八雲の式
階段を駆け上がる二・五人の前に姿を現したのは、八雲紫と髪の白い博麗霊夢だった。
「八雲紫! それに榊ちゃん?」
「三人ともご苦労様。ここから先は私達に任せて安全な場所まで逃げてなさい。それと橙、貴女にはこれを」
八雲紫は袖の中から何の変哲も無い茶封筒を一つ取り出し橙に手渡した。そしてその手で橙の頭を撫でた。
何かを察したかの様に、半霊が橙から離れて階下へと下って行った。
「今この瞬間から、貴女に八雲姓を冠します。時間が無いから略式になってしまうけど。……。強く生きるのよ」
橙の足元にスキマが開かれ、その向こう側へと押し込まれ落ちていった。
「ちょっ。何してんのよ」
「これは藍と合意の事よ。私の居なくなった世界であの子に必要なのは成長だと。八雲の式として、妖怪として」
橙の声を漏らす事もなく、スキマは既に閉じていた。
八雲紫は水橋パルスィを壁際に退かせ、ゆっくりと階段を下りて行く。その少し後ろを博麗榊が慎とした様子で付いて歩いた。
「アンタさあ! 後悔、すんなよ?」
「橋姫にだけは言われたくないわね」
それだけを言い残すと水橋パルスィは階段を歩いて上って行った。互いに背中は見送らず。
誰かが溜息を吐いたのを、博麗榊はちゃんと聞いていた。
「何か用ですか?」
デイジーは訝しげに八雲紫の隣に立つ少女を睨んだ。髪の色以外、自分の容と瓜二つなのだから。
「異変を止めに来たのよ。首謀者はもう居ないようだけれど、主犯は未だ目の前に居るのだもの」
デイジーは時を止めるでもなく、彼女らが下りてくる調子に合わせて一歩ずつ後退した。圧された訳ではなく、何と無しに。
八雲紫は足元で朦朧と呼吸をしている魂魄妖夢に感謝と労いの言葉を掛け、西行寺幽々子の元へとスキマで送り届けた。
「どうあってもあの二人を追わせないつもりですか。そのわりには何だか、辛い事を企んでいるようですが?」
「やはりね。それにしても……、襲って来ないのね。それに随分と落ち着いたわね?」
「古屋さんを傷付けた二人は許しません。けど、それだけです。幻想郷を壊そうなんてもう……、元々どうでもいいんです」
「呆れた。取り返しのつかない者を喰らったというのに、今更「私は悪くない」とでも言いたい訳ね」
「そう……なのかもしれませんね……。だったとしたら、私をどうしますか? 封印しますか? 殺しますか?」
睨み合い。しかし啀む様でもなく。その目には互いにもどかしさと諦観を溜めていた。
溜息を一つ。
「残酷なものね。お互いに殺される事を望んでいるのに、それを叶えられる者がこの場に居ないなんて」
「何を仰られるんですか、紫様?」
焦燥を噛み殺した眼差しで、博麗榊は八雲紫の背中を見詰めた。彼女は事の全容と八雲紫の思惑を聞かされていなかったのだ。「貴女を頼る事になるかもしれない」「これから体験することを、許す限りの全てを受け入れて欲しい」と。ただそれだけしか聞かされていなかったのだ。
「幻想郷を、嘗ての容を取り戻す為の計画には足りないものが二つだけ有ったのよ。一つは私の仕込んだ術式が正しく発動・機能するという確証。そしてもう一つは自殺する覚悟。それらを補う意味で前者を榊に、後者をこの異変の黒幕にそれぞれ託そうとしていたの。まあ、魂を消されては元も子もないのだけれど」
「その黒幕も当てにならないと知って、改めて自殺へと向かおうとしてる。……良いですよ、手を貸して上げます」
八雲紫は大袈裟に不思議がる様なポーズをとって見せた。その心境も、デイジーは見透かしていた。
博麗榊が突然二人の間に割って入り、デイジーに向けて御幣を構えた。その手足は小さく震え、そもそも構えるというには随分と不慣れな格好をしていた。
「落ち着きなさい、榊。貴女の幸運はこんな事の為に使うべきでは――」
「こんな事じゃないです! 紫様が……。敵わなくても構いません! 博麗の巫女として――」
背後から博麗榊の頭を抱き抱え、優しく頭を撫でた。
「ありがとう。でも大丈夫。私の計画が成功すれば、今よりも幸福な幻想郷で再会できるわ。だから、私の為に祈りなさい。術式の成功と、私の安らかな死を」
白髪の博麗霊夢が無力感に涙を流し。
「しょうがないわね。ほら、その子を退けなさい」
博麗霊夢と紛う程に明朗闊達な声でデイジーが言った。姿勢も眼差しも、いつの間にやら博麗霊夢のそれを湛えていた。
「優しいのね」
「お互い様。でも、手加減はしないわ」
博麗霊夢は右手に陰陽玉を作り出した。人一人簡単に覆える程の大玉を一つ。
「龍神の力にも肖ってるから、無抵抗をオススメするわ」
悔しそうに涙する博麗榊を部屋の隅に退避させ、八雲紫は慎として立った。
目を瞑り、脱力し。
「さようなら、紫」
博麗霊夢は八雲紫に向けて陰陽玉を投げ放った。
その際に博麗榊は目を瞑って両手を合わせた。
無人の神社の鳥居の前で。八雲橙は茶封筒を片手に立ち尽くした。
外の世界の博麗神社の外。
嘗て幾度か目にしたが故の認識。そこに界面は無く。八雲紫の手によって幻想郷から追い出され、戻る事を許可されていない様だった。
晩秋の暮れの風は、八雲橙の体を振るわせた。




