第三十五章 狸の商人、獅子の大旦那
ゾンゾが指定してきた時刻は、その日の夜だった。
昼のガナドラが“流通している市場”なら、夜のガナドラは“選ばれたものだけが動く市場”になるのかもしれない。
少なくとも、ゾンゾはそういう含みを持たせるような言い方をした。
『昼の店筋で見つからんもんは、夜の顔を見に行くんですわ』
その台詞は、どう考えてもまともな響きではない。
でも、まともな響きでないからこそ、ガナドラでは核心に近い感じもした。
僕たちは、『青葉』の中で短く準備を整えた。
準備と言っても、大げさなものではない。
ただ、いまの自分たちがどういう立場で、どういう相手に会いに行くのかを、頭の中で整理する時間が必要だった。
ブライアントは、いつもより少しちゃんとした外套を選んでいた。
辺境探査屋というより、交渉人として見える格好だ。
でも、完全に上流商人の顔を作る気もないらしい。そこがこの人らしい。
ジェプラは、白兎族の随行者らしく、きちんとした姿勢と装いを崩さなかった。
ナヴーピの見習い神官という立場は、ガナドラでは弱いかもしれない。
それでも、“白兎族の正式な顔がついている”こと自体には意味がある。
太郎は、太郎だった。
見た目は熊のぬいぐるみみたいな整備用ドローンのままで、でも本人はそれで十分だと思っている。実際、無理に飾ったところで変わるタイプでもない。
僕は、少しだけ鏡面処理の入った外装のまま、自分の姿を見た。
女性型の機怪人形――白い肌――薄青い髪。
ナヴーピでは、それだけで拝まれる対象になった。
ガナドラでは、それが拝みの対象であると同時に、値札のつく対象にもなり得る――その違いが、少しだけ怖かった。
「弓良」
ブライアントが後ろから呼んだ。
「うん?」
「会ってすぐ、全部を喋らないように」
「喋らないよ」
「君は、相手が妙に率直だと、つられて率直になる時があるだろ?」
「そんなことはない……と思うんだけど」
「ある」
即答だった。
それを聞いて、ジェプラまで小さく頷いたので、少しだけ不満だった。
「そこ、二人とも即答なんだ」
『私の見た限り、そういうことはありました』
ジェプラの返しは真面目で、余計に反論しづらい。
太郎が、横から言う。
『必要なら太郎が黙らせる』
「誰を」
『喋りすぎる者を』
「対象が広すぎるよ!」
そう言いながらも、少しだけ笑ってしまった。
緊張はしている。
でも、こういうやり取りがあるぶん、まだ呼吸はしやすい。
***
時間になると、ゼカタが接舷区画へ回された。
ガナドラは市場そのものが巨大すぎて、少し場所を変えるだけでも小型艇を使った方が早い。ナヴーピでは、神殿の中と周辺都市を歩くだけでほとんどのことが済んだ。でもここでは、同じ星系内の移動ですら都市間移動みたいなものだ。
ゼカタ自体は、ナヴーピで乗っていた頃より、いまは少しだけ“自分たちの足”になっている感じがある。
グラブール人の意匠に慣れてきたのもあるし、『青葉』を拠点にして出入りする感覚ができてきたのかもしれない。
ゼカタに乗り込む直前、僕は一度だけ振り返って『青葉』を見た。
流線型の船体――まだ完全ではないが、ナヴーピでかなり整備された巡洋艦――神の船。
そういう呼ばれ方は、今の僕には、まだ少し重かった。
『弓良』
青葉が、静かに呼んだ。
「なに?」
『必要があれば、いつでも帰還してください』
「うん」
『また、記録と外部監視は継続します』
その言い方に、ほんの少しだけ安心する。
青葉は、一緒に行かない。
でも、僕が外へ出ているあいだも、船そのものが一つの後ろ盾であり続ける。
「青葉」
『はい』
「相手、どんな商人だと思う?」
『大規模商会主、もしくはそれに準ずる立場です』
「ふわっとしてるなあ」
『ゾンゾが具体名を伏せているためです』
そこは、たしかにそうだった。
狸族の商人は、わざと少しもったいぶっていた。“もう一段ええ商人”としか言わなかった。名前を隠したまま、価値だけ匂わせる。いかにもガナドラらしいやり方だ。
『ただし』
青葉は続ける。
『現時点で、相手側は既にこちらの来訪事実と市場巡りの経緯を把握している可能性が高いです』
「つまり」
『会いに行く時点で、既に見られていると考えるべきです』
「……そうだよね」
分かってはいたけれど、改めて言われると少しだけ肩が重くなる。
ゼカタへ乗り込み、ハッチが閉じる。
静かな振動とともに、僕たちは再びガナドラの夜へ滑り出した。
***
ゼカタの窓越しに見えるガナドラの夜景は、昼間よりむしろ落ち着かなかった。
ここは、赤色矮星を回るリング状の土地が広がる星系だから、惑星の自転による『夜』は、ない。
そこで、グラブール人の標準時に合わせて、リング上のシールドを使って、昼夜を変更しているようだった。
夜になった市場区画の夜景は、昼よりもいっそう派手だった。
灯りが、規則正しいというより、思い思いの理屈で点いている。
搬送路の灯り――看板の立体映像――半透明のブロックに沈むような淡い青。
半ば祭りみたいな色まで混ざっていて、全体としてはきれいなのに、落ち着く感じではない。
星系全体が眠らずに商売を続けているのが、そのまま光になっているみたいだった。
ジェプラが呟いた。
『……ガナドラは、夜の方が騒がしいのですね』
「市場だからね」
僕が、そう応えると、ブライアントが肩をすくめた。
「むしろ本番は夜からだろう。高い取引ほど、人の目が多い昼より、少し灯りがずれた後に動く」
『それは、健全なのでしょうか』
ジェプラの問いに、ブライアントは少しだけ考えてから笑った。
「健全ではないかもしれないが、普通ではある」
『普通……』
ジェプラはどう考えても納得していなかった。太郎がその横で短く言う。
『市場の普通は、整備工場の普通より危ない』
「そこは、本当に、そうかもね」
僕が、そう返すと、ブライアントが吹き出した。
「お前、今日は太郎寄りだな」
「市場の“普通”に慣れてないからだよ」
――でも、いまから向かう先は、昼間に行ったボイカシ市場とは少し違うらしかった。
ゼカタの窓越しに見える進路は、賑やかな雑踏の上を通り過ぎ、もっと大きな商業ブロック群へ向かっている。
「これ、もう市場じゃなくて、街そのものだね」
僕が呟くと、ブライアントが頷いた。
「ガナドラの上流側だろうな」
「上流側?」
「物を小分けで売る場所ではなく、流通そのものを握る連中の区画だろう」
その言い方は、分かりやすかった。
ボイカシ市場が細い川筋の寄り集まりなら、こっちは大河本流なのだろう。
『注意喚起。これから向かう青獅子族商会ステーションは、ガナドラ内でも比較的高位の商会拠点です』
「高位」
『はい。表向きは合法的商取引の中心ですが、扱う情報と資材の性質上、政治的影響力も大きいと考えられます』
「要するに」
僕が、言うと、ブライアントが横から綺麗にまとめた。
「金も人脈も、たぶんコネもある。で、そういうやつはだいたい面倒だ」
「わかりやすい」
「経験則だよ」
たぶん、その経験則はかなり当たる。
ジェプラは、窓の外を見ながら少し緊張していた。
『白兎族の名は、どこまで通じるでしょうか』
「通じるとは思う」
ブライアントが答える。
「ただ、それで全部が有利になるわけじゃない。相手が大きいほど、“白兎族の客”という看板も、単なる交渉材料の一つに見られる」
その現実的な言い方に、ジェプラは黙って頷いた。
たぶん、彼女自身もそのことは分かっている。だからこそ、なおさら緊張するのだろう。
太郎は、窓の外よりゼカタの計器まわりを気にしていた。
『振動が少し荒い』
「またそこ?」
『長距離運用前提ではない』
「シャトルをそこまで評価するのか……」
『乗り物は大事だ』
その理屈は、たぶん一貫して正しい。
そうこうするうちに、ゼカタの進路先に、ひときわ大きなステーションが見えてきた。
それは、ボイカシマーケットの雑多なブロック群とは明らかに違った。
外装は古い遺構を利用しているらしく、骨格そのものは滑らかで大きい。
でも、その上へ後から貼りつけた装飾が、どう見ても趣味のよい方向ではない。
金――濃紺――大きな紋章――無駄に目立つ接舷灯――必要以上に広い接続口。
「……うわ」
僕が思わずそう言うと、ブライアントが横で笑った。
「分かりやすいな」
「分かりやすすぎるよ!」
「趣味のいい金持ちではないな」
その返しに、ジェプラが少しだけ困った顔をする。
『ここが……』
ゼカタの操縦補助表示に、ゾンゾからの識別情報が入る。
青獅子族商人、グィルディ。
商会名、グィルディ商会。
接舷許可。
……ようやく、名前と場所が結びついた。
ゾンゾが最後に寄越した短いメッセージが、操縦画面の端で点滅する。
『ここから先は、ええ意味でも悪い意味でも、金持ちの話になりますで』
その一文を見て、僕は、小さく息を吐いた。
「……ほんと、嫌なこと言うの上手いよね」
「それが商売なんだろう」
ブライアントはそう言ってから、少しだけ表情を引き締めた。
「行くぞ」
ゼカタが、グィルディの“家”へ静かに接舷する。
ここから先は、もう店巡りではない。
値札のついた物を眺める時間ではなく、値札をつける側の人間と会う時間だった。
***
ゼカタは専用の接舷区画へ通され、僕たちは案内役の青獅子族の従者に導かれて中へ入った。
内部はさらにすごかった。
広い――無駄に広い。
通路一つとっても、普通の人間が五人並んで歩けそうなくらい幅がある。
壁面には金色と濃紺の装飾が走り、ところどころに〈先住者〉遺物らしい部材まで展示されている。少なくとも“うちは本物も扱います”という自己宣伝には十分だった。
『ほな、いきまひょか』
ゾンゾは、既に、待合室にいた。彼と一緒に応接室へ通された瞬間、僕は、少しだけ目を細めた。
ゴテゴテしている。
豪華というより、情報量が多かった。
厚い絨毯、低い卓、大きすぎる装飾照明、金属工芸、香の匂い、宝石めいた石、意味ありげな古代機械のオブジェ――その全部が、広い部屋の中で互いに譲らず主張していた。
「……落ち着かない」
僕が、正直に言うと、ジェプラが小さく頷いた。
『はい。少し、圧があります』
そこへ、部屋の奥から、よく通るが、少ししゃがれたダミ声が響いた。
『それは何よりやな。圧がない応接室なんて、商人の家やないで』
現れたのは、小柄で丸々と太った青獅子族のグラブール人だった。
最初は、ライオンかと思った。
でも、顔立ちは獅子というより、もっと丸くて、どこか家猫っぽかった。
体格は、だるまみたいにふくよかで、歩くたびに豪奢な衣が揺れた。
耳や鬣の縁は青銀に近い色をしていて、目だけがひどく小さく、そしてよく動いた。
『ようこそおいでやす。噂の神の船の主と、その一行はん』
僕たちを見回しながら、男は、にこやかに言った。笑顔なのに、なぜか安心感はない――柔らかいのに、値踏みの刃が隠れている感じがする。
『ワシがグィルディ商会の会頭、グィルディや。青獅子族の商いを少しばかり広う回してる。そちらの狸は、信用したらあかんが、使うには便利やろ?』
いきなりそんなことを言われて、横にいたゾンゾが大げさに肩を落とした。
『お客さんの前で、そんな紹介ありますかいな』
『あるで。お前は、そういう奴や』
その返しで、僕は、少しだけ安心した。少なくとも、この二人は本当に面識があって、表面的な紹介ではなさそうだ。
グィルディは、最初に僕を見た。
次にブライアントを見て、そこで、少しだけ目の色を変えた。
さらにジェプラ、太郎、そして通信越しの青葉の存在まで、一巡で測ったようだった。
『なるほどな。神子はんは、思うてたより喋りそうやし、白兎の娘さんは真面目そうやし、そこの山師はんは、だいぶ人の話を信じへん目をしてる』
ブライアントが、軽く肩をすくめた。
「褒められてる気は、しませんね」
『褒めてへんからな』
その返しが妙に率直で、少し可笑しかった。
僕たちは席につき、最初の形式的な挨拶を済ませたあと、本題へ入ることになった。
***
「イハァトパー機関、というものを探しています」
僕が、そう切り出すと、グィルディは、すぐには答えなかった。
小さな目を細めて、僕の顔を見て、それからブライアントを見る。さらに、机の上へ指先を二度だけ軽く打った。
『えらいもんを探してはるな……』
その一言に、僕は、少しだけ身を乗り出した。
「知ってるんですか?」
『知ってる、いうより、そういうもんを知らんかったら、この商売はできへん』
グィルディはそう言ってから、重そうな身体を少しだけ椅子へ預けた。
『せやけど、普通の部品やない。秘宝の類や。いや、秘宝いうても、そのへんの“古代の壺”や“神の匙”みたいな可愛らしいもんやないで』
その言い回しが、いかにも商人だった。
青葉が静かに補足する。
『イハァトパー機関は、〈先住者〉の高位機関部に属する特殊部品です』
『ほう。船のAIはん、よう知ってるやないか』
グィルディの目が、今度はわずかに興味を増した。
『なら、ワシが説明を足す必要も少ないやろうが……まあ、あえて言うなら、“神代の根本魔法機関”やな』
ブライアントが低く言う。
「市場で見かけたことは?」
グィルディは笑った。
『見かけるわけないやろ。そんなもん、表の市場に並んどったら、その日じゅうに星系がひっくり返るで』
それは、冗談に聞こえるのに――多分、冗談でもなかった。
『実際、イハァトパー機関自体の確認例があるかどうかも怪しいで。名前だけが、神殿筋や商人筋に細く残っとる“あるはずのもん”や』
その言葉に、青葉が静かに反応した。
『本艦の現状認識とも一致します』
つまり、やはり、市場で普通に買えるような代物ではない。
僕は、少しだけ言葉を選んでから尋ねた。
「でも、“可能性がないわけではない”と聞きました」
その言い方に、グィルディは、ゆっくりと笑った。
『ええ子やな。商人の言葉の、そのへんをちゃんと拾う子は嫌いやないで』
褒められている気がまったくしない。
でも、会話の扉は開いたらしい。
『ガナドラで、そんなものを正面から買うのは無理や。せやけど、別の道なら、ゼロやない』
「別の道?」
グィルディは、そこで少しだけ声を低くした。
『“願いを叶える星”、いう話は、聞いてはるか?』
その瞬間、ブライアントの表情が明らかに変わった。
僕は、横目でそれを見て、少しだけ胸の奥がざわついた。
来た。
この人にとって、本当に大きい話だ。
『グラブール人の聖域にある、神代より続く願いの場や』
グィルディは続ける。
『もちろん、何でも気軽に願えるような甘い話やない。願いの“権利”は、『大集会』で各部族へ厳密に割り振られとる』
「権利……」
『そうや。何を願うか、その順番と枠が決まっとる。神の場は、商店街やないからな』
なるほど、と僕は、思った。グラブール人らしい――神聖なものを尊崇しながらも、結局は制度へ組み込み、政治機構の中で配分する。
そのあたりが、ナヴーピで見た、神殿と行政の一体感にも少し似ている。
『で、その権利を動かせる商人もおる』
グィルディは、自分の胸を軽く叩いた。
『ワシみたいにな』
言うと思った。
「つまり、買えるかもしれない?」
『可能性はある、いうことや』
グィルディは、そこでわざと曖昧な表現を使った。断定はしない。けれど、可能性だけは大きく見せる。そのあたりが非常に商人らしい。
ブライアントが、いつもより少し低い声で尋ねた。
「その権利を動かすには、何がいるんですか?」
『金だけやと思ったら大間違いや』
グィルディの小さな目が、にやりと細くなる。
『神殿筋との縁。部族間の貸し借り。情報。場合によっては、“誰が後ろにおるか”も含めて値打ちになりますて』
その最後の一言は、こちらを見ながら言ったものだった。
僕には、それが何を意味しているのか分かった。
白兎族の後ろ盾だけでは心許ない――もっと強い後ろ盾を持て、ということだろう。
そのために、青獅子族の大商人である自分を使え、と言うのだろう。
『白兎族は、ええ部族や』
グィルディは、妙にあっさり言った。
『せやけど、力が強いとは言い難い。神子はんと神の船の看板を支えるには、ちぃと細い』
ジェプラの耳がぴくりと動いた。
不快なのだろう。僕だって、言い方としては好きではなかった。
でも、現実としては否定しにくいのかもしれない。
ナヴーピで、ゲラバは誠実に送り出してくれた。ダグーラもゼカタも託してくれた。
けれど、黒狼族との抗争を抱える白兎族に、ガナドラで全面的な支援まで求めるのは難しい。
『せやから、や』
グィルディは続けた。
『青獅子族の有力商会が主な後ろ盾になった方が、便宜は図れる。そういう話も、ワシにはできる』
静かな圧力だった。
いまこの場で契約を迫っているわけではない。
でも、選択肢を見せ、その便利さを匂わせ、そのかわりの対価をこちらに考えさせる。
それは、あからさまな脅しより、むしろ商人として上手いやり方だった。
「その代わりに、僕たちのことを調べたいんですね?」
僕が、そう言うと、グィルディは嬉しそうに笑った。
『話が早いのは好きやで』
「どこまで?」
『まずは、神の船はんと、神子はんのことを少し、な』
その“少し”が全然少しではないのだろうと、たぶんここにいる全員が理解していた。
僕は、すぐには応えず、青葉へ意識を向けた。
「青葉」
『はい』
「どう思う?」
青葉は、珍しくほんの少しだけ間を置いた。
『利は大きいです』
その一言で、ブライアントが小さく目を細める。
『同時に、危険も大きいです』
「だよね」
『はい。グィルディは、こちらの求める情報と資材への導線を持っている可能性があります。ただし、その代価として要求するのは、単なる金銭ではなく、本艦と弓良の情報価値そのものです』
そのまとめ方は、あまりにも正確だった。
要するに、欲しいものへ近づけるけど、その代わりに、僕たち自身が商品棚に並びかねない。
ブライアントが、耳打ちした。
「やめた方がいい」
その言い方は即断に近かった。
「グィルディは、今は愛想よくしている。でも、話の組み方が露骨すぎるな。権利を動かせるとか、後ろ盾になるとか、そういう言葉を最初から出してくるやつは、だいたいこっちの“困り方”を値踏みしてるのさ」
グィルディは、それを聞いてもまったく怒らなかった。むしろ、面白そうに笑っている。
『ええ読みや。そういう山師はんは、嫌いやないで』
「それは、どうも」
『せやけど、ワシは別に、今日ここで首根っこ掴んで契約しろ言うてるわけや、ない。顔見せや。考えてみてくれたら、ええ』
その引き方が、逆に厄介だった。
こちらに判断を預けるふりをしながら、きっちり“誘惑”だけは残していく。
そこで、グィルディは横の従者へ軽く顎を振った。従者が小さな箱を持ってくる。中身は、薄い金属板のような感じのものだった。
『これは、ワシが経営しとる娯楽ステーションのパスや。今日は顔見せだけにしときたいし、ちょっと遊んできたらよろし』
「……遊びの券?」
『そういうこっちゃ』
グィルディは、いかにも気前よく言った。
『酒場も、賭場も、ショーも、だいたい見放題や。ガナドラへ来たんやから、街の空気も味わわな損や。お連れさんも、みんなタダやで』
僕としては、そこまで乗り気ではなかった。
でも、話を切るには悪くないタイミングでもある。
「ありがとうございます」
僕は、礼を言った。
ジェプラは明らかに、その種の場所に乗り気ではなさそうだった。
太郎は、そもそも何を楽しむのかよく分からない顔をしている。
ブライアントはというと、グィルディの“願いを叶える星”の話をまだ頭の中で反芻しているらしく、券そのものには大して意識が向いていないようだった。
グィルディは、その様子を全部見たうえで、満足そうに頷いた。
『ほな、今日はここまでや。神子はん、神の船はん、山師はん、白兎のお嬢さん、ぬいぐるみの従者はんも、またいつでも来てくれたらええ』
『ぬいぐるみでは、ない』
太郎が即座に返した。
それを聞いて、グィルディは初めて声を上げてガハハと笑った。
『そら失礼したわ』
その笑い声さえ、どこか計算ずくに聞こえる。
***
帰りのゼカタの中は、行きより静かだった。
ガナドラの夜景は相変わらず窓の外で騒がしいのに、船内の空気は少し重かった。たぶん、全員が、それぞれ別のことを考えている。
最初に口を開いたのは、やはりブライアントだった。
「……グィルディは、黒い」
「やっぱり?」
「かなり、な」
彼は、短くそう言って、それから窓の外へ目を向けた。
「だが、“願いを叶える星”の話自体は、完全なでまかせとも思えない」
その声音に、僕は、少しだけ胸がざわつくのを感じた。
ブライアントは、いま明らかに揺れている。グィルディが危険だと分かっている。それでも、“願いを叶える星”という言葉の持つ力が、この人の中では大きすぎる。
「カッシーナのこと、考えてる?」
僕が、小さく聞くと、彼はすぐには応えなかった。数秒置いてから、少し乾いた声で返す。
「そりゃ、考える」
それだけで十分だった。
ジェプラが慎重に言う。
『私は、あまりよくない方だと思いました』
「うん」
『白兎族の後ろ盾を細いと評したことには、憤りを覚えています。それを置いておいても、神子弓良殿を“情報価値”として扱う気配が強すぎます』
真面目な言い方だった。けれど、その真面目さがあるぶん、重い。
青葉も、静かに同意した。
『妥当な分析です』
太郎は、少し考えてから言った。
『あの部屋、掃除は大変そうだった』
一瞬、誰も反応できなかった。
それから、僕が、思わず笑う。
「そこ?」
『装飾が多い。埃がたまりやすい。整備性が低い』
「たしかに」
ブライアントまで吹き出した。
「お前、そういう観点であいつを見るのかよ」
『重要だろう』
「いや、まあ、長く住みたい場所ではなさそうだったけど」
そのやり取りのおかげで、重かった空気が少しだけ緩んだ。
でも、本質は変わらない。
グィルディは、危ないヤツとしか思えない。
ただし、危ないからといって無視できる相手でもない。
“願いを叶える星”と、その権利を動かせる可能性を言及した――イハァトパー機関自体の入手方法を具体的に示したのは、今のところ、あの商人だけだ。
しかも、その話に強く引かれているブライアントがいる。
ゼカタが『青葉』へ戻る航路へ入った頃、僕は、小さく青葉へ呼びかけた。
「青葉」
『はい』
「グィルディの話、どこまで本当だと思う?」
『全体として、虚偽より誇張が多いと推定します』
「誇張?」
『はい。存在する権利と導線を、実際以上に自分が動かせるように見せている可能性が高いです』
なるほど、と思った。
全部が嘘なら切ってしまえばいい。
一方、全部が本当なら危険でも飛びつきたくなる。
でも、一番厄介なのは、その中間だ――本物の鍵穴は見せるけど、その鍵を回せるのが自分だけだと誇張してくる手合いだ。
それが見極められないから、まだ切れない。
その結論に、僕は、少しだけ疲れた。
……ガナドラ星系に来てから、市場の広さと雑多さに圧倒され、『青葉』への侵入事件でこの星系の治安の悪さを知った。
今、ようやく“上の層”の商人へ辿り着いたと思ったら、今度は情報と権利と後ろ盾を武器にする、本当に面倒な相手が出てきた。
それでも、一歩前へ進んだのも確かだった。
イハァトパー機関は、表の市場に値札付きで並ぶものではない。
それどころか、“願いを叶える星”という、もっと大きな制度と神域の話に繋がっている。
そして、その話はブライアントの願いにも直結してしまうのだ。
ゼカタが『青葉』へ接続し、僕たちは静かな艦内へ戻った。
ドックの中にあっても、『青葉』の中へ戻ると、少しだけ呼吸がしやすくなる気がする――機怪人形の僕に呼吸が必要かどうかは別として、そう感じるのだから仕方がない。
ハッチをくぐったところで、ブライアントが不意に立ち止まった。
「弓良」
「うん?」
「グィルディとは、まだ深く組むな」
「……うん」
「ただ、“願いを叶える星”のことは、追うよ」
その言い方は、矛盾しているようで、たぶん彼の中では両立しているのだろう。
危険だと分かっているが、切れない――カッシーナのことがある以上、この話題から目を背けることもできない。
僕は、少しだけ間を置いてから答えた。
「わかった。慎重に行こう」
そう返すと、ブライアントは小さく頷いた。その横で、ジェプラも真面目な顔で立っている。太郎は、たぶん、グィルディの応接室の掃除の大変さをまだ考えている。
そして、その入口で手渡されたのが、娯楽ステーションのパスだった。
グィルディは、今日は顔見せだと言った。
でも、商人がタダでくれる券に、本当にただの遊び以上の意味がないわけがない。
そのことを、多分、僕たち全員がうっすら感じていた。




