9.
「それじゃあ、さっそく見に行きましょうか」
私は広げていた文庫本をパタンと閉じ、席を立った。納富さんも「はい!」と弾んだ声で後に続く。
足音を立てないように気をつけながら、児童書やヤングアダルト小説が並ぶ棚へと彼を案内した。
お目当ての棚の前に立ち、「ええと、宗田理さんは……」と指先で背表紙を追う。
「あ、ありました。これです」
私が一冊の文庫本を抜き取って振り返ると、納富さんはその本……ではなく、その隣にずらりと並んだ同じ背表紙の列に目を丸くしていた。
「……え。神上さん、これ、もしかして全部同じシリーズですか?」
「あ、はい。宗田理さんの『ぼくら』シリーズです。今出ているもので、全部で二十九巻あります」
「にじゅう、きゅう……」
納富さんが、まるで見たこともない巨大な壁を見上げるような顔で絶句した。
さすがに活字が苦手な人にとって、30巻近くあるシリーズというのは圧倒されすぎてしまう数字だった変化もしれない。
「あ、でも、安心してください! どれも一巻完結の物語ですし、まずはこの最初の『七日間戦争』だけで綺麗に完結しますから。無理に全部読まなくても──」
慌ててフォローしようとした私に、納富さんは苦笑いを浮かべながら、ぽつりと呟いた。
「いや、そういうわけじゃなくて……。単純に、俺がこれを全部読み終わるのって、一体いつになるんだろうなって思って」
「え?」
「だって、俺、読むのめちゃくちゃ遅いですよ? 週に一冊ペースだとしても、半年以上かかるわけで……」
そこまで言って、納富さんはふっと視線を落とした。
その横顔に、さっきまでのきらきらした明るさはなく、どこか寂しげで、少しだけ落ち込んでいるような雰囲気が漂っている。
「……そうなると、俺が次に神上さんから新しい『次のおすすめ』を教えてもらえるのって、ものすごく先になっちゃうのかなぁ、と思って。これを全部クリアするまで、次の面白い本はお預けなのかなって」
「……っ」
ドクン、と心臓が大きく跳ね上がった。
彼は、シリーズが長いことに怯んだわけじゃなかった。
神上さんの選ぶ本をまた読みたいのに、この29巻という長いシリーズに一度入ってしまったら、それを全部読み終えるまで、次の新しいおすすめを教えてもらう機会がなくなってしまうのではないか。そのことが、少しだけ悔しくて、寂しいと思ってくれたのだ。
それはつまり、彼も私と同じように、これから先も何度も、私に本を選んでほしいと思ってくれているということで。
「そ、そんなことないです……! 全然先なんかじゃないです!」
私はぎゅっと、胸元で『ぼくらの七日間戦争』を抱きしめた。
「このシリーズを全部読まなきゃいけないなんてこと、全然ありませんから! 義務みたいになっちゃったら、本を読むのが苦痛になって、嫌いになっちゃうかもしれないですし……それは、私、すごく悲しいです。だから、もっと自由に、ゲームを遊ぶみたいに気楽に読んでほしいんです」
私はそこで少し声をトーンダウンさせて、はにかむように微笑んだ。
「もし一冊読んでみて、次は違うジャンルに寄り道したいって思ったら、いつでも別のおすすめを新しく選びます。だから、まずはこの一冊だけでいいんです。……私、納富さんがこの本を読んでどう思ったか、その感想がすごく聞きたいんです。ゲームをクリアした時みたいに、『あの作戦が面白かった』とか、一冊分の短いお話だけでもいいので……。私に、聞かせてくれませんか? ……ダメ、ですか?」
上目遣いで恐る恐る彼の顔を覗き込むと、納富さんは一瞬だけ驚いたように目を見張った。
それから、世界をふんわりと明るくするような、いつもの優しい笑顔に戻った。
「ダメなわけないです。むしろ、一冊ごとに感想を聞いてもらえて、その都度新しいおすすめを考えてもらえるなら、その方がずっと嬉しいです」
彼はそう言って、私の手から、そっと『ぼくらの七日間戦争』を受け取った。指先がほんの少しだけ触れ合って、私の体温がまた一気に跳ね上がる。
「よし。じゃあ、まずはこの第一ステージ、絶対にクリアして感想持ってきますね」
頼もしそうに本を見つめる彼の横顔を見て、私は眼鏡の奥で、嬉しさを噛みしめるように深く頷いた。
「はい、楽しみに待ってます」
納富さんは嬉しそうに『ぼくらの七日間戦争』を腕に抱えると、「じゃあ、さっそく借りてきます!」と受付カウンターの方へ歩き出した。
その足取りは、さっきまでの緊張が嘘のようにどこか軽やかで、本当にゲームの新しいステージに挑む少年のようなワクワク感が後ろ姿からも伝わってくる。
私はその後ろを少し離れて歩きながら、胸の奥がじんわりと温かいもので満たされていくのを感じていた。
(本を、嫌いになってほしくない……か)
自分で口にした言葉を、心の中でそっと繰り返す。
仕事中なら、利用者に本を好きになってほしいと思うのは当然のことだ。けれど、私服の今、私の胸にある気持ちは、そんな司書としての義務感なんかじゃきっとなくて。
ただ、彼に楽しんでほしかった。
私の大好きな世界を彼と共有して、彼が笑ってくれたら、それだけで嬉しい。
カウンターでは、今日当番に入っている同僚が、納富さんの差し出した本と貸出カードを受け取っていた。
バーコードを読み取る「ピッ」という小さな電子音が、静かな館内に優しく響く。
手続きを終え、本を大事そうにバッグに仕舞った納富さんが、こちらを振り返った。
少し離れて待っていた私の方へ歩み寄ってくると、彼はいたずらっぽく笑って、声を潜めた。
「クリアしたら、真っ先に神上さんのところへ報告に来ますね」
「……っ、はい。お待ちしてます」
そう答える私の胸は、すでにトントンと小さな高鳴りを刻んでいた。
通常の貸出期間は、二週間。
けれど、今までの彼はいつも一週間後の土曜日には、次の本を求めて図書館に顔を出してくれていた。
今回選んだ『ぼくらの七日間戦争』は、活字が苦手な彼でもきっと夢中になってサクサク読める、とびきり面白い本だ。
(うん。きっと彼なら、来週の土曜日に『クリアしたよ』って笑って来てくれるはず)
彼がどんな顔をして、どんな感想を私に伝えてくれるのか。
それを想像するだけで、私の心はもう、来週の土曜日が待ちきれない子供のようになっていた。




