黒い眼の妖怪は
何時迫り来るかも分からない黒谷ヤマメや星熊勇儀に気を取られてか、古明地姉妹に意識を逸らされてか、将又別の理由でか。それに気が付いたのは橙だけだった。
何か大きなものが動いた。
その感覚は大凡、地震が起きる直前の動物の異常行動にも似た第六感的直感。隣を走る水橋パルスィの悍ましさとはまた異質で、より大きな何か。
その感覚をしかし、橙は口にしなかった。その代りに一言。
「あとどれくらいですか?」
魂魄妖夢だけを残して部屋を後にした水橋パルスィは近くの扉や窓の外には目もくれずに坦々と歩き始めていた。酷く虚ろな眼をして、それでもなおニタニタと笑顔を溢しながら逃げ惑う子供を追い詰めようとする宛ら山姥の様な気味の悪さを淀み無く零しながら。
「私の眼にはね、生きとし生けるモノの暗い感情の全てが……、そうね、ヒカリゴケの様に映るの。ぼんやりとした緑色の光の様なものが、そのモノの心に影が差す程くっきりと映るの。ま、それも今位に力が増している時だけなんだけどね」
何歩も後ろを歩きながら話を聞く内に橙は一つの可笑しな点に気が付いた。追い付く直前まで、少なくとも部屋に居る間橙は彼女の寒気に慣れていたのだ。それが今になって改めて恐れを感じていた。
「それにしても酷いわね、これ。息なのか妖気なのか分からないけど、こんなにも濃い瘴気を見るのも随分と久しいわ。ま、お蔭で居場所は丸分かりなんだけどね」
水橋パルスィは部屋を出た時点で妖力を十分に溜めていて、古明地姉妹の逃走の痕跡を見て更に力が増したのだ。単純な積怨と姉妹愛に対する羨望と、その他諸々の感情が入り混じり。 何かを引き摺る様に、重い足取りで水橋パルスィは歩いた。その表情が橙には自嘲にも似た寂しさが紛れている様に見えていた。
「距離までは分からないわよ。……でもまあ、確実に近付いてはいるわね。皮肉な話、太陽と同じくらい眩しいのよ」
一階のロビーに下り、階段の裏に有る扉から地下へと更に下りて行く。そこから先は古明地姉妹のみが知る深層。電球が疎らに照らす底の底。真直ぐ伸びる岩を削っただけの階段と、人二人が横並びには歩けない程度の幅の壁と。
コツコツと靴音を反響させながら二人は目先の状況に注意を向けつつ下りて行く。
「式神お願いしても良いかしら? 一番良いのを、ありったけ」
水橋パルスィが反響しない程小さな声でそう言った。歩みはしかし止めず、足音も消さず、妖気も未だ膨れ上がらせて。
橙は頷くと袖の中からお札を全て掴み出し、水橋パルスィの進む先に全て放った。
「鬼門金神」
八基の鳥居が通路一杯に建ち並び、それぞれから鬼面をした甲冑が現れる。鳥居は甲冑を生み出した後に消え、二人の前には通路一杯に体を広げた八体の甲冑が一列に並んでいた。
「これ、見た目は頼もしいんだけど実際どうなの?」
「ヤマメさんと勇儀さんが強すぎたんですよ。この式神たちは実際には岩をも砕く藍様の拳骨を受けてビクともしないんですから」
「それは何より」
橙の後ろにはいつの間にか魂魄妖夢の半霊が追い付いていた。気配が無い訳でなく、二人も一瞥だけした後は特に意識していない様だった。半霊も半霊で二人の会話には何のリアクションも取らないまま甲冑の歩くその更に先を見据え。
長い階段が終わりを告げ、大きな広間が二・五人と八体を迎え入れる。壁際に幾つものベッドが並んだ、息も白む程に冷えたダンスホール。シャンデリアが煌々と燈る元には幾つもの少女の死体が無造作に寝かされて。赤い絨毯が敷き詰められた床には赤黒い血痕が疎らに、斑に滲んでいる。そのシンとした部屋の入口に八体の甲冑が壁になる様に横並びに立ち並んだ。
「居る……! 空も真っ青なくらいに大きな恨み辛みが二つ。さとりとこいしかしらね」
水橋パルスィは敢えて大きな声でそう言った。地下ダンスホールに谺しそうな程に大きな声で。
その返事も誰も予期しない程大きな声で悠長に返ってきた。声の主は古明地こいしだ。
「ちょっとそこ退いてくれるー? って、こいつら心無いのかー」
誰も知らない、古明地こいし。口調が全くの別人。酷く演技臭く。半霊以外は‘その’古明地こいしを知らないのだから。
「それじゃあ、時間稼ぎして上げるよ!」
その一言に一同は身構えた。心が読まれた。その先に有るのは同士討ちか自殺。或いは無意識に何か作用しているのかもしれない。そういった疑心暗鬼と自己防衛。
「古明地さとりは今は動けないよ。そこここに転がってる死体に寄生すれば動けるだろうけど。腕を切られる痛みって尋常じゃないんだよねー。心を読む事は出来ても、それを伝える口も持たない状況だ。こいちしゃんはこいしちゃんで心の中に閉じ込めちゃった。今にも暴れ出しそうだったからね。僕の能力で、少し寝ててってね。それに足も怪我してるんだ。多分骨折! だから僕も実は上手く歩けないんだよねー。何より痛いし!」
古明地こいしが声を大にして演説する中、二・五人は襲撃の手筈を整え始めていた。水橋パルスィと橙はスペルカード片手に機を窺い、半霊は入口の最も近くに待機している甲冑の背中に貼り付いた。
「だからさー。時間稼ぎが出来れば良いんだ、僕。デイジーが目覚めるまで、さ」
そうして、橙がはっとして慌てた様子で小声でゴーサインを出した。
橙が感じていた畏れ。その対象がこのダンスホールのどこかに居るという確信と、それがデイジーという名なのだという直感。
入口を塞ぐ一体を残して、全ての甲冑がそれぞれのタイミングで古明地こいしに切り掛かる。古明地こいしはそれを、頭・首・心臓を狙う刃を寸での所で避けた。そして残った四振りに四肢を切り落とされ、体が宙を舞い、絨毯の上に転げ回った。それこそそこここに転がる死体と同じ体たらくに。人体へのダメージも第三の目に共有されるらしく、古明地こいしは無い手足をばたつかせて絶叫した。
拍子抜け。或いは棋士の目論見通り。
そんな風に水橋パルスィだけは感じていた。そうして尚も肥大化していく自らの妖力に呑まれ、一瞬判断が遅れる。
脈動。
半霊は甲冑の傍を離れ、橙の全身を覆った。橙もその正体不明の威圧感に身構えた。
博麗霊夢が、その容をした別人が目を覚ました。
少女は悪夢にうなされていたかの様に勢いよく体を起こし、そして戸惑った。
束の間。
今居る場所が何処なのか、何故自分は眠っていたのか。
そうして辺りを見回している内、或る悲劇を目の当たりにする。
親友が殺されそうになっている。
頭の中が真っ白になるのと同時に、少女は遍く空間の時間を止めていた。その空間の中で少女は古明地こいしの傍に駆け寄り彼女に群がる甲冑の全てを蹴り飛ばした。
そして時間が動き出す。手の施しようの無い少女の声を聞くために。
「や……あ……。ちょう……しは……、どう?」
水橋パルスィも橙も何が起きたのか理解が出来なかった。
不穏な脈動の直後、入口の前に立ち塞がっていた甲冑に他の甲冑がぶつかって倒れた。その轟音の向こう側には博麗霊夢の声が有って。
「そんな事より、古明地さんが! 何で……。何で……!」
博麗霊夢を中心に空気が脈動する。彼女の感情をそのまま伝えるかの様に。橋姫のそれを凌駕する感情の波として。
水橋パルスィはここまで来て漸く理解した。
ヤバい。
「まっ……て……、デイジー……。僕の、最期の……お願い……、聞い……て……?」
古明地こいしはにこりと笑ってそう言った。
「僕、この……黒い……目を……、食べて、くれない、か?」
古明地こいしは黒い第三の目に視線をやった。その目は必死に何かを訴えようとしている様にも見えた。
「でも! ……でも、やだよ。友達なのに……」
デイジーは当惑に表情を歪めた。声は震え、目の端には涙が滲んでいた。
「大丈夫。僕なら、デイジーの、心……を……、満たし……て……、あげ……られる……から……。おね……がい……。あいつらに、殺される……前に……。死ぬ……前……に……」
デイジーは震える両の手で黒い眼を掬い上げた。
「ごめん……。ごめん……なさい……」
涙を零しながら、そしてそれを一口に呑み込んだ。
目を瞑り。
一言呟く。
「……うそつき……」
空気が鎮まった。否。張り詰めた。
水橋パルスィは咄嗟に橙に撤退の命令を出した。元より、目標の覚妖怪はいなくなったのだから。
デイジーは瞼を開きながら時間を止めた。
彼女の左目の眼は黒に、瞳は紅に染まり。
遠くを見る様な目で、暫くの間茫然と天井を眺めていた。
「名前まで嘘だったんだ……。でも……、仕方なかったのかな。こんなにも辛い……。でも何だか、もうお腹も空いてないな……。心まで何だか、すっとする。……感傷に浸るのは後回しにしないと」
デイジーは立ち上がると、先ず古明地こいしの体を抱え上げて部屋の隅のベッドの上まで運んだ。
「悪意は有ったけど悪気は無かったの。もし目を覚ましたら、古屋さんを許して上げて下さい」
そんな事を独り呟き。部屋の入口へと足を向けた。全てが止まった世界で、下駄の音を響かせながら。
「そして、貴女たちは許さない。たとえ正しいのがそっちだとしても……」
入口に詰められた甲冑をの首元を掴んで部屋の反対側の壁まで投げ飛ばした。
そうして、デイジーが最初に対面したのは水橋パルスィではなく。
魂魄妖夢だった。
止まった時の中で彼女は確かに、迷い無く楼観剣を振り抜いたのだ。
デイジーは咄嗟に飛び退き、魂魄妖夢を睨み付けた。
「どういう事か説明してくれますか」
「半霊の気配を頼りに追って来ただけですよ。止まった時の中で動けるのは……そろそろ剣の修業を二百年積む事になるから、その前祝いってところですかね」
魂魄妖夢は得意気にそう話し。デイジーは怪訝そうに彼女を睨んだ。
「古屋さんの能力が効いていないようですが?」
「誰ですか、古屋さんって?」
「心を操る能力を持つ妖怪ですよ。貴女の標的の」
「ああ、あの覚妖怪の。何でですかね? もしかしたら、白楼剣のお蔭? っと……。とぼけるのもこれくらいにして、そろそろ片を付けますか。弾幕ごっこじゃないのは残念ですが。……。あなたはここで斬られておしまいです」
デイジーが瞬きをしたほんの僅かな間に魂魄妖夢は白楼剣に手を掛け、抜きながら標的との間合いを詰めた。
デイジーは咄嗟に陰陽玉を作り斬撃に備えた。僅かビー玉程の大きさのものしか作れない程に暇が無かったが、それで凌ぎ切るしかなかった。そう覚悟を決めていた。
しかし、寸での所で魂魄妖夢は動きを止めていた。紙一枚の隙を残し、その切先は止まっていた。
勢いデイジーは陰陽玉で白楼剣を弾きながら、その反動を利用して大きく飛び退いた。
反応が追い付いていなかった。不意を突かれたとはいえ。或いは時間を操る程度の能力に胡坐を掻いていたために。
デイジーは手元の陰陽玉を投げ捨て、両手の平に鞠程度の大きさの陰陽玉を一つずつ構えた。可能限界の半分も無い大きさだが、それでもそこで留めざるを得なかった。いつくるかも分からない魂魄妖夢の次の手に備えて。
しかし、
「動かない……?」
そうは言いつつも、デイジーはその場を動こうとしなかった。本能的な警戒がそうさせていた。
「もしかして頭の中も無心なんじゃなくて止まってる?」
デイジーは左手の陰陽玉を、魂魄妖夢を視界から外さない様な床すれすれの高さで魂魄妖夢に向けて放った。魂魄妖夢にそれを退ける素振りも避ける様子も無く。陰陽玉は彼女にぶつかって、跳ね返り、床に転げた。
確信。魂魄妖夢は動けない。
デイジーはもう一方の陰陽玉を体の前で構え、そして時間停止を解除した。
魂魄妖夢は白楼剣を振り抜きながらも、その体は部屋の入口の方向へと弾き飛ばされていた。どうやらとうとう右の肋骨が幾つか折れた様で、階段前の床に転げたきり横向きで蹲ってそれ以上動ける様子が無かった。
「仲間は二人とも、ここで起きてる事には気付いていないみたいですよ。心が見えずとも、足音だけで分かるでしょう?」
デイジーは陰陽玉を消し、何も持たないままに入口へと向かって歩き始めた。何も警戒するまでも無いのだからと。
ふと、階段の上の方から半霊が姿を現した。半霊は特に何をするという事もないまま、片割れに寄り添ってぐたりとした。
「死期、ですかね。古明地さんのお姉さんを傷付けた罰です。そこでそうしていて下さい」
そうして彼女が階段に足を掛けた時、見上げた先に立っていたのは八雲紫と髪の白い博麗霊夢だった。




