2.
「……神上さん? どうしたの、ぼんやりして」
背後から声を掛けられて、私はハッとして小さく肩を揺らした。振り返ると、事務室から戻ってきた先輩司書が、不思議そうな顔でこちらを見ている。
「あ、すみません。なんでもないです」
「そう? もうすぐ20時だし、閉館のアナウンスを流しちゃってね」
「はい、わかりました」
私は少しきまり悪くなって、カウンターの操作パネルへと向かった。ボタンを押し、館内に閉館を告げる柔らかな音楽を流す。いつもの見慣れた館内に、規則正しい雨の音とメロディが混ざり合っていく。
自動ドアの向こうは、まだ激しい雨がアスファルトを叩きつけている。けれど、私の頭の隅には、さっきの男性──納富さんの、どこかほっとしたような笑顔がなんとなく残っていた。
(素敵な本に出会えて良かった、か……)
私が組んだ、あの小さな特設棚。誰の目にも留まらないかもしれないと思いながら並べた本を、あんな風にまっすぐ手に取ってもらえるのは、司書として純粋に嬉しかった。大人っぽいスーツ姿なのに、カードを作るときは妙に不器用そうで、そのギャップが少しだけ印象に残っている。
「お疲れ様。じゃあ、閉館作業に入りましょうか」
「はい」
利用者が誰もいないことを確認し、館内の照明を落としていく。少しずつ薄暗くなっていく空間を巡りながら、私は彼が本を抜いた特設棚の前で足を止めた。
ぽっかりと空いた一冊分の隙間。
そこに、選書するときに他の候補として残していた別の本をそっと置く。
その隙間が綺麗に埋まるのを見つめていると、なんだか胸の奥から、じわじわと温かい嬉しさが込み上げてきた。
電車が止まったからと、暇つぶしのようにふらりと立ち寄ってくれただけかもしれない。それでも、私の作った棚が彼の目に留まり、あんな風に喜んでもらえた。その事実が、静まり返った館内の空気の中で、じんわりと心いっぱいに広がっていく。自分のした仕事が誰かの心地よい時間に繋がったのだと思うと、さっきの彼の笑顔が思い出されて、胸の奥がぽかぽかと幸せな気持ちで満たされていくようだった。
そんな嬉しい余韻をそっと抱きしめるようにして、私は残りの作業を続けた。
事務室へ戻り、私服に着替える。
いつものように上着を羽織り、眼鏡の位置を直して外へ出ると、駅へと続く通路には、ようやく運転を再開したらしい電車の音が遠くから響いていた。
(あ、電車動き出したんだ。よかった)
さっきの彼も、無事にあの電車に乗れただろうか。
傘を開きながら、そんな風に誰かの雨宿りの結末を気にしている自分に、少しだけおかしさが込み上げる。
いつもなら、仕事終わりの雨なんて靴が濡れて憂鬱でしかないのに。
すっと切れた自分の目元が、地味な眼鏡の奥で、ほんの少しだけ緩んでいるのが分かった。
「……さて、帰ろう」
胸の奥に、いつもより少しだけ温かい余韻を抱えながら、私は雨の街へと歩き出した。




