4・ブラインド◇シャットアウト
他人とは、要するに他の人なのであり、つまり自分ではない人、ということなのだろう。
しかし、身内といえば、自分以外の人であれ、他人ではない。
曖昧な境界、その癖、そこには何か決定的なものがある。
他人とは、自分でない人を切って捨てる言葉であり、自分が他人に関わらないようにするための、都合のいい言葉でもある。
しかし他人に言われるには、都合の悪い言葉でもある。
人は、自分の周りに線を引く。自分と、他人との境界線である。
時にその線は、人を包み込むし、また時として、人を寄せ付けない、冷たく頑強な壁にもなる。
人として重要な、自分を守るための技術なのだが、厄介なことに、その線は自分では思うようにコントロールできなくなってしまうことがある。
結果、人は孤独を感じるのだし、気付かずに自分以外の人が持つ境界線を侵し、押し出されてしまう。
要は考え方、捉え方の問題なのだろう。
人と人の距離は、必ずなくてはならないものでもある。
親しき仲にも礼儀あり、という言葉が指しているように。
(……でも、会ったこともなくて親しくもない人のはずなのに、親近感を覚えるっていうのは何なのかな。……近親だからかもしんないけど……近親……)
「……私の、おかーさん?」
雅樹は黙って彩を見ているし、相輪は、喜びを押し殺すように口の端を引きつらせている。
彩は、呆けたように繰り返した。
「私の、……おかーさん!?」
「あなたの母親だよ。そう言っても間違いではないと思うのだけれどね」
彩に肉親はいない。
彩を開発した研究者達が生みの親であるのは違いない。
しかしその中に、母と呼べる人物がいたかと言えば、否。
「えーと。それ、どういうこと?」
ようやく、疑問を口に出すに至る。
「……なるほど」
「うにゃ?」
雅樹は呟くと、彩の頭をぽんぽんと叩いた。
「こういうことか。そうだな? 相輪」
「よくお分かりで」
相輪は、嬉しくてたまらないというように満面の笑みを浮かべた。
彩にはその意味が分からない。
「え? え? どゆこと? どゆこと?」
「お前のモデルだってことだろ……」
「モデル……」
彩のモデル。
女性の脳を模倣し、彩が作られ――
「……ありゃまぁ」
彩は自分の頭を叩いた。
「ありゃまぁって」
「おやまがふっとんだ」
(おやまぁ……っ。なんてこったいっ)
「私のおかーさん……」
会ったこともない。
考えたこともなかった。
肉親、いや、肉親以上とも言える関係のその女性に、彩は会ったことがない。
だから。
「会いたいですか?」
相輪の言葉に、彩はあっさりと返事をしていた。
「うん」
「こら、彩」
「ふぇ? ふぁ……、むぅ…………だめ?」
「だ、……め……とは言わんが……」
「ねぇ……だめぇ……?」
上目遣い、まぶたをぱちくり、身を乗り出して。
「……いつの間にそんなねだり方を……」
雅樹は気まずそうな表情だった。
もちろん、知識として与えてしまったのは雅樹である。
小悪魔的な。
「……………………会える?」
気付いた。
(……なにがだめなんだっけ?)
相輪は、会いたいかと訊いただけである。
むろん、会いたいのだが。
会わせてくれるなどとは言っていない。
「……思い込みってこえー」
客観的に見ればすぐに気付くことではあるが。
「気付いたようだね。なかなか鋭いのだね、彩」
「もーっ! うっとーしーこと言わないでよ! それと私に話してることだってわかってんだからいちいち彩って呼ばないくていいの!」
「わかりました、彩」
「むっきぃいいい! そのなんだか妙に落ち着き払った態度も!」
「わかりました、彩」
「それがやだって言ってるの!」
「性分だからね。だけど努力はしてみよう」
そういって、相輪はにこりと笑った。
「あぅうううう……っ。何この変なまとわりつくような感覚……っ」
「あー」
イライラと頭を抱え込む彩の横、雅樹は、ようやく合点が言ったというように呟いた。
「……相輪。お前、女性から人気あるだろ」
「そうでしょうか?」
「……彩、教えとこう。そりゃ、多分口説かれるときの感覚だな。まぁ、似たような感覚、ということだが」
彩は、ぎょっとしたように相輪を見た。
「……口説いてんの!?」
(……違うよね)
口説かれたことなどないせいだろう。その思いには多少期待が混じっていた。が、まぁ、彩には気付くことはできない。
「口説いてはいないよ。女性には優しく、と心がけているんだよ」
「……あんた嫌い……」
なんとなく気付いた。
「嫌われてしまった」
相輪はくすりと笑う。
「ところで彩、何か誤解しているようだけれどね。……私は、君を母親と会わせてあげたいと思っているし実際そのつもりなのだけれどね」
「……どういうつもりだ?」
雅樹が、訝しげに訊く。
「いえ、下心はありません。ただ純粋に、私は彩と母親を引き合わせたいと思っているだけです。何ゆえか、彩を作り出した研究員達はそうすることを良しとしなかったようですけれどね。多分、人間ではありえないことだから、なのでしょうけどね」
実のところ、相輪のその読みは当たっている。
雅樹は、その理由を青木研究員に訊いたことがあった。
親から生まれたというのならばともかく、自分の基となった人物など、通常人間ならば存在し得ない。故に、基になった人物と会うなどという、人間らしくない事象は避けるべきである……。
何を根拠にしているのかは不明だが、そう決められてしまっているのだという。
「しかし、基……いえ、会ったこともない親に会いたくないなどという子供ほど人らしくないものもないでしょうに……どうかな? 彩」
「ふぇ……?」
夢見心地で呆けていた彩は、突然現実に呼び戻された。
「あなたの母親に会いたいですか?」
「うん」
「では、あなた方のお仲間が来る前に――」
その時――一瞬彩の視界が明滅し、――聴覚に雑音が混じった。
「この場から離れることにしましょう」
(…………?)
気のせいだったのだろうか。
雅樹も相輪も、なんら気付くことはないようだった。
電灯が消えたというわけでもなさそうである。
「当然、俺も付いていくが。構わないな?」
「構いません。いえ、むしろ付いて来てもらえると幸いです。……それにしても、私を疑わないのですか?」
「疑ってはいる。気になったから深入りしてみたいだけだ」
「それは手厳し――」
明滅、雑音。
(……また?)
気付いたときには、彩は隣に座る雅樹の肩に頭を乗せていた。
微かに鈍痛――、乗せたというより、打ち付けたようだった。
「あぅ……」
「どうした?」
「……なんだろ。私なんか変……眠いのかな」
しかし眠いのとは感覚が違う。
意識を失う感覚でもない。
(むー?)
雅樹と相輪を交互に見やる。
何か喋っているようだが、声は聞えない。
(あれ、おかしい)
自分の声も聞えない。
耳を触る。が、何があるというわけでもない。
そして思いつく。
まさか、そのように思いつくとは考えもしなかったが――、
(……壊れた……?)
だがそうではない。
この感覚は。
(……神経を弄られてる……!?)
そう考えるに至って、いつの間にか俯いていた頭を持ち上げ、雅樹の不思議そうに彩を見る顔を視界に入れたそのとき。
意識が途切れた。
嗚呼、我を作りたまいし我らが主よ。
彼方は何を考えておられるのだ。
何を望んでおられるのか。
何を待っておられるのか。
何をしようとしているのか。
我は知りたい。
知りたくない。
知りたい。
望みたい。
その身を業火に焼かれたい。
飛んで行きたい。堕ちて行きたい。揺れていきたい。
川を流れて行きたい。そのうち頭をぶつけたい。
流血したい。流血死体。
川で魚が釣りたい。マグロとか。
なぜならお寿司が食べたいから!
…………、…………………………。…………………。
(……川にマグロはいないよねぇ……)
夢うつつ、彩は自分の夢に突っ込む。
途中まではなんだか詩みたいで良かったのだが、いつもそうである。
後ろのほうになると、なんだかわけの分からない流れになってしまう。
(なんでだろ)
まぁ、夢だからだろう。
とりあえず、自分の身に起こったことを思い出してみる。
耳が聞えなくなって、真っ暗になって、意識が途切れた。
何が起こったかはわからない。
…………、……………………。
何故。
……、今は意識がある。
それは分かる。
なのに、何故真っ暗なのだろうか。
眼前を、闇が覆っていた。
(……もしかして死んじゃった?)
いや、違う。死んでしまったのなら、暗いと感じることはないだろう。
死んでしまったら、何も感じることは無いだろうから――。
だから生きている。
だから真っ暗なのは――。
眼を閉じているだけなのであって――、
しかし――、
(まぶたが持ち上がらない?)
そうではない。
感覚が――ない。
わけがわからない。
手を、動かし、まぶたに触れようとするが、
しかし、
(……動かない?)
違う。
動かないのではなくて――、
ただ、動かした感覚がない。
感じない。
(………………っ)
いや――。
違う。
違う!
(すべての感覚がない……?)
鼻から空気を吸い込むが、空気が触れる感覚もなく。
(匂わない……)
声を出しても、聴こえない。
声を出した感覚もない。
(聴こえない……っ)
まぶたは持ち上がっているはずだが、その感覚もなく、
(見えないよ……!)
肌の感覚もない。
(感じないよぉ!)
すべての感覚がない。
外界の情報が得られない。
完全に遮断され――、
意識だけが、ただ虚空に浮かんでいる。
闇が――、
暗い。
見えない!
暗い!
何もない!
怖い!
(あああああああああああああああああああ!)
錯乱。
急速に、精神が追い立てられ、思考は平衡を失っていく。
崩れていく。
それなのに。
崩れかける感覚を、まざまざと感じてしまう。
ただ一人――、
孤独。
暗闇の中で――。
外界の情報の代わりに、感情の奔流が、意識を襲う。
ただ恐怖が。
(どうしよう、どうしよう、どうしたら!)
抱え込む頭がどこにあるのかも分からない。
あるのかどうかも分からない。
(うああああ……)
完全に身体と意識が分離してしまっている。
身体は、どこにある?
それが不安を引き寄せる。
不安と、恐怖。
暗闇という、極端に開けた空間――、
その中で、生きたままに棺桶に閉じ込められたような苦しさ。
(苦しい、怖い、なんで……! なんで!)
もう何も分からない。
自分は今、どうなっているのか。
答えの分からぬ問、虚を漂う。
虚の中の自分は虚。
存在しているのか、していないのか。
あやふやで、崩れ、霧散して、
(ああああ……ああああああああああああああああ!)
叫んだ。
その自分の声は聴こえない。
聴こえない。
感覚なく、頬を引っ掻く。
感覚なく身をよじり、暴れる。
それでも、感じない。
意識はただ、虚空を彷徨っている。
半狂乱になりながら、自制心は何とか保つ。
(落ち着いて!)
声に出したのかどうかは分からないが――彩は、ひたすら自分に呼びかけた。
しかしその言葉と共に、意識と自制心はさらにかき乱れていく。
(落ち着いて――! 落ち着くの! 落ち着いてよおおおお!)
感覚なく、泣き喚く。
意識を沈めることができない。
――意識を外界と繋ぎ止めるものが、何もない。
何も認識できない――自分の意識さえ。
だから。
(何もできない……!)
足掻くことさえできない。
光を知るからこその、暗闇の中で――、
光が見えない――、
(光が欲しいよぉ……!)
息をしているのかしていないのか――、
(空気が欲しいよぉ!)
浮かび上がって、どこかに飛んでいってしまいそうで――、
(地面が欲しいよぉ!)
究極の孤独だった。
いっそのこと、消えてしまいたかった。
それでも、意識は消えない。
(もう、嫌――! 嫌だ!)
音のない世界で、ただ、叫ぶ。
懇願する。
(消えて――もういい! 消えて! 消えてよ……! なんで、なんで消えないの……!)
ただ、彷徨う。
消えることなく、大地に足をつけることもなく。
消えない。
消えることが出来ない。
――何故、消えない?
(――消えない……! 私は、消えない……!?)
外界と意識は、つながれていない。
それなのに何故。
霧散しない?
(――死んでない……!)
おぼつかない思考の中、必死に求める。
自分を求める。
死んでいない。生きている。
帰結。
答えは原点にある。
(私は生きてる……!)
意識は、肉体という強固な鎖に繋がれている。
(身体が欲しい……!)
身体は、存在る。
そして、彩は眼を開けた。
光が眼に飛びこんできた。
「う……っ」
自分の声が聞こえる。
ひゅう、と、空気が肺に満ちた。
そして。
身体全体を、猛烈な痛みが突き抜けた。
「ぐぁ、うあぎゃああああああああああああ!」
悶える。
朦朧とした視界に、陰が映りこんでいた。
「――や、あや――、彩!」
雅樹の声だった。
「ま、ましゃきっ」
口の中で、血の味が広がっていた。
彩の眼に雅樹の必死な顔が映った。
血にまみれた手で、彩の頬に両手を当てて、顔を固定している。
――いや、血にまみれているのは、彩の頬だった。
自分で引っ掻いた傷に違いなかった。
痛かった。
「大丈夫か?」
大丈夫なわけがなかった。
訪れた安堵と、雅樹の顔を見ることができた嬉しさとで、
「こ、……こわ、かった……怖かったよぉ……!」
とめどなく涙が溢れ。
生まれて初めて、彩は泣いていた。
◇
頼られるのは、嫌いではない。
そのために、ここにいるのだから。
「当然、俺も付いていくが。構わないな?」
雅樹は、有無を言わせない口調で相輪に言った。
彩がいいと言うのならそれで構わない。
ただ、保護者としての責任と言うやつか。
「構いません。いえ、むしろ付いて来てもらえると幸いです。……それにしても、私を疑わないのですか?」
意外そうに、相輪は言う。
むろん、
「疑ってはいる。気になったから深入りしてみたいだけだ」
そう、疑いは晴れない。
下心があるかどうかは本人にしか分からないことである。
「それは手厳しいですね」
相輪は、苦笑しながら言う。
と――、
隣の彩が座っている、右の肩に軽い衝撃と重みが加わった。
「あぅ……」
眠いのだろうか、彩は、雅樹の肩に頭を打ち付けていた。
しかし、今の今まで、眠そうな気配は見せなかったのだが。
「どうした?」
「……なんだろ。私なんか変……眠いのかな」
彩は、打ち付けたほうの頭をさすりながら、言う。
自身で自身が眠いのを自覚できないことは普通ありえない。
貧血なのかもしれない。
彩には珍しいことではあるが、ないということもないだろう。
「横になるか?」
しかしその問いかけには、彩は答えなかった。
不思議そうな表情で、相輪と雅樹とを交互に見ている。
「彩、そうするといい」
相輪の言葉も、――どうも、彩には届いていない。
「むー?」
「おい、……大丈夫か?」
「……まさか」
相輪が呟いた。
「なんだ?」
「あれ、おかしい」
彩は、自分の両耳に手をやっていた。
数秒ほどその姿勢を保って、そして呟いた。
「……壊れた……?」
「壊れた? おい、彩?」
彩は、次第に俯いていった。
そしてはっとしたように、頭を持ち上げ、雅樹の顔を見たそのとき――、
がくん、と彩の体から力が奪われたかのように、雅樹の懐に頭を突っ込んだ。
「おい、彩!?」
頭を持ち上げるが、力が入る様子はなく、バランスを崩して、彩はソファからずり落ちてうつ伏せになっていた。
「なんだ!? どうした!?」
身体を揺さぶってみるが、反応がない。
意識がなくなっている。
ぐったりと、床に倒れている。
相輪は、しばらく呆然としていたようだが、気を取り直し倒れている彩と、その身体を揺さぶる雅樹とに近づいて、彩の顔を覗き込んだ。
「……まさか」
「おい、なんだ、さっきから!」
「……………………」
相輪は雅樹の言葉に返事することなく、しばらく沈黙し――、
「……これだけは言っておきます。今から起こることは、私の本意ではありません」
唐突に言う。
「どういうことだ」
相輪の顔には既に、あの貼り付けたような笑みはなく、深刻な表情だった。
彩が見たら面白がるだろうな、などと、関係のないことを思いつきつつ、雅樹はその言葉の真意を探った。
いや、探るまでもない。
そのままだ。
相輪にとって本意ではないことが起こる。もちろん、この閉鎖された建物の中、雅樹と彩にとって都合のいいことが起こるわけもなかった。
どんどん、と、また唐突に、社長室の扉を叩く音が響いた。
相輪はゆっくりと、扉に近づく。
そして、あの貼り付けたような笑みを取り戻し――いや、似てはいるが確かに違う――この笑みはむしろ、仮面のようだった。
「はいはい、今あけますよ」
「早くしろ!」
扉の向こうから、男のせかす声が聞こえた。
相輪は、のんびりとした動作で、扉の鍵を開けた。
途端に、扉が勢いよく開いた。
そして、男が三人、雅樹と、意識を失っている彩を見つけるや否や、取り囲んだ。
「……うまくいったようだな」
一人が呟く。
三人の男の手には、特殊警防が握られていた。
「……お前ら何をした?」
「なに、彼女は気を失っているだけです。御安心を。彼女は私たちで安全に運びますからね。……彼方はそうもいきませんけどね」
抑揚のない声で、相輪が答えた。
三人の男は、それぞれに微かに笑っていた。
どうすればいいか。
雅樹一人で、この三人を抑えることはできる。だが、彩は動けない。
例えこの場で三人を動けなくしたところで、代わりはいくらでもいるのだろう。
「……………………」
ふと気付く。
「……お前らがこいつを運ぶ? どこが安全だってんだ」
「まぁ、そうでしょうね。ですが、確実にしばらくは安全でしょうね。こちらも、いろいろ用意があるわけですから、ね」
三人が答えるよりも早く、相輪がまた答えた。
「ち……」
「それにしても彼方達、予定外に行動が早かったのですね」
今度は相輪が三人に話しかける。
「早ければ早いほうがいいだろう。そう判断したまでだ」
「まぁいいでしょう。さて、どうしますか?」
再び、相輪は雅樹に訊く。
「どうする、とはなんだ」
「大人しく私たちに従うか、それとも私たちが力ずくで彼方を大人しくさせるか……そのどちらか以外に、どんな選択肢があるというのですか」
雅樹には既に、相輪の言わんとしていることが分かっていた。
つまりは、その選択肢以外を選択しろ、と。
「じゃあ、その選択肢以外の選択肢……ってのはどうだ?」
雅樹は相輪ににやりと笑ってみせ、次の瞬間には、完全に気を緩めていた男の腹に、拳をめり込ませていた。
そして、ひるんだ隙に、雅樹は開いたままの扉に向かって走った。彩を置いて。
廊下に出た後、後ろから罵声が聞こえたが構わずに走る。
追ってはこないようだった。
相輪は、こう言ったのだった。
しばらくの間、彩は無事でいられる。あなたはひとまずここを脱してください。
彩の身に何が起こったのか。
果たして相輪を信じていいものなのかどうか。
いまだ疑問は多かったが、しかし今は賭けるしかない。
建物内は極端に静かだった。
革新会の大量のメンバーたちも、どこに待機しているのやら、見当たらない。
ただ、雅樹の前方を行く、彩を担いだ四人の男たち以外は。
完全に封鎖されたこの建物の中、なんでも屋の応援が来ているのかどうかも分からない。
既についていたとしても、この建物には入ることはできない。
この建物は、外装デザインのせいでそうは見えないが、封鎖してしまえば、構造的には半分要塞のような造りになっている。
「……………………」
さて、どうしたらいいのだろう。
社長室からうまく脱出し、しばらくしてから出てきた、相輪を先頭に、彩を担いだ男達の後をつけているのだが、しばらくは手がない。
せいぜい、男達の乗ったエレベーターの行方を、階段で先回りをして待つ程度。
そうして今は、地下にいる。
ただ、前に潜入したところとは違い、牢になっているわけではない。
なんら変わったところはない、オフィスだった。
「よし、ここだな。閉じ込めておく場所は」
男の一人が足を止め、全員が足を止める。
七畳程度の、なにやら小さな部屋の前だった。
一人の男が扉を開け、一人の男が、担いでいた彩を、乱雑にその部屋に放り込んだ。
それでも、彩の意識は戻らない。
扉が閉められ、施錠される。
「……いいでしょう。私はここでしばらく彼女を見張りますので、どうぞお先に持ち場へ戻ってください」
男三人は、相輪の言葉を聞くと、そのままフロア奥に入っていってしまった。
「……………………」
「……………………」
相輪は、黙って雅樹の隠れているほうへと向いた。
「鍵を貰い忘れてしまいました」
「……何をやってるんだお前は」
隠れている必要はなくなった。
雅樹は、彩が閉じ込められている部屋の前へ進む。
「…………」
扉には小窓がついており、覗き込むと、彩はまだ意識を取り戻してはおらず、投げ飛ばされたまま転がっていた。
白い塗装のされた金属の扉。到底蹴破れそうにもない。
「……あいつ、どうしたんだ」
ようやく訊くことができた。
相輪は、小窓から彩を覗き込みながら、淡々と答える。
「意識を飛ばされたんです」
「それは分かってる。問題は、どうやって、だ」
「……彩の身体は、知ってのとおり、人工的に作られたものです。脳は完全に模倣しただけのものですが、身体は、完全オリジナル――、培養によって作られたものであり――、その構造自体は、実ははっきりしています」
相輪はそこで一旦、言葉を止め、雅樹の顔を窺った。
それも分かっている。
雅樹は、続けるように目で促す。
「……彩の体には、幾つか、機械が埋め込まれています。生命活動の補助ではなく、観察を行うための――、感覚を司る神経、つまり、彩の五感にはその機器が取り付けられていて――彼らは、そこをいじって、五感の伝達を、止めてしまったのだと――思われます」
「なんでそんなことができる。確かに彩の体にはそんなのがあるさ。遠隔的に操作もできるみたいだが……、なんで知ってるんだ?」
「私は彩の母親と知り合いですから……。革新会は、あれでいてかなり裏の世界に通じています。漏れたのでしょう。私は幹部をしていますが、そこらのことはまったく分かりません」
「……使えないやつだな」
「使われる気はありませんし」
あっさりと、相輪は言ってのけた。
「分からない、で簡単に片付けられると思うか」
「分からないのだから、仕方がないでしょう……。――断言しておきますが、私ではありません。……まぁ、疑っている人物の断言と言うのも、妙な感じがするかもしれませんけどね」
相輪は、苦笑しながら言った。
「まぁ、なんにせよ、彩の意識が戻るまでは、私もあなたも動けません。革新会の彼らは、私が呼んだり、よほど時間が経たない限りはここには来ないでしょう」
小窓から見える彩は、いまだ意識を取り戻す気配はない。
相輪は、扉に寄りかかるようにして床に座り込んだ。
立っていても仕方はないので、雅樹もそれに倣う。
「ここで待ちぼうけか。くそ。彩なら、この扉ぐらい、なんでもなく開けちまうんだろうな」
「……なんでもなく、ですか」
予想外の相輪の食いつきに、雅樹は眉をひそめた。
「知っていますよ、彩が、特殊な能力を備えていることは」
「……なんでもできるあの力をか」
「いえ――」
相輪は、一旦言葉をとめた。
続ける言葉を選んでいるようだった。
「力……と言うには、多少語弊がありますね。――彩が持っているのは、力ではなく、あくまで能力です。……まぁ、捉え方の問題ではありますけどね」
雅樹は、アニメを真似て彩が使った、火の玉を思い出していた。
「彩のあの能力は――言うなれば、捻じ曲げる能力です」
「捻じ曲げる?」
「事実を捻じ曲げる能力、ですね。例えば――鍵を掛けられた部屋に閉じ込められたとしても、彩は、その部屋から出ることができます――鍵が掛かっている、という事実を、無効にして――捻じ曲げて。事実としてありえない事象を、事実としてしまう。物事の因果の事実を捻じ曲げてしまう、そんな能力です。捻じ曲げるのは彩ではありますが――、捻じ曲げられた事実、因果は、その、事実、因果という絶対的な存在を力として、具現化します。故に、彩自身の力ではなく、事実……いや、因果ですね。因果の力、です」
「……考えたこともなかったな。彩は、それを因果干渉と呼んでいる」
「因果干渉。まさしくそうですね。あなたはさっき、『なんでもなく』といいましたが、なんでもないことはありません。とんでもないことです。因果をいじくるのだから。因果をこじれさせないように、……到底、人間では扱えないような膨大な情報と、理論をもってして、原因と結果の、辻褄合わせを行っているはずです。彩だから、できることなのですけれどね」
しかしそうだからといって、はたして辻褄を合わせられるものなのだろうか。言うなれば、この世の法則そのものである。
「……そうなのかもしれないが、そりゃでかすぎやしないか? その力とやら。例え彩だからといって、制御できるものなのか?」
「できません」
相輪は、間髪いれずに答えた。
「我々人間は、何事も認識してから、理解を始めます。そして、理解できた範囲内で、概念化します。そして概念として再び認識する――。概念とは、つまり我々が理解できた範囲内の、いわば仮定です。つまり、不完全。彩は、あくまで人間なのであり……不完全な概念をもとに、不完全な概念がもととなっているが故に、不完全にしかならない情報と理論を使って、因果という、また概念としてしか捉えられない存在に干渉しています。これが不完全でないとは、到底いえません。それ故辻褄を合わせきれなかった概念も必ず発生し、それは捻れとして確実に残ります」
「捻れが残ると、……どうなる?」
「彩と言う小さな存在によって残されたほんの小さな捩れですから、当面はどうにかなるということはないでしょう。自然的な力で解消されるのかもしれません。ですが、万が一……理論の組み立てに少しでも失敗して、それゆえに規格外に巨大な捻れが残った場合、起こると考えられるのは、パラドックスの暴走――この世は巨大な捻れを、強制的に解消しようとする。わずかな捻れの解消では、どうと言うことはない、認識できないような小さな波しか発生しませんが、巨大な捻れとなると、すべてを作り変えて、解消するための巨大な波が発生する――つまり崩壊です」
その言葉を最後にして、相輪はその話題を打ち切るつもりのようだった。
さっと立ち上がると、小窓を覗き込む。
「……意識が戻ったようです」
その言葉を聞くなり、雅樹は半ば飛び上がるような勢いで立ち上がり、小窓を覗き込んだ。
彩の眼が開いている。何か呟くように口が動いたが、なにを言っているかは分からなかった。
なんにせよ――、様子がおかしいということだけは分かった。
眼の焦点が合っていないように見える。
彩の両手が、ゆっくり動き――、自身の、眼球を突いていた。
「――――っ!」
見ているほうが、痛い光景だった。
だが彼女は、痛がる様子もなく、――何か呆然としたように、両手を床に落とした。
息を大きく吸ったのか、胸が上に動く――が、傍目から見ていても分かる。肺が限界を迎えようとしていた。
再び、口が動く。なにを言っているのか、聴こえないのがもどかしい。
口が動くたびに、顔は蒼白になり、絶望的な表情となっていく。
最後に、ようやく声が聞こえた。
「感じないよぉ!」
もはやそれは絶叫だった。
桁外れの声量だった。
「あああああああああああああああああああ!」
「彩! 彩ぁああ!」
雅樹は叫んでいた。
届いたような気配はない。
彩はこちらに背を向け、頭を抱え蹲り、言葉にならない言葉を叫び続けている。
「気付け! 彩!」
だが、気付かない。
雅樹は振り返り、怯えたように蒼白な顔をして、反対側の壁に背を付いている相輪の胸倉を掴みあげる。
「どういうことだ! なにが起こっている!?」
「………………っ!」
最初に会ったときの、余裕のある顔は、見る影もない。
まさしく、恐怖に歪んでいる。
その視線は、雅樹には向けられていない。
彩に向けられている。
「答えろ! なにが起こっている!?」
「……意識はあるのに」
口の中で呟くように、相輪は言葉を発する。
「五感が――無い……!?」
「――――!?」
一瞬、意味が分からなかったが――、あくまで雅樹の想像でしかありえないが――、そこにあるのは――、いや、なにもない!
「――恐怖なんていうものじゃない……!」
熱に浮かされたように呟く相輪を放り出し、雅樹は扉へと突進していた。
だが、白いその扉は、びくともしない。
「くそ! 相輪ぁあっ! 何呆けてやがんだ!」
放り出されたまま呆けていた相輪は、はっと顔を上げた。
「鍵だ! 鍵をくれ!」
「持っていない!」
分かりきっていて、酷く簡潔なその答えは、無駄によく聞こえた。
「畜生!」
小窓から窺える彩の背は、酷く小さく見えた。
顔は見えない。蹲って、激しく震えている。
雅樹は、拳を小窓に打ち付ける。脆いガラスに亀裂がはしり、細かいガラスの切れ端が、雅樹の拳を鋭い痛みと共に血で染めた。
痛みは、雅樹を冷静にさせる。
この小窓を破ったところで、どうしようもない。
扉一枚隔てたところで、彩はどうしようもなく震えている。
雅樹は、辛うじて思考を保ち、相輪に向き直った。
「鍵はどこだ」
相輪は、震える手で廊下の奥を指し示した。
「右の、突き当たり……」
通路を右に曲がった突き当たり。
雅樹は、走った。
過ぎ行く、扉、扉、扉。
焦りは増す。
突き当たりに、扉が見える。
彩が閉じ込められたような鉄の扉ではない。
迷わず雅樹は、扉に向かって肩から突っ込んだ。
いとも容易く、扉は吹っ飛んだ――。
その部屋には、男が数人いる。
各々眼を丸くして、雅樹を見ている。
「鍵は――どこだ」
一人の男が何か叫んだ。
なにを叫んでいるのかは分からない。
ただ、鍵の在処を言っているのではない。それだけは分かった。
その叫びをきっかけに、男達は一斉に立ち上がり――もともと立っていた者が、最初に雅樹になぎ倒される。なにをどうやったのかは、雅樹自身が分かってはいなかったが――、感覚が恐ろしく鋭敏になるのは分かった。
人の身体は、よく出来ているくせに、弱点が多い――。
身体の真ん中を対象に、大抵は左右対称に存在する。
急所と言うのはつまり、生命活動において重要な部分のことを指すのであり、まかり間違えば、いとも簡単に命を絶つ要因になる。
どこか矛盾しているようで、しかし確固たるものである。
理屈などどうでもいい。そうであるならば、そうなのである。
そうでないのならば、そうではない。
そうであるものは、ただ利用するまで――。
「鍵はどこだ」
再び雅樹が言葉を発したときには、誰も自力では立てないようだった。
彩を担いでいた男の胸倉を掴んで、無理やり立たせていた。
完全に脱力し、抵抗する気もないようだった。だが、顎が砕けていて、言葉が発せない。
男は、手を自分の服に這わせ、ポケットから、小さな金属を取り出した。
ほんの小さな金属のカケラである。
雅樹は、一瞬だけ、笑いそうになった。
男の手からそれを奪い取ると、男の胸倉を放し、男が崩れ落ちるのを見る前に、その部屋に背を向けた。
「ああああ……ああああああああああああああああ!」
雅樹の腕の中で、彩は叫び、のた打ち回る。
扉は開いた。だが、雅樹にはなにができるわけでもなかった。
彩は血まみれだった。身体中のあらゆるところに裂傷を負い、感覚のない肉体は、さらに自らを傷つけていた。
床に打ち付けた足や腕は、ありえない方向に曲がり、それでなお、痛みを感じずに、無理に動き続ける。
爪で両頬を引っ掻き、抉り、爪が剥がれる。
眼はあいていても、その役割を果たさない。
「落ち着いて!」
彩は叫んだ。
「落ち着いて――! 落ち着くの! 落ち着いてよおおおお!」
自分に言い聞かせたつもりであろうその言葉は、彩自身に聴こえてはいない。
さらに混乱したように――、
絶叫し、泣き喚き――喉が破れたのか、口から血を飛ばしながら。
「何もできない……!」
肺を絞り、
かすれた声で、
「光が欲しいよぉ……!」
求め、
「空気が欲しいよぉ!」
求め、
「地面が欲しいよぉ!」
ひたすら求め。
雅樹には、足掻く彩が、自らを傷つけないように、ただ抑えるしかなかった。
力ずくで、抑える。
感覚の無い力は、恐ろしく強かった。
「もう、嫌――! 嫌だ!」
感覚は無いのだろうが――、彩は両手で顔を覆った。
言葉が、とめどなく漏れる。
「消えて――もういい! 消えて! 消えてよ……! なんで、なんで消えないの……!」
自らの消失を、懇願する。
「消えるな! お前は生きてる! 死んでない!」
無駄と分かっていて、雅樹は叫んでいた。
「――消えない……! 私は、消えない……!?」
「そうだ! 消えないんだ……!」
「――死んでない……!」
「そうだ! 生きてる……!」
呼びかけられない呼びかけ。
彩はそれに答えるように、言葉を搾り出す。
「私は生きてる……!」
閉ざされた中で、そこまで行き着くのは、奇跡に近いのかもしれない――、雅樹には、満身創痍の彩が、もはや神々しくさえ見えた。
「身体が欲しい……!」
「――ここに、ある……! 起きろ、彩!」
彩の目が、確かに動く。
「………………っ!」
「う……っ」
彩は眩しそうに、目を瞬かせる。
ひゅう、と、息を吸い込む。
――予想は出来た。
感覚を取り戻しているのなら――、
突然、彩の目が見開かれ、
「ぐぁ、うあぎゃああああああああああああ!」
かすれた声で叫び、悶える。
「おい! 彩――、彩!」
焦点の定まらないその眼で、彩は、雅樹の顔を捉えた。
「ま、ましゃきっ」
視線が、雅樹を捉えた。
満身創痍、大丈夫なわけが無い。
だが、雅樹は訊いていた。
「大丈夫か?」
彩はその問いかけには答えず、安堵と嬉しさが入り混じった表情を、くしゃくしゃにし、
「こ、……こわ、かった……怖かったよぉ……!」
恐らく、人生で初めて、彩は涙を流して泣いた。
次話、最終回です。ちょっとばかし短いです。




