さんは』
ギースは、その感想を否定しなかった。
『無用な摩擦を減らせるなら、どの理屈も使いましょう』
言い切るところが、むしろ好感すら持てる。隠さないぶん、分かりやすい。
ブライアントが尋ねた。
「監察艦隊の武装姿勢は?」
『抑制的です』
ギースは、即答した。
『ただし、黒狼族またはガラXFIザAの再介入が確認された場合、直ちに強制排除へ移行します』
「つまり、穏便に行くつもりではあるが、撃つ気はあるってことだな」
『あります』
これもまた、はっきりしていた。
ナルディアが少しだけ肩をすくめる。
「監察部って、もっと“規則に沿って静かにやる人たち”かと思ってた」
「静かにはやるだろう」
ブライアントが言う。
「必要になれば、そのまま撃てるってだけで、な」
「それ、だいぶ怖い」
「そうだな」
ギースは、その会話をいちいち気に留めなかった。
そのまま、実務に必要な項目を並べていく。
『機怪天国側の異常が、機怪巫女様の障害なのか、軌道施設側の故障なのか、中心管理層の分断なのかは不明です。したがって、初動方針は観察優先、刺激回避、記録保存です』
ジェプラが、そこで少しだけ緊張した顔になる。
『機怪巫女様へ、いきなり強い圧をかけるべきではない、と』
『その通りです』
ギースは、頷いた。
『機怪巫女様は、神話的主体であると同時に、機怪天国の管理の役割を担っています。こちらの誤った刺激で、接触が完全に断たれる事態は避けるべきです』
僕は、その説明を聞いて少しだけ背筋を伸ばした。
つまり、ただ“見つければいい”わけではない。
接し方そのものが重要なのだ。
機怪天国は、多分、壊れかけている。
だから、乱暴に触れば本当に壊れるかもしれない。
青葉が、静かに補足する。
『工学的にも妥当です。高度な自律工場が不安定状態にある場合、外部からの過剰入力は危険です』
「青葉、そこはやっぱり同じ感覚なんだ」
『はい』
その短い返答に、少しだけ安心する。
『青葉』と監察部の現場感覚が、少なくともこの部分では噛み合っていた。
***
ギースからの実務確認が終わったあと、部屋は、しばらく静かなままだった。
ナルディアが、ソファの背に身体を預けながら言う。
「思ってたより、ほんとにちゃんと“探索前”って感じだね」
「ガナドラみたいに、勢いで飛び込む感じじゃないからね」
僕が言うと、ナルディアは口を尖らせた。
「でも、あの時の勢いがなかったら、あたしまだショー会場で戦わされてたけど」
「そうだろうね。脱出させられて、よかったよ」
「だから、勢いも大事!」
理屈としては、たしかに間違っていない。
ただし、今回の相手はショー会場でも商会でもなく、神話の中枢側らしい。
勢いだけではまずいのも、また確かだった。
ブライアントは、そこへ静かに言った。
「今回は、“壊れたものの中へ入る”つもりで行った方がいいな」
「壊れたもの?」
僕が繰り返すと、彼は頷く。
「工場でも、神殿でも、船でも同じだ。壊れたものは、見た目が静かでも、どこが死んでいてどこが生きてるか分からない」
その言い方は、すごく彼らしかった。
神話の話を、また工学の言葉へ戻した――でも、その方が僕には、少し考えやすい。
ギラが、ブライアントの整理に乗る。
『せやから、監察艦隊が外から押さえて、『青葉』さんが中へ行く。理屈としてはきれいやと思いますわ』
「ギラは、怖くないの?」
僕が聞くと、ギラは少しだけ目を細めた。
『怖いですで。でも、怖い案件の方が、たまに核心へ近いんです』
その言葉は、いかにも探索人らしかった。
ただ危険を好むのではなく、危険があるからこそ価値があると思っているのだろう。
ジェプラは、その会話を聞きながら静かに言った。
『私は……機怪天国そのものよりも、そこで弓良殿が、どう見られるのかが少し怖いです』
「僕が?」
『はい』
ジェプラは真面目に頷いた。
『白兎族の神殿では、弓良殿は神子として迎えられました。でも、機怪天国は、それよりももっと直接的に“神の側”のものです。そこが弓良殿をどう扱うのか、まだ想像がつきません』
その言葉を聞いて、胸の奥が少しだけ重くなる。
たしかに、そうだ。
ナヴーピでは、白兎族が僕を神子として見た。
でも、機怪天国は、その神話の“根”の側かもしれない。
もしそこに、本当に機怪人形や機怪巫女がいるなら、彼らは、僕をどう見るのだろう?
青葉が、その沈黙の中で静かに言った。
『本艦としては、拒絶よりも識別を優先すると推定します』
「識別?」
『はい。相手が機怪人形なら、まず“敵か味方か”より、“何であるか”を読み取る設計思想が強いと考えられます』
それは、少しだけ救いのある話にも聞こえた。
いきなり排除されるのではなく、まず見られる。
でも、それはそれで怖い。
ナルディアが、僕の顔を覗き込むようにして言う。
「弓良、また顔がちょっと固い」
「そう?」
「うん。たぶん、考えすぎてる時の顔」
「……それは、あるかも」
「まあ、いいんじゃない」
ナルディアは肩をすくめた。
「怖いなら怖いで。そのまま行っても」
その言い方は、いつものように軽い。
でも、たぶん軽くするために言ってくれているのだろう。
「みんな、たぶん、ちょっとずつ怖いし」
「たしかに」
僕が言うと、ナルディアはすぐ頷いた。
「でしょ?」
***
しばらくして、アラージから再接続が入った。
今度は短い連絡だった。
『出航許可が下りました』
その一言で、部屋の空気がぴんと張る。
『監察艦隊本隊は、既に準備完了です。『青葉』は、補給、点検、外装再確認ののち、先行調査艦として編入します』
青葉が、すぐに応答した。
『了解しました。現時点で、主要系統に致命的不具合はありません。出航前にセルフチェックと再調整を実施します』
『結構です』
アラージは続ける。
『神子弓良、ならびに同行者には、出航前ブリーフィングへの参加を求めます。これは形式ではありません。あなた方が艦隊行動の一部になる以上、全体像を共有してもらいます』
ブライアントが、小さく告げる。
「そこは、助かる」
『そうでしょう』
アラージは、平然としていた。
『何も知らされぬまま前へ出されるのは、現場にとって最悪ですから』
その言い方に、少しだけ好感を持ってしまう。
怖い人ではある。
でも、現場の理屈はちゃんと通すのだ。
『なお』
アラージは少しだけ視線を動かした。
『ラギ・ギラの同行は、正式に認められました』
『やー、ありがとうございますわ』
ギラが翼を軽く上げる。
『ただし、独立捜査探索人としての越権行為は控えるように』
『そこ、急に釘刺しますやん』
『必要ですので』
その返しに、僕たちは少しだけ笑った。
ギラがギラのままでいる以上、その注意はたぶん必要なのだろう。
アラージは、さらに続ける。
『ナルディアについても、保護対象兼準観察協力者として同行を認めます』
「準、って何?」
ナルディアが眉をひそめる。
『正式観察協力者ほどの権限は持たないが、情報共有と現場立会いは認める、という意味です』
「なんか、ちょっとだけ仲間になった感じ」
「ちょっとだけ、ね」
僕が言うと、ナルディアはむっとする。
「いや、ちゃんと仲間でしょ」
「もちろん、そうだよ」
そう返すと、ナルディアは少しだけ得意そうな顔をした。
こういう分かりやすさは、やっぱり助かる。
アラージは、最後に静かに言った。
『次に向かうのは、失踪した供給中枢です』
その一言は、短いのに重かった。
『静けさに騙されないこと。応答がないことを“無人”と誤認しないこと。神話を過信せず、同時に軽視もしないこと。以上を徹底してください』
「了解です」
僕がそう答えると、アラージはほんのわずかに顎を引いた。
『では、艦隊ブリーフィングで』
通信が切れる。
***
それからは、本当に慌ただしかった。
でも、その慌ただしさはガナドラの時のような、事故と勢いに振り回される種類のものではない。
やるべきことが多く、順番が決まっていて、その順番どおりに全員が動く慌ただしさだ。
『青葉』へ戻るための移動、監察部側からの補給物資の受領、艦内再点検――。
ギラの持ち込みデータの整理と、ナルディアの一時保護記録の更新――。
ジェプラの白兎族向け簡易連絡と、ブライアントの個人装備再確認――。
太郎は太郎で、艦内の細かな点検に勝手に参加していた。
僕が『青葉』へ戻った時、艦内の空気は、やっぱり少し違っていた。
オッコクの整った静けさの中で張っていた緊張が、『青葉』の中へ入ると少しだけほぐれる。
ここは、僕にとってもう“帰る場所”なのだと思う。
「ただいま」
思わずそう呟くと、青葉が静かに応じた。
『おかえりなさい、弓良』
短い一言だった。
でも、それだけで少しだけ肩の力が抜けた。
ナルディアがそのやり取りを見て、ちょっとだけ目を丸くする。
「……なんか、ちゃんと“帰ってきた感”あるね」
「あるよ」
「いいね、それ」
その言い方が少しだけ寂しそうに聞こえたので、僕は一瞬だけ言葉に詰まる。
ナルディアには、今、そういう“帰る場所”が揺らいでいる。
シラトリは撃沈された。
アーマッドたちの所在も不明だ。
チーム・ラシードの仲間としての地面そのものが、今はふわふわしているのだろう。
ブライアントも、それに気づいたのか、わざと淡々とした声で言った。
「しばらくは、ここが拠点だ」
ナルディアは少しだけ目を瞬いて、それから小さく頷いた。
「……うん」
それで十分だった。
太郎は、僕たちが話しているあいだも、艦内の小さな点検口や床下の表示へ忙しく視線を走らせていた。
やがて、短く報告する。
『艦内、問題なし。いや、問題は多いが、出航不能ではない』
「その言い方、ちょっと不安になるなあ」
『このくらいなら、まだ“いつも通り”の範囲だ』
少し間を置いてから、太郎は、ぼそっと続けた。
『基準がずれてきた気がするが、気にしない』
僕は、少し笑った。
***
出航直前、僕たちは『青葉』のブリーフィング区画へ集まった。
前方表示には、監察艦隊の簡易陣形が出ている。
中央に本隊があり、その周囲に護衛艦と記録艦があった。
少し外へ展開する封鎖用の駆逐艦がある。
そして、先行調査位置に『青葉』があった。
僕は、その図を見ながら小さく息を吐いた。
「本当に、艦隊なんだね……」
ナルディアがすぐに言う。
「いや、そこ今さら?」
「だって、話で聞くのと、こうして並んでるのを見るの、ちょっと違うでしょ」
「それは、分かる」
太郎も、前方表示の艦隊陣形を見上げていたが、やがて小さく言った。
『大きい艦隊は、よく見ると少し怖い』
「そう?」
『整っているものは、それだけで圧がある』
その感想は、妙に太郎らしくて、僕は少しだけ笑った。
『青葉も、たぶん少しだけ襟を正している』
『その表現は、完全には否定できません』
青葉が、珍しくそんなふうに返した。
ギラが、その図の一角を嘴で示すようにして言う。
『本隊は監察、外縁は封鎖、記録艦は証拠保存。ようできとりますわ。狐族さんらしい』
ブライアントは、先行調査位置の『青葉』を見ていた。
「目立つな」
「目立つね」
「だが、隠れても意味はないか」
その通りだった。
神子と神の船が、最初に前へ出る。
それは神話的にも、外交的にも、おそらく機怪天国との接触時にも、たぶん最も摩擦の少ない形なのだろう。
でも、その分だけ、僕たちが一番最初に“何か”と向き合うことになる。
ジェプラが、少し緊張した顔で言った。
『弓良殿』
「うん?」
『もし、機怪天国の側が本当に弓良殿を“神の側の存在”として見るなら、私たちはその場で何が起きても、すぐには意味を読み切れないかもしれません』
「……うん」
『ですから、どうか、一人で判断を抱え込みすぎないでください』
その言葉に、僕は少しだけ驚いた。
ジェプラは、普段は自分が支える側に回ることが多い。
でも今の言い方は、“僕が一人で全部を背負いにいく”ことを、先回りして止めようとしていた。
「ありがとう」
『はい』
短いやり取りだったけれど、かなりありがたかった。
青葉が、その瞬間に告げる。
『出航準備完了』
艦内の空気が、少しだけ変わる。
振動が、ごく低く床下から伝わってきた。
係留を解いた船が、ゆっくりと“これから動くもの”へ変わっていく感覚だ。
『神殿監察部艦隊本隊との同期完了。航路接続、問題ありません』
僕は、自然とシャドーコンパスへ手を伸ばしていた。
まだ何も指していない。
ただ、ここから先で、この小さな神具が本当に道標になるのだろうと思うと、持っているだけで少しだけ緊張した。
ナルディアが、横で小さく言う。
「始まるね」
「うん」
「怖い?」
「ちょっと」
「よかった」
「よかった?」
「だって、あたしもちょっと怖いし」
その言い方に、思わず少しだけ笑ってしまった。
「そういう意味か」
「そういう意味」
その一言で、張っていたものがほんの少しだけゆるむ。
太郎が、ナルディアの足元へ少しだけ寄った。
『ナルディア、落ち着かなくてよい』
「え?」
『落ち着かないのは正常だ』
ナルディアは一瞬だけ目を瞬かせ、それから少しだけ笑った。
「ありがと。なんか、太郎に言われると変な感じだけど」
『太郎も、知らない神話の星へ行くのは初めてだ』
僕も、頷いた。
ブライアントは前を見たまま、低く言った。
「行くぞ」
誰に向けた言葉か、はっきりしないようでいて、たぶん全員に向けた声だった。
『青葉』が、静かに動き出す。
オッコクの本部ドックの光が、ゆっくりと後ろへ流れていく。
監察艦隊本隊も、それに合わせて動き始めた。
もう、机の上の整理だけでは終わらない。
神話の根元みたいな場所へ、実際に向かうのだ。
僕はそう思いながら、前方表示の中で少しずつ整っていく艦隊陣形を見つめていた。
出航! 弓良達を何が待ち受けているのか……ここから、このシリーズの根本的な謎が明らかになっていきます!




