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凪のしおり   作者: karo
3/10

3.



あの激しい雨の日から、ちょうど1週間が経った。


季節は確実に梅雨の深みへと進んでおり、その日も午後からしとしとと細かい雨が降り続いていた。

1週間前のあの夜、ほんのりと胸に残った温かい余韻は、日々の忙しい業務の中にいつの間にか溶け込んでいた。

……そう、思っていた。


19時を過ぎ、館内の利用者がまばらになり始めた頃。

私はカウンターの端で、戻ってきた返却本のバーコードを淡々と読み取っていた。自動ドアが開く静かな音がして、冷気を含んだ湿った風が館内へと滑り込んでくる。


(あ……)


無意識に視線を向けた瞬間、手元を動かす私の指先がぴたりと止まった。


自動ドアから入ってきたのは、あの時の男性──納富さんだった。

今日は1週間前のようにはスーツの肩を濡らすこともなく、落ち着いた足取りで館内へと歩を進めていく。驚いたのは、彼が一切迷うことなく、真っ直ぐにあの『今週のおすすめ本』の特設コーナーへと向かったことだった。


(また、あの棚を見に来てくれたんだ……)


胸の奥が、トントンと小さな音を立てて跳ねる。

彼は棚の前に立つと、先週自分が本を抜いた場所に、今は別の本が並んでいるのを確かめるようにじっと見つめていた。それから、少しきょろきょろとあたりを見回し──カウンターの端にいる私と、まっすぐに目が合った。


納富さんは一瞬、嬉しそうに目を細めると、少し早足でこちらへと近づいてきた。


「あの、神上さん」


カウンター越しに、少し低めの、けれどよく通る声で名前を呼ばれた。

一瞬、なぜ私の名前を、と思ったけれど、すぐに自分の胸元にある名札のことに気づく。


「あ、はい。納富さま、こんばんは」

「こんばんは。……あの、これ、読み終わったので返しにきました」


そう言って、彼は鞄から大切そうに一冊の文庫本を取り出し、カウンターに置いた。

緑色の瑞々しい新緑の表紙。新海誠監督の小説、『言の葉の庭』だった。


「もう読まれたんですね。2週間の期限ですけれど、ずいぶん早くて驚きました」

私が本を受け取ると、納富さんは少し照れくさそうに、けれどどこか興奮を隠せないといった様子で微笑んだ。


「いや、あの雨の日の夜、家に帰ってからすぐに読み始めたんですけど……すごく引き込まれちゃって。雨の日の出会いや学生と先生の関係、あの切ない空気感がそのまま言葉になってるみたいで、一気に読んじゃいました」


彼はカウンターに少し身を乗り出すようにして、言葉を続ける。


「普段、俺、本当に本を読まないんです。でも、この本に出てくる雨の描写を読んでいたら、先週、この図書館にふらっと入ってきたときの静かな空気とか、雨の音を思い出して。……すごく、いい雨宿りだったな、って改めて思ったんです」


真っ直ぐに感想を伝えてくれる彼の瞳は、子どものように澄んでいた。

本を読まないと言っていた彼が、私の選んだ本をそんな風に深く味わい、自分の言葉で感想を伝えてくれている。


「……ありがとうございます」


私は、ずり落ちそうになった眼鏡のブリッジを慌てて押し上げた。

そうでもしないと、急に体温が上がったような自分の顔の熱さを見透かされてしまいそうだった。

ただの利用者の、ただの本の感想。それだけなのに、胸の奥が、先週よりもずっと強く熱くなっていくのが分かった。


「そう言っていただけると、棚を作った甲斐がありました。……本当に素敵な物語ですよね」


私がそう言って微笑むと、納富さんは一瞬、目を見開いて驚いたような顔をした。


「え、あの棚、神上さんが作ったんですか?」


「あ、はい。私が担当させていただいていて……」


「そうだったんだ……。俺、神上さんのことまだ全然何も知らないですけど、なんだかすごく納得しちゃいました。あの本がこんなに面白かったのも、神上さんのセンスがいいからなんですね」


納富さんは自分のことのように嬉しそうに笑うと、私を真っ直ぐに見つめた。


「それでなんですが……。だからこそ、また、神上さんの勧める本を読みたいなと思って。……今日、新しく何か借りていってもいいですか。」


不意の言葉に、私の目がパッと丸くなった。

しとしとと窓の外で降り続く雨の音が、なぜだか急に、いつもより少しだけ優しく耳に響く。

予想もしていなかった嬉しい申し出に、私は胸の鼓動が少し速くなるのを感じながら、慌てて「はい!」と声を弾ませた。


「もちろんです。……それなら、おすすめしたい本がもう一冊あるので、ご案内してもいいですか?」

「あ、お手数かけてすみません。お願いします」


私はカウンターを一時的に他のスタッフに任せ、一般書架の棚へと歩き出した。納富さんも少し楽しそうな足取りで、私の斜め後ろをついてくる。


文庫の棚の前で足を止め、背表紙を指先でなぞる。

『言の葉の庭』をあんな風にまっすぐ受け止めてくれた彼なら、きっとこの物語の持つ心の距離の描き方も気に入ってくれるはず。そう思いながら、一冊の文庫本を棚から引き抜いて彼に手渡した。


「同じ新海誠監督の作品で、こちらはいかがでしょうか」


差し出した本の表紙には、桜の花びらが舞い散る美しい情景が描かれている。


「『秒速5センチメートル』、ですか」

納富さんはそのタイトルを口の中で小さく呟き、それから「あ!」と声を上げて目を輝かせた。


「これ、知ってます。映画のcmの映像がすごく綺麗で、なんとなく印象に残ってて……これも小説があるんですね」


「はい。監督ご本人が執筆された小説版なんです」


映画のCMを覚えていたという彼の言葉に、私はホッと胸をなでおろした。普段はあまり本を読まない彼にとって、映像のイメージがある作品ならきっと入り込みやすいはずだ。


「映画と同じように3つの短編が集まったお話なんですけど、人と人との距離とか、時間の流れがすごく丁寧に描かれていて。読み終わったあと、少し切なくて、でもとても素敵な余韻が残る物語ですよ」


私がそう説明すると、納富さんは嬉そうに本を受け取り、じっと表紙を見つめた。


「『言の葉の庭』と同じ監督の作品なら、絶対に面白いですね。……よし、次はこれにします」


そう言って彼がはにかむと、私もつられて小さく笑ってしまった。

いつもなら利用者の顔をまともに見られないくらい緊張してしまうのに、彼とこうして本の話をしている時間は、不思議なほど自然でいられる。


「ありがとうございます。じゃあ、貸出の手続きをしますね」


彼が手にした『秒速5センチメートル』をもう一度受け取り、私は彼と一緒に、再び受付カウンターへと歩き出した。


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