2・インベイダー◇ディナー
満たされた人間はどうなってしまうのだろうか。
欲しいものは何でも手に入り、望んだままになる世界に住んでいる人間は、どうなってしまうのだろうか。
そう、絶望するのだ。
(そーだっけ……?)
違う。
人は、本来満たされない生き物だ。
絶望は、文字の通り、望み、希望を断たれたことを指す。
望みのままにならないことに、人は絶望する。
望むままの世界に住む人間は、望みが生まれるそのたびに望むままになる。
果てしなく貪欲になるのだろう。
希望とは、一種の欲と言えるのではないだろうか。
そこに絶望は存在しない。
果てなく広がる欲の世界である。
そこに、満たされた世界は存在しない。
満たされること無く、希望も絶えることなく、ただ絶望だけが存在しない。
希望しかない世界である。絶望が、無い。
故に絶望の相対として希望の持つ意味は、失われる。
「……むぅ。やっぱ絶望的かなぁ。あり? どっちも感じられないんだから……むぅ、絶望的なのかなぁ。わけわかんないや」
(って、また独り言じゃんかっ!)
まぁ、他に誰もいないのだから別に問題はなかろう。
無駄にだだっ広い廊下である。
彩以外誰もいない。
おかげで妙な独り言は聞かれずに済んだし、恥ずかしさでリンゴのように赤くなった顔も見られずに済んだ。
有吉コンツェルン総本社、アルバイト中。清掃服を着て掃除をする=掃除のオバチャン。
「オバチャンってゆーな! 独り言うにゃあ!」
また独り言だった。
独り言オンパレード。
そこら辺の空間に発した独り言がぷかぷか漂っている。こう、夏に部屋に無断で入ってきてぶんぶん唸っているハエみたいに。
(あーうっとーしい)
なにやら道具がごちゃごちゃ入っている荷車を押しながら、清潔で、カーペットの床、一面窓張り、白い壁、無駄に広い廊下を歩く。
目的は潜入だったはずだが、進展がない今、彩にとっては良い小遣い稼ぎになっていた。
自給千円。八時間働くと八千円。
その内三時間は、ぼーっとしている。もちろん気付かれないようにだが。
(よーするに、単にアルバイトしてるだけじゃなーんにも分かんないって事なんだよねぇ)
当たり前である。
掃除のオバチャンの噂話などたかが知れている。そう都合よく会社の裏情報など手に入るはずもない。
社長の不倫相手がどうだとか。
(美人秘書らしーわよ。……どーだっていーじゃんか)
彩は性格的に、どろどろした話は嫌いだった。
美人秘書が不倫相手。
ドラマ的にはよくある話だが、調べたところによると、何故か伏せられてはいるが、実はこの会社の若社長の妻というのはその美人秘書なのだった。社長室でいちゃつこうが痴話喧嘩しようが不倫でもなんでもない。
噂好きなオバチャン達には知る由もないことなのかもしれなかったが。
「ああ、そこのオバちゃん」
唐突に背後から声が聞えた。
見やると、近くの扉から、眼鏡をかけた社員らしき男が顔を出している。
「オバ……はい。なんでしゃう。しゃう。しょう」
二度も噛んでしまった。
(しゃうってなんだろ)
「いや、まぁどーだっていいんだけ――。なんでもないですなんでしょう」
独り言出た。
「……じゃあ、このどーだっていいゴミ、頼むよ」
思い切り訝しげな眼で見られてしまった。
男は、満杯のゴミ袋を彩に向かって投げると、さっさと引っ込んでいってしまった。
ゴミ袋は、放物線を描いて彩の顔を直撃。
「……………………」
別に痛くはなかったが。
(ちょっと傷ついたぜ、マイ・ハート……)
ゴミ袋を荷車に放り込んで、再び歩く。
しばらくすると、まただだっ広いエントランスに出る。
出入り口に警備員、受付に受付嬢が、暇そうに突っ立っている。
表情には出していないつもりなのだろうが、見ていればよく分かる。何もすることがないのだから暇でないわけもない。
(お疲れさん〜)
心の中だけで挨拶をしておく。
不思議なもので、人間は何もしなくても疲れる。
暇というのは、案外精神力を使うものなのである。
人間とは、常に働く生き物だからなのだろうか。
基本的に、動いていないと気がすまない。
(ああ、だから休暇には予定を入れるのかなぁ……いや、違うかな)
やりたいことをやりたいという欲求は、やりたいのだからある。
(やりたいことはやりたいからやりたいこと……ごっちゃごちゃ)
仕事をする者が、久々の休暇に立てる予定は、他にやらなければならない事がない限り、その者にとって楽しい予定だろう。
仕事で溜まったストレスや鬱憤を発散して、そして休暇後にはまたストレスと鬱憤を溜めに職場へと赴く。
ストレスと鬱憤を発散するのは、楽しい。だが、ストレスと鬱憤がなければ、発散するものそのものがない。
(あー。要するに楽しみのために仕事があるってことなんだろーなぁ)
さぁ皆さん、ストレスと鬱憤をバンバン溜めましょう。
(いや、違うかな)
さぁ皆さん、今日も頑張ってストレスと鬱憤を溜めましょう。
(ふぁいといっぱつ)
タウリンがどれほど配合されていようが、ストレスと鬱憤は解消されない。
休暇には何がどれくらい配合されているのだろう。
「……なんでもいーや」
憂鬱だった。
なんていうか、つまらない。
独り言を聞いてくれる人もいない。いや、まぁ、独り言だからなのだが。
ちなみに独り言を聞いてくれる相方雅樹は、警備のアルバイトをしているらしい。
こんな大企業が、どこの馬の骨とも分からない者を警備として雇うこともないのだろうが、雅樹にはコネがあるらしかった。
この世の中において、コネクション、通称コネというものは結構な影響力を持つ。
コネがあれば、多少成績が足りなくても私立高校にも受かってしまうこともあるし、コネのある会社には就職もしやすい。
コネの、コネによる、コネのための、なんとか。
「こねっがこねこねこねざんまい〜」
「ひまそうだね」
「ほあっちゃあっ!?」
後ろから唐突に掛けられた声に、心臓が跳ね上がった。
完全に気を抜いていた。
意味不明な歌を聞かれてしまった。
ゆっくりと後ろを向くと、三十代くらいのスーツの人のよさそうな男が立っていた。
この会社の社員だろう。
「いえいえいえ、ひまなんかじゃないっすよ!」
慌てて否定したが、しかし男は、
「構わないよ。この会社において君のやっている仕事は、やることを終えてしまえば間違いなく暇だ。それでも仕事として成立しているのだから性質が悪い。いや君が悪いわけじゃないけどね」
貼り付けたような笑みだった。
「はぁ……」
「君は髪がきれいだ」
「……そうですか。ありがとうございます」
前に散髪してから五日経っている。既に二十五センチ伸びていて、彩は軽く後ろで束ねていた。
「漆黒のつややかな髪だね」
気味が悪い男だった。
このままでは調子が飲み込まれてしまいそうなので、こちらから切り出す。
「あの、何かご用でしょうか」
「社長が話があるといっております。一緒に来てもらえますか」
社長室は、どの会社においても最上階に位置するらしかった。
偏見かもしれないが、少なくともこの会社はそうだった。
何故最上階なのだろうか。
(地位を誇示するためかなぁ。良く言えば上下関係をはっきりさせるためか)
まぁ、彩にとってはどっちでもいい話であるが。
男に案内されて社長室に来たものの、その目的は一切教えてもらえなかった。
窓を背にして、高級そうなデスク、両サイドに高級そうな本棚、中央に高級そうなテーブルと、それを囲む高級そうなソファ。高級尽くし。
彩はソファに座らされて、そして噂の若社長が目の前の椅子に座っている。
「あの。なにか?」
若社長はにこりと笑う。
「頑張っているそうだね」
「……………………」
反応に困る。
ついさっき暇そうだといわれたばかりである。
「何で呼ばれたのか、分かるかな?」
分からなくもない、と言ったところか。
潜入がばれたか、彩(AYA)という人物を知っているからか、もしくはその両方か。
まぁ、そうではなくて、ただ単に彩という女性に対しての下心あってというセンも考えられなくはないが、まずそれはないだろう。
だからここでの彩の反応としてもっとも適切なのは、
「……なんで呼んだんですか?」
「君が魅力的だからだよ」
ずっこけた。もちろん心の中だけで。
変わらぬ笑顔のまま、若社長は彩を見ている。
「…………はぁ?!」
「お茶、どうぞ」
いつの間に控えていたのか、若社長婦人、美人秘書が音もなくお茶をテーブルに置いた。
「と言うのは冗談だよ。私には愛しの妻がいる」
若社長は彩から目を放さない。
彩は、出されたお茶から目を放さない。
引っかかってはならない。
ここで秘書を見てはならない。
一介のアルバイトが、秘書が若社長の妻だということを知っているはずがないからだ。
「はぁ、そうですか……」
「なかなかやるね」
「な、何がですか?」
「君はこの会社に潜入してきたのだろう? 違うかい?」
「な、なんですと?!」
いきなりの直球だった。
素のリアクションが出てしまった。
それでいてなお、若社長は微笑んでいる。
「分かっているよ。君の職業は、いわゆるなんでも屋。依頼を受ければ何でもやる。……情報なんてのは、案外簡単に漏れるものなんだよ。分かるだろう?」
つまりもう完全にばれていると。
ならば悪あがきはすまい。
「分かりますけど……で、私にどーしろと」
「案外あっさり認めたね」
「悪あがきはみっともないですからねぇ」
「なるほど」
若社長は可笑しそうに笑った。
「潜入した人の情報、全員知りたい」
「知らんのかい」
情報は簡単に漏れるとか言っておきながら。
「知らんのだよ。詳しい人数はね。なんでも屋のリストに、君と他数人が載っていたのを、偶然見つけただけだからね」
「んなリストがあるんですか」
「私が独自のルートで仕入れた情報だよ。それをリスト化しただけだ」
なんでも屋に抜かりがあったという事である。
(なんてこったい、ってわけだ)
「さて本題に戻ろう。どうする? 教えてくれるかい?」
「見返りは?」
にやりと笑って訊き返してやる。
普通は、教えないと言ったら? とでも訊くのだろうが、しかし見返り次第でどうにでもなる相手だと思わせておいたほうがいいだろう。
幸いなことに、彩の見かけは気まぐれ女子高生なお年頃である。
相手もそれを狙っていたのだろうが。
「三万円、でどうだい?」
「……。私って結構安く見られてるのかなぁ……」
馬鹿にしている。
若社長は大笑いだった。
「さすがにそうだろうね。じゃあ、百五十万でどうだい?」
一気に超高価格。とは言え大企業の社長にとってははした金だろう。が、女子高生くらいの少女にとってこれは大金である。これ以上を要求するのも不自然かも知れない。
「ひゃくごじゅうまんて……」
「どうだい? 十分すぎるだろう?」
「じゅーぶんですっ」
大喜びしてみせる。
若社長は満足そうに笑った。
「交渉成立だね。小切手でいいね」
懐から小切手を取り出して、テーブルに置く。
計算、準備済みだったわけだ。
「どうぞ、これは君のものだ」
手にとって、丁寧に書き込まれた金額を見る。
百五十万、確かに。
「さて、君の番だ。情報を売ってくれないか」
「うぃ〜っす!」
百五十万の臨時収入ゲット。ほくほく。
「……それで百五十万を手に入れたのか」
「うん」
「そしてシャネルとかヴィトンとかエルメスとかその他もろもろ」
「うんっ」
「……よかったな」
「わぁいっ」
事務所のテーブルにずらりと置かれたブランド物のバッグ等、それらを見て、雅樹は溜息をついた。
換金された百五十万を見ていると、使い果たしてしまいたくなった彩だった。
仕事の後、小切手握りしめ銀行へ直行後、買いあさり。
事務所へ帰り着いたときはもう夜九時を過ぎていた
「まぁ、確かに手に入れたのはお前だし、間違いなくお前の金だが。お前の金はお前が使えばいいんだが……。使いきれるお前はある意味純粋にすごいと思うが……。いや、重要なのはそこじゃない」
ソファに座って、はしゃぎながらブランドバッグ類に夢中で魅入っている彩には、雅樹の呟きなど聞こえていない。
「……こら。話は終わってねぇ」
「そだっけ。そだったね。どこまで話したっけ」
名残惜しいながら手に取ったシャネルのバッグから視線を放して、テーブルの横に立っている雅樹を見る。
そこで初めて、雅樹が呆れたような顔をしていることに気付いた。
「あー。うー」
(女の子の夢だもん。たぶん……?)
正確には彩個人の私欲である。
それはともかく、話は途中である。
小切手を手に入れた経緯までは話した。
「えーと。あの人、なんでも屋のリストとか持ってるらしいし、ぼろが出るのもなんだから、ある程度は正確な人名と情報を言っておいた」
「まぁ、懸命だろうな」
リストを持っていて、ある程度情報を知っている相手に出鱈目を言うわけにはいかなかった。彩は相手がどれ程の情報を持っているのかを知らない。下手をすれば、すぐに出鱈目だということがばれてしまう。
ちなみに、潜入している人数は十人である。
「そうなるとアレだな。潜入を続けるのはまずいか。……いや、お前が情報を渡した直後に撤退したとなると……」
彩が潜入の情報を売ったことを、彩自身が身内(なんでも屋)に知らせたと勘付くだろう。
買収して裏切らせたつもりが、実はほとんど裏切っていないということを、である。
買収されたことは裏切り行為、隠さないことは味方の行為。
「裏切りの裏切り。変なの。まぁ、秘密にしておけとか言われなかったしねぇ。あの人たち、私が金額次第でどうにでもなると思ってるよ。だから連中に私が味方だと思わせて、情報を引き出すって言う手も」
「そりゃだめだ」
「どして?」
「お前は金額次第でどうにでもなるという事になってるんだろ。逆に言えば俺がお前を買収することもできるということだ。そんなのに極秘情報なんて漏らさないさ。それに、情報は大体手に入れたよ。あとは間合いを見計らって、撤退だ」
「あ、そぅ。いつの間にねぇ」
「仕事は早いほうが良い。まぁ、若社長とやらも、潜入した人間に対して今すぐ何かするということもないだろ。間合いを見計らって、だ。間合い読み合戦だな」
「まーいよみがっせん。まいよみがっせん。マイアミ合戦〜」
マイアミで合戦。なんのこっちゃ。
「そんで、どんな情報手に入れたの?」
「革新会に投資していた証拠だな」
「革新会? 世界制服を目指す会じゃなくて?」
「変えたらしいぞ。あのネーミングじゃな」
「革新会もどうかと思うんだけど」
「ちったぁマシだろ」
「で、どう? その革新会とかを根絶できそう?」
「まだまだ無理だろ。有吉コンツェルンはあくまでも隠れ蓑の一つだ。ほかにもわんさとある」
「めんどっちーなぁ。もう」
とは言え、ここのところの何でも屋の収入源が世界制服を目指す会、改め革新会の摘発である。面倒くさいのは確かなのだが、そのおかげで助かってもいる。
「おかげで儲かってるんだよねぇ……。世の中金なんだよねぇ」
「そう、金だ」
生臭い会話だった。
金があれば、何でもできる。
欲しいものは何でも手に入るし、人も動かせる。
(そう、タイムマシンで間違った過去に戻ってやり直せるし、UFOに乗って銀河を旅することもできる!)
「わはははは! 世の中金じゃ金じゃぁああ〜……。虚しいねぇ。できるものならやってみろぃ……あ、独り言……」
「独り言で独り言って言う奴はじめて見たぞ」
「うるすわぁいっ! うりゅしゃいっ!」
「やかましい」
「うるさいっ」
「どやかましい」
「どやかましくないっ」
「……………………」
「……………………」
「髪、長くなったな。切るか?」
「まだいー」
(まだいい。まだい。真鯛。……寒。……寒ぅっ!)
一人で極寒だった。
「飯、食いに行こうか」
「うん」
◇
欲は身を滅ぼすと言う。
その通りだろう。
ただし、過度の欲が、である。
例えば過度の金銭欲は人を貶めることが大半であり、過度の支配欲は人を遠ざける。
だからその面では無欲なのは悪いことではないのだろう。
とはいえ。
人間、だけでなく、大部分の生物が持つのであろう三大欲求は、言わずと知れ、食欲、性欲、睡眠欲。
言ってしまえば、生きて種を保存するための欲である。
これらの欲が一つでも欠けてしまうと、種はそのうち滅びてしまう。
この三つの欲に関しては、無欲ではいられない。
こと人間は、睡眠に関しては大抵常に確保されている。だがその他二つの欲は、不平等、……と言うべきかどうかは判断しかねるが、常に確保されているわけではない。
だからなのか。
食欲、食べ物の恨みは恐ろしいと言うし、性欲、男女三角関係はドロドロ、一人を巡る二人の争いは、熾烈かつ卑劣を極めていたりする。
過度の欲は恐ろしい。しかしある程度満たされないと、過度になりやすくもなるのかもしれない。
だから単純でなくてなかなか複雑、簡単には満たせない恋愛模様はやたらともどかしい。
(だからわたしは単純明快な食欲大好き! ……成長期なのかなぁ。……あれ。そしたらわたしの思春期の甘酸っぱい恋愛はどこ!?)
「わたしのししゅんきとせいちょうきは……?」
思春期とはつまり成長期。成長期には思春期。大人の階段のぼる。
「おでん食いながら一喜一憂する奴も珍しいな」
彩の横で雅樹がぼそりと言う。
ディナーは屋台のおでん屋で。
事務所傍にある小さな広場で、如何にも厳つい親父さんが屋台のおでん屋を開いていた。毎週同じ所、同じ時間帯に、彩と雅樹はおでんを食べる。
「ふぇ……。ふぇえええ〜っ」
「親父さん油揚げ追加」
「…………はいよ」
「ふぇ、ふぇ……ふへ……」
くしゃみが出そうで出ない。
かわりに鼻水がでる。
「ふぇっ、……ふぇえええ」
「ちくわ」
「…………はいよ」
「ふぇ……ふぇっ……ふぇっくしっ!」
「はいおつかれさん」
「おれんひえひゃっら(おでんひえちゃった)!」
鼻水鼻づまりで呂律が回らない。
親父さんがぎろりと彩を睨む。
「早く食わねぇからだ」
「そんなこと言ったって! うぅぅ〜」
自分の皿にあったがんもどきを咥えたが、案の定生ぬるい。
が、食べる。
「わらひの……せいひゅん……」
「まだ言うかよ」
「らってさ! 青春……せいひゅん!」
一度きりの青春は謳歌せねばなるまい。そうなると彩の場合、約十五年は無駄に過ごしたことになる。が、まぁ。
「まぁ、いいか」
「軽いな」
「これかららもんっ」
ポジティヴシンキング。前向きに考えよう。
あさっての方向、夜空を見て、力強く拳を握り締めてみる。
(鼻水でうまくしゃべらんないけど!)
じるじると鼻水をすする。
常々不安に想っていた、どこまで女として作られているのか。それはついこの前発覚していた。十六歳の体が起動して一年と約半年にしてようやく、である。
「私らって女の子らもん」
「分かってる。鼻をかめ。ひょっとして風邪引いたか?」
「かもひれない」
不快な風邪の諸症状。
クシャミ鼻水どん詰まり。
(……じゃない、鼻づまり)
ポケットティッシュを千切って丸めて鼻につめる。
「ぶぇっくしっ! ふぇっ……くじゅ! ぐしっ!」
「……何やってんだよ」
「ふぇえええええ……とまんら、いっくしっ!」
クシャミがとまらない。おでんが食べられない。
冷え切ったおでんを恨めしく睨みつけていると、突然、横から雅樹がそれを取り上げた。
「食わないなら貰うぞ」
と瞬く間に、コンニャクはんぺんちくわぶ大根をたいらげてしまった。
「わ、わらひのおれんっ!」
「おら雅樹。風邪っ引き連れてくるんじゃねぇ。勿体ねぇだろうが」
「わるいな。まさかこいつが風邪引くとは思わなかった。ほら、言うだろ――」
「られが馬鹿よ!」
「まだ言ってない」
そう言いながら雅樹は、自分の箸で自分の皿に残っていたコンニャクを丸々持ち上げた。
「口開けろ」
「ほぇ?」
「くち」
「あー……あぼっ!?」
彩が口を開けた瞬間、でっかいコンニャクが口に突入してきた。
「それならまだ温かいだろ」
それどころではない。口いっぱい熱々だった。
(あ、あっちぃ!)
「ん、んむぅっ!」
「あ、熱かったか」
「んふいっ!」
「吐いたらもったいないぞ」
「んふーっ!」
「親父さん、水だと」
「よく言ってることが分かるな。……ほらよ」
出された水はコンニャクが邪魔して口に入らない。
「ん、んぎゅんぐっんぐ! んがぁああっ!」
奇妙な音と共に飲み込んだ。
「こ、殺す気……?」
「生還おめでとう」
「鬼ぃ!」
「死にはしないさ」
事務所は、繁華街近くにあり、おでん屋が展開される小さなその広場は繁華街から駅へ繋がる大通り途中にあり、毎夜連なる出店のためのものである。
昼には昼の活気があり、夜になればネオン輝く夜の活気がある。
例えば、一夜に夢を見る競争社会に疲れたサラリーマンとか、当てもなく夜をさまよう若者とか。目的や理由としては人それぞれではあるが、しかしそれでいても集まってしまうのが人間の習性と言うのか何と言うのか。
なんであれ、集まるということは、出会うということと間接的とはいえ同義なのかもしれない。特に、偶然に出会うこと。そしてその人物が顔見知りであるなど。
「たいしょーっ!」
やたら元気のいい声と共に、屋台のおでん屋の暖簾が跳ね上がった。
「やかましい」
大将、つまりおでんの親父さんが、慣れたやりとりで短い返事を返す。常連、なのだろう。
二十歳を過ぎたばかりだろうと思われる青年が、顔も赤く、上機嫌に酔っ払った様子で、雅樹の隣に腰掛けた。
端に座っていて良かったと、つくづく思う彩だった。酔っ払いは苦手である。
「……どうする?」
不意に、雅樹が訊いてくる。
「え? なにが?」
雅樹は黙って、目だけで隣の青年を示した。
「……あ」
大学生、青木研究員教え子、宇都木。
苦手な酔っ払いが苦手な人物。
「……だぶる苦手」
酔っ払っている宇都木はこちらにはまるで気付いていない。気付く気配もない。
上機嫌な様子で、親父さんにあれこれ注文している。
気付いていないのなら、絡まれる前に帰るのが得策だろう。
だが。
「……まだここにいる」
「そうか」
何となく、である。
雅樹は何の疑問も返さずに、彩の言葉を聞き入れた。
「たいしょー! ここにゃなんでラーメンがメニューにないんれすか!」
「ここはおでん屋だ」
「しょーゆうこと言って、るからグローバルなインターナショナル、な国際化に付いていけないんれすよ!」
グローバルなインターナショナルな国際化。訳・世界的な国際的な国際化。
(……わけわかんない)
句読点の位置もおかしい。
宇都木本人としては、時代についていけないのだと言いたいのだろうが。たぶん。
「お前の言っていることはわからん」
「いいれすか! これからの時代は、細かいことにかまってられん、のれすよ! おでんやにラーメンがあったっていいじゃないれすか! ついでに牛丼もあったらしゃいこうじゃないれすか! ここはおでん屋らなんて、しゃしゃいな問題、れす!」
「それじゃおでん屋じゃないな」
「そーなんれす! ここはおでん屋なんれす! そこんとこ誇、りに思っておでん一筋でやっていこー! という目標を掲げつつ、明日へ向かってゴーなんれす! だからラーメンくだしゃい!」
「ない」
「ないとはらにろろれるれらあら……ららら?」
矛盾だらけ突っ込みどころ満載の力説。言っている本人だって何を言っているのか分かっていないだろうし、言ったそばから忘れている。
が、言っていることはめちゃくちゃでも、それがいっそのこと清々しい。
「たいしょー。ビィール! 喉越しサッパリ生ビール!」
「もう飲むな」
「なんれぇ! ケチ! ぱーっといきましょーよ! ね! おにーさんもさ! 言ってやってよ!」
唐突に、宇都木は雅樹に振った。
「もう飲むな」
「おにーさんまで!」
ごく自然に流したせいか、やっぱり宇都木は気付かない。
「人間、アルコールの摂取は絶妙に大事なんれすよぉ! なんれす! なんれすぅ! ……なんれす」
絶妙らしかった。
一喜一憂、五秒後宇都木は落ち込んでいる。
「らいたいれすね、たいしょー……わけわかんらいんれすよ……人間って何らんれしょうね……。何をもってして人間、は人間たらしくめるですのですか」
突然小難しい話になった。日本語は変だが。
「俺には哲学はわからん」
「哲学とかそんな問題ではないれす。この前からうるせー教授、がなんか言ってくるれすよ。ぼくにはあの人が人間っていうには何か……何れすかね。なんか、うー。間違いなく人間何れすけど……」
「あの人って誰だ」
珍しく、親父さんが訊いた。興味を引かれたのだろうか。
あの人。多分。
「あの人って言うのはれすね。何れすかね、バイオテクとインフォテクの頂点みたいな人なんです。一見滅茶苦茶可愛い、人なんですけどね」
「……そうか」
意味が分からなかったのだろう。親父さんは曖昧に返事をしただけだった。
……しかし、それは一般人に軽々と話していいことではない。酔っ払っているせいなのか、それとも無意識にストッパーをかけているのか、ともかく、知らない人が聞いてもほとんど意味が分からない話になっているのは救いだった。
「教授、がうるさいんれすよ……。人なのだーっ! て。そーなんれしょーよ! 人なんかもしれませんけど。でも変なんれすよ。なんか。人なんれしょーよ! わかって、ますよ!」
「……そうか。分かっているんだな」
青年が思い悩んでいることは分かったのか、親父さんは聞き役に徹するつもりになったらしい。
無愛想な親父さんだが、しかしなかなか人の気持ち、空気を読める。人情家。
宇都木は、その『あの人』がすぐ傍にいることにまったく気付かないで話し続ける。
「そーれす。わかってるんれす。なのに最先端の結集じゃないれすか! 無茶なんれすよ。ぼくはそこに携わ、る学生なんれすよ!? そーいう目線で見たいと思うじゃないれすかっ! れも人だ人だーなんれ、言われたらなんか変じゃないれすか」
「変かもな」
「人だなんれ、人。人なんら、って思うとれすね、なんでか人じゃないっ、て言う気持ちがこう、むわむわとどっかーんなんれすよ」
「どっかーんか」
「そう、どっかーんれす!」
人を人と意識して見て接すると、奇妙な感覚が沸き起こるものである。それはそうなのかもしれない。普段、そんなことなど意識しないのだから。
先入観という奴だろうか。あらかじめその物に対する情報が頭に入ってしまうと、その情報を土台にその物を見るようになる。
そしてその後得た情報をプラスしていく。しかし、形の無い情報は意識すればするほど、その真実味は薄れてしまう。薄れた情報の代わりにはっきり見えてくるものは、意識することがなくなったはずの土台なのであり。
宇都木が彩について最初に得た情報が、『最先端技術で作られた』で、後に意識しだしたのが『人である』。
土台と、その上に設置される柱の相性が悪く感じてしまう、というべきか。どこか矛盾を感じてしまうことは否めない。しかし、見る方向によっては、大した問題もないはず。
「なんてゆーわけの分か、らん気持ちがごちゃごちゃなんれすけど。れもねー。案外些細な問題なの、かも知れらいんれすよね……」
「些細な問題か」
「昔からね。ぼくは思い込みが激しーなんていわれるんれすけど、それのせいかもしれないんれすよねぇ。……ぼくの親父のこと話しましたっけ」
「義理の親父か」
「そーれす。最近おもうんれすよ……。ぼくがあの親父、と折り合いが悪いのも、あの親父が悪い、って思い込んでるぼくのせいなのかなぁって……前の親父とは友達親子、みたいな関係でしたからね」
随分落ち着いた話し方になっていた。
酔いが醒めつつあるということか。
しかし、こういう身の上話には惹かれるものがある。特に、親、肉親が存在しない彩にとっては。
雅樹は、黙って彩の気が済むのを待っているようだった。
「……仲良かったんですよ。いい親父らって思ってたんですよ。だからこの親父以外はぼくの親父じゃないとか考えてて……実際そうれすけど。そのせいで今の親父は親父じゃないけど、なんかこの親父は悪いとか決め付けちゃってるみたいで……」
「面倒だな」
「面倒れすよ! クソ面倒れす! ごちゃごちゃなんれす」
「何でもいいが冷える前に食え」
「え? なにを?」
「何しにここに来た」
「そりゃ、おでんを……おでん! 冷えちゃったじゃないですか! 何で早く言ってくれなかったんですか」
「酔っ払いに食わせたくないからだ」
「よっぱ……、ぼくそんなに酔っ払ってないれす!」
(……説得力ないじゃん)
酔っ払っているほどその自覚がないものなのだという。
しかし夜間に開くおでん屋は、酔った客を相手するものではなかったのだろうか。
「あるていど醒めたようなら構わん」
宇都木は不満げな顔をしながら皿にとったおでんを平らげた。
「たいしょー! なんかいろいろお願い!」
「……お前の注文は難しい」
「お客の注文に答えるのがたいしょーの仕事れす! サービス業はみんなそうです! 前の親父も言ってました! ……今の親父も言ってるみたいですけど」
サービス業に勤める人なら大体がそう言うだろう。
宇都木が続けてくどくど始めると思われた直後、
「……はいよ」
おでんの山が宇都木の間に突き出されていた。
「……………………」
積み木のように器用に載せられたいろいろなおでん。文字通り山、一人で片付けられるような量ではない。
「……たいしょー」
「なんだ」
「加減って言葉知ってますか」
「知ってる。だから崩れ落ちないようにした」
「そーいう加減じゃないんれすよぉ……」
「やっぱりお前の注文は難しい。簡単にしろ」
「……尋問の多い料理店って話聞いたことありますか?」
「それを言うなら弔問だ」
(違う……)
正しくは注文の多い料理店。宮沢賢治著。
何故肝心なところを間違えるのだろうか。
「なんでもいいです……店側が客に注文してどうするんですか! あ、そうか注文か」
「注文じゃない要求だ」
「同じようなもんです! どうしろっていうんですかこんなに食べれません!」
「三人で食えばいい」
「三人?」
残り二人。
宇都木は、初めて隣に座る二人を見る。
あまりといえばあまりに唐突過ぎた。
不思議なほどまったく気付かなかった二人の存在に、宇都木が気づく。
固まった。
「……………………」
「……………………」
「……………………」
雅樹は何の反応もせず焼酎を注ぎ足して飲み、彩は油揚げを口から垂らしたまま固まっていた。
予想外。いや、予想しておくべきことではあったのだろうが。
雅樹は予想していたらしいが。
(……なんか気まずい?)
とりあえず口からぶら下げた油揚げを飲み込んだ。
「おひさっ」
(……久しぶりではない気がするけど)
とりあえず挨拶してみた。
「……ども」
とりあえず返された。
「……………………」
「……………………」
とりあえず黙った。
「なんだお前ら、知り合いか」
「えー。ちょっと人見知りでして……」
「……顔見知りだよねぇ」
「え、あ、うん、そう。顔見知りです、けど……なんでここに」
「ご飯食べに来たんだけど……」
「……そりゃそうですよね……」
彩と宇都木の、なんだか不思議な会話を聞きつつ、雅樹は一言も喋ることはなかった。




