8.
「お待たせしました。無事に返してきました」
カウンターでの手続きを終えた納富さんが、足音を忍ばせながら戻ってきた。
私は、一般書架の最奥にある窓際の閲覧席で、彼が戻るのを待っていた。ただ手ぶらで座って待っているのも落ち着かなくて、さっき棚から適当に抜き取ってきた文庫本を机に広げ、一足先に二つ分の席を確保していたのだ。
「おかえりなさい。……どうぞ、こちらへ」
トーンを落とした私の声に、納富さんは「ありがとうございます」と小さく囁き、私のすぐ隣の席に滑り込んだ。
いつもはカウンターを挟んで対面している彼が、今は肩が触れ合いそうなほど近くにいる。それだけで心臓の音がうるさくなってしまい、私はカモフラージュのために、手元の文庫本(まだ1ページも読めていない)へと急いで視線を落とした。
「こうして神上さんの隣に座ると、なんだか新鮮ですね。いつもはカウンター越しだから」
「あ、は、はい……! そう、ですね。なんだか少し、緊張します」
「あはは、僕もです。でも、今日は一人の利用者同士ですから、気軽に話してくださいね」
納富さんがふわりと優しく微笑む。その飾らない言葉に、私は本を少し持ち上げて顔を隠しながら、心の中でそっと安堵のため息をついた。恥ずかしいけれど、やっぱり思い切って来てよかったという気持ちがじわじわと勝っていく。
「コホン。……それで、納富さんは普段、どういったお話が好きなんですか? 例えば、ドラマとか映画とか、あるいは漫画とか……」
照れ隠しも兼ねて、私は小さく咳払いをして「司書モード」の質問を投げかけた。
納富さんは少し視線を斜め上に向け、うーん、と真剣に考え込んだ。
「う。そう聞かれると、ちょっと恥ずかしいな……。実は俺、本当に活字が苦手で、普段の趣味ってゲームくらいなんですよ」
「ゲーム、ですか?」
その単語に、私の眼鏡の奥の目が、少しだけパッと輝いた。
普段は地味に生きている私だけれど、休日は家で映画やドラマを観漁り、アニメや漫画にもどっぷり浸かる、なかなかの「物語オタク」だ。ゲームそのものはそこまで詳しくないけれど、ゲームが持つストーリー性の高さや世界観の深さは、アニメなどを通じてよく知っていた。
「はい。それも、ただレベルを上げるだけじゃなくて、仲間と一緒に作戦を立てて、強大な敵やシステムに立ち向かっていくようなRPGとか、シミュレーションゲームが好きで。……こういうのって、小説選びの参考になりますかね?」
少し申し訳なさそうに笑う彼を見て、私の頭の中で、カチリと綺麗にピースが噛み合った。
(作戦、チームワーク──だったら、絶対にこれだ……!)
「なります! すごく、なります!」
「うわっ、びっくりした」
つい興奮していつものトーンで声を張り上げそうになり、私は慌てて両手で口元を押さえた。
納富さんは目を丸くした後、私の慌てぶりにクスクスと嬉しそうに笑っている。
「すみません、声が大きくなっちゃいました……」
「いえ、そんなに真剣に考えてくれて嬉しいです。どんな本が浮かんだんですか?」
身を乗り出すようにして私の顔を覗き込む納富さんに、私は声を極限まで潜め、けれど確信を込めてそのタイトルを告げた。
「宗田理さんの、『ぼくらの七日間戦争』です」
「あ……! そのタイトルは知ってます。映画とかアニメになってましたよね? でも、あれって確か、中学生たちが主役の……」
「そうです。ある日突然、生徒たちが廃工場に立てこもって、大人たちに反旗を翻すお話なんです」
私は嬉しくなって、彼の方に少し体を向けた。
「中学生たちが知恵を絞って、理不尽な教師や大人たちを相手に、いたずらや仕掛けでどんどん撃退していくんです。そのやり取りが、まるで緻密な作戦を練るゲームのステージ攻略みたいで、ものしかくワクワクするんですよ。仲間との固い絆も描かれていますし──」
私はそこで一度言葉を区切り、彼の目を真っ直ぐに見つめて付け足した。
「なにより、会話のテンポが良くてコミカルなので、活字が苦手でも読みやすいんです。まるで映像を観ているみたいに、ページを捲る手が止まらなくなるはずですよ」
一気に語ってしまい、私はまたハッとして口を閉じた。
いつもの私なら、こんなに自分の好きなものを熱弁するなんてあり得ない。地味な眼鏡の盾を忘れるくらい、彼と「物語」を共有できることが、楽しくて仕方がなくなっていた。
引かれてしまっただろうか、と急に不安になって恐る恐る彼の顔を盗み見ると──。
納富さんは、まるで宝物の地図を見つけた子どものように、目をきらきらと輝かせて私を見つめていた。
「……面白い。めちゃくちゃ面白そうです、それ」
彼はそう言って、私の目の前で、嬉しそうに笑った。




