3・ブランク◇カオス
純白の廊下。白色の回廊。無色の通路。
言いようは幾らでもある。要は、無駄に白い空っぽの箱、と言ったところか。
そこを歩く気分、そんなことを考える必要はまったくない。ただ、必要はなくとも考えることは決して罪ではないし、罪であったとしても、人の考えなど分かりようもない。予想はできても。
代わり映えのない光景だ。
この廊下も、窓から垣間見える外の景色も、自分の足音も。
そこに違和感はない。
意識せずとも、いつだって見ている光景に、既視感など覚えることもない。
しかし意識して見ると、――いつだって見ているはずなのに、初めて見るような感覚――、未視感……を、覚える。
これは誰しもが感じるような感覚ではないのかもしれない――いや、それがどうであれ、問題ではない。
どんな問題であっても、自身が問題視しないかぎりは問題にはならない。そういうものだろう。
天真爛漫な少女。
清掃衣などを身につけ、暇そうに、無邪気な独り言を呟いていた少女。
髪が美しい少女――
彼女を見たときの感覚は――既視感。
問題は、そこだった。
嬉しい問題だった。
「つまりあんたはロリコンなんだわ」
「……違いますよ」
相輪は、携帯電話の向こうから聞える言葉を否定する。
「まぁ、あんたの趣味に口出しする気はさらさらないんだけどもさ。アブナイことだけはやんなさんなよ」
「……私の趣味の点以外は、言い返すことはできませんね。御存知のとおり、すでに危ないことに手を出していることには、違いはありませんしね」
「アブナイの意味合いが違う……まぁいーけど。あんた、何がしたいのよ。最近なんか妙なテロっぽい組織引き連れてるみたいじゃないのよ。有吉乗っ取る気?」
「そんな気はありませんよ。ただ、結果的にそうなるかもしれないというだけで。地位には興味はありません。……ただ利用するだけですよ」
「結果がどーだろーが真意がどーだろーが、傍から見りゃ関係ないじゃない? めっちゃ迷惑だわ」
「まぁ、そうかもしれませんけどね……」
「……あんた、今どこにいんの?」
唐突に、話題を変えられる。
相輪は辺りを見回した。
壁も、天井も、床も、ただ白い廊下。
「白い廊下ですね」
社長室に向かって歩いているのだった。
「……めっちゃ抽象的だわね。なによ、有吉本社にいんの?」
「そうです。もっとも、今日は社長も従業員も一人だっていませんけどね」
「……まぁたなんか妙なことしてんの? 側近ってのはそんなことまでできるわけ?」
「いえ……。社長に御進言申し上げただけですよ。『入り込んだ厄介者は私が何とかしましょう。その間、社長の身が案じられるので、久々の休暇、久々の家族孝行でもされてみては?』と」
電話の向こうで吹き出す声が聞えた。
「そ、それであんた、社長にぜ〜んぶ任せられたってワケ?」
「そうです。まったく、暢気なお方ですよ、わが社長は」
「うわ、あんたがよく言えたもんよねぇ! 随分信頼されたものねぇ。信用している側近が、まさかそんな、経営を一日とは言え完全停止させるだなんて、思ってもないでしょうよ。んで、あんたはどうするわけ? たかだか数人、入り込んだ数人を何とかするのに、んな大事……例えあの子(彩)に会うためとかであってもさ」
「いえ。入り込んだ厄介者は、数人単位ではないでしょう?」
「……あー、あぁ。なるほど」
「確かに大事になってはいますけどね。ですがむしろ、一日だけの経営停止で大方の厄介が片付くんですから、損ではないでしょうし、どちらかと言えば得でしょう。それもかなりの。まぁ、この事態を社長が知ったら、多少なりともショックを受けるでしょうが」
「……さすがだわ、あんた」
「お褒めに預かり光栄です」
「強行過ぎるけど」
「この会社の未来のためにです」
「やっぱさすがだわ。そこまで言い切っちゃうのは」
「敵いませんね。あなたには」
相輪は、いつの間にか自分の足が止まっていることに気付いた。
社長室前に辿り着いていた。
暗証番号448。
開錠の音がして、相輪は扉を開けて中に入る。
実は昨日――、彩を社長室に招いた後に変えた暗証番号だった。
何でも屋の情報網を試すための悪戯である。
一週間ほど前、この暗証番号を簡単に隠した暗号情報をこっそり外に流しておいたのだった。
確実な情報網さえあれば、彩と、雅樹と言う彼女の相棒は、社長室に入ってくることができる。
相輪は何とはなしに、最奥の社長専用デスクに腰をかけた。
「今日だけは私の社長室ですね」
「社長室か……なんか一番てっぺんの階にあって、高級尽くしの家具にインテリアってイメージの」
電話越しのその言葉に、相輪は社長室を見回す。
社長室。最上階、高級な家具、高級な絵画、高級な時計。
「……そのイメージは、あながち外れてもいませんね」
あながち、と言うか、大当たりである。
「それと噂で知ってんのよ。有吉本社の社長室の秘密のことは」
「噂が常に真実かと言えば、そうではないでしょう。いや、ほとんどが真実ではないと思いますよ」
「ばかね。噂ってのは、なにかしら根拠があって広まるもんなのよ。ガセネタだって、いかにもそれっぽいとか、ギャップとか、そんなのがウケるから広まるもんでしょ。火の無いところに煙は立たぬってやつね」
「……噂ですか」
「噂はね、あれね、デスクには思わず押したくなるようなボタンがあって、気に入らない奴が来たらそのボタンを押して落とし穴に落とすっていうのね」
「それはさすがにありませんよ」
思わず笑ってしまう。
「そっか。まぁ、そんな都合のいい装置はないわよねぇ。裏と繋がってそうな大企業ってなんかそれっぽいからさ」
あはは、と電話越しに快活な笑いが聞こえる。
「それで? そこにあの子を招くわけ? あの子と、それと相棒さんか」
あの子。会ったこともないはずだが、電話越しの彼女は彩を『あの子』と呼ぶ。
「そうなる予定ですけどね」
「あんたの予定はいつだって確定でしょう?」
「いえいえ。それは買い被りすぎです。いつだって未定ですよ」
「わけわかんない」
「確定したら予定ではありませんよ」
「でも未定じゃ……未定なんだから予定もくそもないじゃないの」
「それもそうですね」
「日本語ってのは難しいわ」
「英語は簡単だと?」
「英語なんてさっぱりよ。あーもう! 簡単な言語ってないのかなぁ!」
「ないでしょうね」
「いじわる。まぁ、でも、簡単すぎる言葉ってのも味気ないもんだろうしね」
また電話越しに快活に笑う。
「それで? 脱線しまくって隣の反対路線に入っちゃいそうだけど?」
笑いの余韻を残しながら、電話越しに彼女は言った。
「では、元の路線に戻りましょうか?」
元はと言えば。
何故、今電話越しに彼女と電話をしているのか。
あの少女――彩に会うからだ。
「あなたがロリコンだって話だったわね」
「違いますよ。確かに、彼女は大抵の男性なら好意を持つでしょう。もちろん、私も例外ではありませんし。……いえ、それとは別に私が彼女に惹かれたのは、……分かるでしょう?」
「さぁ、なにかしら?」
電話越しの彼女は、わざとらしく相輪に答えさせる。
「あなたに雰囲気が似ていたからですよ。そして私はあなたを思い出して、今、あなたと話している……」
「ふぅん。私を思い出して、ねぇ。まぁ、あの子があたしと雰囲気が似ているのは、まぁ、当然と言えば当然だしねぇ。それはあんたも分かるでしょうよ。……まぁ、あたしはあの子に会ったことはないから知らないけどね。でも、あんたが私を思い出して……それから今あたしと話してる理由ってのが、いまいち分かんないんだけど?」
悪戯っぽい口調で、電話越しの彼女は言う。
相輪は、嬉しいような、もどかしいような、そんな感覚と共に軽く溜息をついた。
「いじわるですね、あなたは」
「何がいじわるよ。あんたのほうがいじわる……というより性質が悪いわよ。それじゃ、多分あの子には嫌われるわ」
「何故です?」
「はっきり言うとね。あんた、ある程度馴染むまでは、気味が悪いのよ」
「そうですか?」
「特に思春期の年頃の女の子相手じゃ、あんたはほんとに性質が悪いわ……」
「でもあなたは私とこうして話しているでしょう?」
「そりゃ、あんたと馴染んでいるし、心得てるからよ。それに、あたしは思春期じゃないわよ? 立派な大人の女性だからね。今年でもう二十歳の後半になるし」
「よく分かりませんね。女性には、誠意を持って優しく接しているつもりですよ」
「そこよ」
電話越しに、彼女は断定する。
「いつでも笑顔でしょ」
「そう、心がけています」
「あのね、あんたのは貼っ付けたけたような笑顔っていうのよ。特に笑顔でいる必要もないときに笑顔だと、不自然なのよ。優しい顔なら分かるけどね、笑顔っていうのは、また違うもの」
「違いますか」
「それとね。誠意を持って優しく接する……いい心がけ。でも、やりすぎ。大人相手だと、好意を持たれる、良い処世術かもしれないけどね。子供相手だと、そうね。女の子は、口説かれてるような感覚になるんじゃないかな。それも会ったそのときから」
「口説いているつもりはありませんよ」
「分かってる。だから性質が悪いってのよ。あんた、気をつけなさいよ。特にあの子の人生は、まだ一年と半年くらいなもんでしょ。人生経験はまだほとんどないからね。気味が悪いって感じたら、感じたとおり、素直に嫌うわよ」
「素直にですか」
「それとあんた、気分が高揚したりすると、相手に絡むクセ、あるじゃない」
「そうですか?」
「そーなの。……って、なんであたしあんたに対人マナー講座開かなきゃなんないのよ」
「頼んではいませんよ」
「頼んだじゃなの」
「頼んだかもしれませんね」
「頼まれてないよん」
「そうですか」
「ま、とにかくね」
彼女は一旦言葉をとめる。
「なんていうのかな。あんた、あの子には絶対嫌われるから気をつけなよ? ……いやさ、そもそも、あの子に会ってどうする気?」
本題。
ようやく、本題に入る。
本題は、常に簡潔で、短くある。
「私と一緒に来てもらうつもりです」
「……は?」
呆気に取られたのか、彼女は素っ頓狂な声を上げていた。
「な、何? あんた、妙なテロ組織の幹部やってて、有吉なんていう巨大企業社長の側近で、その有吉に激震走らせて、その上、思春期の女の子の誘拐までするつもり!? 何を極めようとしてんの!?」
「……何も極めるつもりはありませんよ。それに誘拐だなんて、人聞きの悪い。彼女……彩の意思を尊重するつもりです。私に付いてこさせる、ということです」
「こさせるって……何をエサに?」
「また人聞きの悪い……。いえ、ちょっと、ほのめかすんですよ……」
「何を?」
「秘密です」
「秘密って……まぁ仕方ないわ。でもくれぐれも言っとくけど、アブナイことだけはしなさんなよ?」
「もう十分に危ないのですけれどね」
「だから、アブナイの意味合いが……、あんた、ひょっとしてわざと言ってるでしょ」
「お分かりになりますか」
「お分かりになるわよ……」
疲れたように、彼女は溜息混じりに言った。
相輪は社長室の高級時計に眼を向けた。
もうすぐ。
「出勤時間……ですね。もうすぐ、ここで彼女と会うことになりますね」
「何よ、楽しみなの?」
「もちろん」
「ロリコンめ」
「いえ、いえ。違いますよ。……楽しみなのは……純粋に、会うことが、です。なにしろ彼女は……」
「……あんたまさか……?」
電話越しの彼女は、気付いたようだった。しかし、有無を言わせず相輪は言葉を続けた。
「――あなたの娘なのですからね」
「ちょっ、ちょっと待っ」
「では」
電話の向こうで何か騒いでいるのを無視して、相輪は通話を切った。
そしてそのまま電源も切る。
ちょうど、通常であれば出勤時間だった。
既に彼女はこの建物の中に入っているだろう。
閉鎖されたこの建物の中、雅樹という彼女の相棒は、恐らく社長室に向かおうとする。
その手はずも整っている。
相輪は、緩んでいたネクタイを締めなおした。
その時。
建物が揺れるほどの爆音が響いた。
派手にやっている。
彼女のあの能力――と言うべきか――だろう。
有効活用はできているようではある。
だが、お約束のように、危険な能力であることには変わりはない。
彼女はまだ、それを十分にわかっていない。
だから。
万事うまくいってほしいという思いは確かにあるのだが――、しかしその感覚は酷く抽象的で――、故に確信を得ず――、予定はあやふやで――、限りなく、未定に近い。
確定できることなど、何一つとしてない。
確定すべきではないのかもしれないし――、否、――確定など、存在しない。
確定した予測などない。
屁理屈を言えば、予測なのだから、確定はしていないわけだ。
――取り止めもない。
だからなんだ。
人は、待つという行為が苦手なのかもしれない。
通常より、時間の流れが遅い。
空白の時間、とでも言うのか。
待つ時間というのは、本当に何もない。
◇
秩序と言うのはつまり、物事における道筋、順序、規則正しいこと。
秩序がなければこの世の中は木っ端微塵のバラバラになってしまうだろうし、この世の法則である。
人の世で言えば道筋の言うのか、道理と言うのか、それとも摂理と言うのか。
拘束と言えば拘束だが、そのくせに結構放任でもある(気がする)。
秩序と言う概念の根拠とは何か。そんな面倒くさい追求は今更することでもないし、要求するものでもない。
言葉がある以上は意味もあり、その理由もあるだろうし、根拠はあるのだろうが、そんなものは考えずとも、感覚としては自然と頭に染み付いているものだろう。
だから、真意を求める必要はもとよりない。
(……めんどくさいだけなんだよねぇ。……それでも考える私はただの暇人?)
考える人。しんきんぐぴーぷる。
考える人。ロダン作。実は考える人なのではなく苦悩する人だったのだとか。
なるほど当てはまる。
「……………………」
彩は隠れていた。
暇なのではなくて。
有吉コンツェルン本社は、今、まさに無秩序と化していた。
無秩序。
今日はいつもの正社員、アルバイトの影はどこにもない。
代わりに、怪しい集団、革新会の男達があちこちをうろついている。
潜入していた十人を追って、である。
(してやられたり)
おでん屋にて宇都木と出くわして、妙な空気のまま解散した次の日の朝。
「こら、起きろ。朝だ」
「……あと五時間……」
「……せめて五分と言ってくれ」
と言う会話があったことはさておき。
いつものように会社に行き、その建物に入った瞬間扉に自動ロック、閉じ込められた。
呆然としているうちに、数人の男達が現れ、特殊警棒やら武器を手に襲い掛かってきた。
逃げているうちに雅樹とはぐれ、彩はただいま女子トイレ、右から三番目の個室。
(だぁれも来ないんだよねぇ……女子トイレだからかなぁ……)
蓋をした便器に座っているだけ、椅子に座っているのと変わらないはずなのだが、なんとなく落ち着くのは何故だろう。
更衣室に行く前に逃げたので、今は清掃服ではなく、ジーパンにTシャツ、ジャケットといった服装である。
雅樹や他の仲間が無事かは心配だったが、ここで飛び出してしまうのも良策とはいえない。携帯電話は、この鉄で造られた建物内では常に圏外になっている。
ただ待つだけ。
何を待つかと言えば、誰かが助けに来るのか、それとも敵さん達が捕まえに来るのか。
「ゆ……」
声を出すのは得策ではない。
(……憂鬱だよぅ……)
落ち着きはするが憂鬱、それゆえに暇は感じない。だが、ぼけ〜っとしているしかない。
要するに暇だった。
「むむぅ……」
因果干渉、雅樹曰くリアル魔法を使ってしまおうかとも考えたが、面倒な上、声を出すことになる。
(……因果を弄くんなきゃいいか……)
意識を沈めるだけならば、何の問題もない。時間も関係なくなるので、意識を沈めている間に襲われるという心配もない。
目を瞑って、意識を沈めようとしたそのとき。
(誰か来た?)
足音を立てないようにして、何者かが女子トイレに入ってきている。
普通ならば聞えないような音なのだろう。異常に聴力の良い彩だから分かる。
「……………………」
冷たい床になんとかへばりついて、扉の下の隙間を覗き見る。
黒い靴が見えた。
(……大体の人がそうだもんねぇ……)
誰の足かなど、分かるわけもない。
鍵が掛かっているのは当然この個室だけ。すぐに隠れていることなどばれる。
やられる前にやれと言う。
鍵に手をかけて、肩を扉に添えて、頃合を待つ。
気配が正面にくる。
開錠し、同時に扉に添えた肩に全体重を掛ける。
吹き飛ぶような勢いで扉が開き――、
「……ふぇっ?」
半ばほど開きかけたところでいきなり勢いと力が吸収されてしまった。
「俺だ、雅樹だ」
聞きなれた声が聞こえて、彩は扉の向こう側を覗き見た。
「あ、雅樹」
雅樹だった。
あの勢いで飛び出した扉を、右手だけで押さえていた。
「女子トイレだよここ」
「そこかよ。いや、お前のことだからここいらにいるんじゃないかと思ったんだが。いたな」
「あの人たち撒いたの?」
「いや、撒けなかったからそこらへんに転がしておいた」
「転がし……って」
職業柄なのだろうが、雅樹は強い。
彩は撒いたのだが。
「それでで、いつまでこうしてるつもりだ」
ずっと扉を挟んだままだった。
「ちなみに言うが、この扉、内開きだぞ」
「あ」
蝶番がものの見事にぶっ壊れて、扉は完全に外れている。
「怪力だな」
「雅樹が教えてくれた方法でやったの!」
力を効率よく発揮する方法なのだという。何かの武術らしいが。
「……これからどうすんの?」
ぶっ壊れた扉は適当に立てかけておく。
「どうしようか」
「どうしようかって……」
「まさかこんなに早く動き出すとは思わなかったしな。正直何も考えてない」
昨日の今日である。数日以内には動くだろうと予想はしていたものの、翌日動き出してしまうなど、予想だにしなかった。
「でもじっとはしてられなくない?」
「見つかったりしない限りはじっとしておいたほうが良いと思うが。この建物自体もう外から隔離されて出られないしな」
「そんなのいや」
「いやって、お前な」
「いやーっ」
「……とにかくじっとしてたくないんだな」
「うん」
「暇だしな」
「うぇ? うな、うん」
「何変な声だしてんだ」
「なんでもない」
なんとなく、暇をしていたとは思われたくなかったのだが。
「暇じゃないもん」
「……今暇って言わなかったか?」
「言ってな――」
「いたぞ! 見つけた!」
突然の叫び声。
一人の男が、女子トイレを覗き込んでいた。
「なに覗いてんのよ! ここ女子トイレよ! きゃー! ヘンタイ!」
とか言ってみる。が、まぁ、関係はなかった。
気付いたときには、雅樹は男の腹を殴りつけて失神させていた。
「状況的にあれかな。逃げたほうがいいんじゃないかな?」
「……そりゃ、そうだろ。女子トイレだからとかは関係ない。ほら来た」
入り口から外を覗く。と、武装集団が左右の通路から挟むように駆けつけてくる。
「武装集団!?」
銃は持っていないようだが、木刀やら特殊警棒やら。
逃げ道がない。
「さて、どう切り抜けたものか」
雅樹は冷静だったが、しかしかなり困った状況ではある。
打開策としては。
「……あ、そうだ。あれ、やってみようかな」
「あれ?」
「リアル魔法」
「リアル魔法って」
「にひひひひ」
不敵に笑って見せると、通路中央、右側を向いて仁王立ちしてみせる。
掌を天井に翳す。
「ふぁいやー……」
「ふぁい……って」
掌に、野球ボールほどの大きさの火の玉が出現。
「ぼーるっ!」
迫り来る武装集団に投げつける。
先頭の男の足元に着弾し、爆音と共に大爆発。
集団は散り散りに吹っ飛ぶ。
「……………………」
「……………………」
左側から迫りつつあった集団は、その場で立ち止まってしまった。
「……殺してないだろうな」
「誰も死んでないと思う」
「思うじゃないだろ……」
「強行突破あるのみ! にゃははははは!」
アニメで見た魔法は、設定として既に概念が成立している。細かい設定の組み立ての大半を省くことができた。
「道は開けたのだっ」
「……あ、ああ。じゃあ、行こうか」
後は奇妙なほどすんなりといってしまった。
奇妙、と言うよりは不自然、といった感じか。
一度強行突破した後は、誰にも見つかることはなかった。
無駄に広い空間、誰もいない。
妙につめたい空間である。
白い。
雅樹の案により、二人は社長室へと向かっていた。
下っ端がそう簡単に入れるような場所ではないからなのだが、
「罠だね」
「罠だろうな」
「何の?」
「さあ」
「でも行く?」
「罠ってことはビンゴってことだろ」
「なんの?」
「さあ」
「……………………」
「……………………」
「で、行くの?」
「行くしかないだろ」
既に、目の前には社長室の扉がある。
扉横に据え付けられている電卓のような機械に暗証番号三桁の入力を済ませてしまえば、扉は開く。彩はその手順を一度見ているし、中に入ったこともある。
「暗証番号か。あの三桁のか」
暗証番号。448。
「……あれ。448だっけ?」
「そのはずだが」
「あの時、側近みたいな人が押してたのは、違う番号だった気がするんだけどさぁ」
「何番だった?」
「よくわかんない」
「じゃ、448でいくしかないな」
「むぅ」
雅樹の指が滑らかに動く。
がちゃり、と音がして、扉のロックが解除された。
「あっさりだねぇ」
「あっさりだな」
とは言え、気は抜けない。
ほぼ確実だが、罠である。
雅樹は目で合図して、扉に手をかける。
そっと開けて隙を作るよりは、勢いよく開けて隙を作らず警戒を緩めない。
「せぇのっ」
小さく掛け声をかけて勢いよく扉を開ける。
「けいしゃつだー! うごくにゃー!」
思い切り噛みながら叫んでみた。もちろん彩は警察ではないが。
「なに叫んでんだ」
「ふいんき……じゃなくてふんいき的に」
「動きませんよ。もしあなたが警察でなかったとしてもね」
社長室、デスク横に立っている男が言った。
三十代くらいで、スーツの人のよさそうな男。
(……げ)
彩の苦手な男がそこにいた。
最初に彩を社長室に呼んだ男である。
「……社長はどこだ?」
雅樹が訊く。
「休暇を取っております。ここはすべて私に任されましたよ。暢気なお方だ。よもや会社がこのような状況になっていることなど、知る由もないでしょう」
貼り付けたような笑みで、その男は穏やかに言う。
「あんた、有吉の側近か」
有吉。もちろん、この会社の社長のことである。
「お分かりになりましたか。相輪と申します。以後、お見知りおきを。彩、また髪が伸びたのだね」
「うぇっ? あ、はぁ、まぁ……」
唐突に言葉かけられ、曖昧な返事になってしまう。
「知り合いか?」
「社長さんに頼まれて私を社長室に連れてった人」
しかし何故この男は髪のことをいちいち言ってくるのだろうか。
(……ヘンタイ?)
では、ないような気はした。
ちなみに彩は、長くなった髪を相変わらず後ろで束ねている。
「それで、私をどうするおつもりですか?」
その声に皮肉の色は微塵もない。
純粋に疑問系だった。
とは言っても、覚悟を決めたとか、観念したような感じではない。
「どうもしない。どうもしようがないだろう。できるのは縛って動きを拘束することだけか」
雅樹はあっさりと答えていた。
相輪は悪戯っぽく笑った。
「……しかし、私はあなた達をどうかすることができるのですが? 拘束されるまでは、ですけどね。仲間を呼ぶ時間くらい、幾らでもありますしね」
「だろうな。俺たちをおびき寄せたからにはそうなんだろうな。なんでおびき寄せる必要があったんだ? 他のやつらはどうした」
「なに、少しばかり個人的な用事がありましてね。御安心ください。あなた方の仲間達は、どうにかしてこの建物から逃げ出したようです。おっと、逃がしたのでした」
ここで相輪は彩に視線を向けた。
「……彩。あなたに用事があってね」
「へ? なんの?」
「いえ、だからと言って、雅樹さんだけを手元にあるボタンとかで落とし穴に落とそうというわけではありませんよ? そもそもそんな都合の良い装置はありませんしね」
相輪は、彩の質問を無視する形で言った自分の冗談が気に入ったのか、くすくすと笑う。
しかし。
なんとなく、その言葉が冗談には思えないのは何故なのだろう。
「ああ、客人をずっと立たせておくのは失礼ですね。どうぞ、適当におかけください。残念ながらお茶は出せませんけどね」
薦められたからといって、別に立っていてもいいのだが、意味がない。二人はソファに座る。
「それで、あんたは俺たちをどうにかするのか? それと、彩になんのようだ」
「あなた達が私を縛るとか、どうにかしようとしないかぎりは何もしませんよ。ほら、こういうのを膠着状態と言うのですかね」
嬉しそうに相輪は笑う。
こう着状態。これでは本当に何がしたいのか分からない。
……あるいは本当に何もしたくないのか。
(……そりゃあ、ないよねぇ……)
「でもあんた、俺らの仲間を逃がした、って言ったろ」
「そうですか? 逃げられたのですけれどね」
と、相輪は軽くとぼける。
「どっちだっていい。応援が来るぞ」
「来るでしょうね。ですがそのとき私はここにいなければいいのですから」
「逃げるのか?」
「はい。言い換えれば戦略的撤退、とでも言うのでしょうか? 言い換えても意味合いは同じですけどね」
「……あんた、何がしたいんだ? 彩に何の用事か、返事はまだ貰ってないが」
「いえいえ。なにも。用事とは言いましたが、何もするつもりはありません。そうですね、強いて言えば、彩、あなたと話してみたかったのだけれど、思ったよりも寡黙なのだね」
またも話しかけられる。
(寡黙……ねぇ)
寡黙、と言えば今はそうだろう。話すことなど、ありはしないのだ。世間話でもしろといいたいのだろうか、この男は。
「一体なにを話せば?」
「おや、ようやくまともな文章を喋ってくれたね。前回この部屋に招待して以来かな? あの時とは大分状況は違うけれど、気楽に話してくれたら嬉しい」
「気楽に何を?」
「世間話でも」
「世間話って……雅樹……」
彩が助けを求めた雅樹は、軽く溜息などをつきながらうつむいていた。
「……俺に振るな。今はどうしようもないし、世間話でも何でもすればいい」
言外に、イヤなら無視していろと聞えるのだが、それはなんとなくできない。
「せ、世間話って……!」
世間話をしろ。そういわれて、すぐに思いつくものなど何もなかった。
(……なにも……ない)
「彩、世間話とは言っても別に俗世間のことなどどうでもいいんだ。彩、私は君のことが知りたい」
「私のことって……」
雅樹が警告の眼差しを送ってきていた。
余計なことは喋る必要はない。
「わ、私のことって……」
なんなのだろう。
食べ物の好みを言えばいいのだろうか。趣味を言えばいいのだろうか。
自分のこと、考えてみれば少ないことのような気がしてしまう。
困惑する彩を見て、相輪はまた笑う。貼り付けたような笑みではなく――
「話したいことを話せばいい。それとも、ないのかな?」
楽しそうに。
彩をいじる。
(気味が悪い……)
雅樹が顔を上げていた。
「……………………」
彩は黙っていた。
「私は、君の事を聞きたいのだけれどね。そう例えば――」
相輪はここでわざわざ溜めた。
彩は黙って、ただ聞くしかなかった。黙って、隣に座る雅樹の膝を見ていた。
雅樹は相輪の顔をじっと見ている。
相輪は雅樹の視線を無視して、彩を見ている。
「――史上稀に見るであろう、その生い立ちについて、とかね」
「あんたは……」
雅樹が言葉を発する。
相輪はそれが意外なことであるかのように、驚いた表情をして見せた。
「彩(AYA)を知っているのか?」
相輪は嬉しそうに笑う。
「ええもちろん……あなたの母親のことも、ね」




