1.
6月上旬。汀ノ宮市は、例年よりも少し早い梅雨の始まりを迎えていた。
私が働く図書館は、この春の4月に開館したばかりの新しい施設だ。オープン当初は、物珍しさから連日多くの利用者が押し寄せ、館内は毎日のようにごった返していた。市内の別の図書館からここへ異動してきたばかりの私は、前の職場とは違う最新のシステムや、次々に舞い込む貸出・返却処理に追われ、最初のうちは環境に慣れるだけで精一杯だった。
2ヶ月が経ち、季節が初夏へと移り変わる頃には、あの激しい忙しさもようやく落ち着きを見せ始めていた。新しい館内のオペレーションや動線にも身体が馴染み、周囲の景色を見渡す心の余裕が、私の中にもようやく生まれつつあった。
その日は、朝から絶え間なく雨が降り続いていた。
夜が近づくにつれて風雨は強まり、壁一面の大きなガラス窓の向こうにある駅前のビル群の明かりが、雨粒に滲んでゆらゆらと揺れている。館内には、天井の高い空間に優しく反響する、規則正しい雨の音だけが静かに響いていた。
「神上さん、新着文庫のデータ入力が終わったら、返却棚の整理をお願いね」
「はい、わかりました」
先輩司書の言葉に短く返事をして、私はずり落ちそうになった眼鏡のブリッジを人差し指で押し上げた。
黒髪のストレートヘアを後ろで無造作に一つに結んだだけの、飾り気のない姿が私のいつもの仕事着だ。
元々がすっと切れた涼しげな、けれど少しきつい印象を与えがちな目をしている。それが昔からの悩みだった。学生時代に、普通にしているだけなのに「怒ってる?」と聞かれてショックを受けて以来、度を合わせただけの地味な眼鏡が、私の大切な盾になっている。眼鏡をかけていれば、少しだけ自分の目元が柔らかく見える気がするし、なにより、不特定多数の利用者と対面するときの緊張を和げてくれた。
(ようやく、この館の仕事の段取りも頭に入るようになってきたな……)
そんなことを考えながら、新しく仕入れた文庫本を抱えて館内を歩いていた、19時を回った頃。
閉館まであと1時間を切り、館内の静寂がいっそう深まったその時、自動ドアが静かに音を立てて開いた。
少し肌寒い夜風と一緒に滑り込んできたのは、一人の男性の利用者だった。
手に長傘を持っているものの、横殴りの風雨のせいで、カジュアルスーツの肩口がかなり濃い色に濡れている。
(あ、結構濡れてるな……大丈夫かな)
心の中でそう思いながらも、私は自分の作業に戻った。男性は特に急ぐ様子もなく、雨宿りを兼ねているのか、館内の本棚を何となくふらふらと眺めながら歩いている。
しばらくして、その男性は受付カウンターのすぐ隣にある、私が担当した『今週のおすすめ本』のコーナーへと行き着いた。私は今月、梅雨の始まりに合わせて「雨の日に、そっと寄り添う物語」というテーマで特設棚を組んでいた。
男性はそこで足を止め、並べられた本を眺めていたが、やがてその中から一冊の文庫本を手に取った。
──が、男性は本を持ったまま、その場でぴたりと止まってしまった。
本を手にしたものの、ここからどう動いていいか分からないようで、困ったようにあたりをきょろきょろと見回している。
「あの……何かお困りですか?」
見かねて私がカウンターから声をかけると、男性はハッとしたようにこちらを振り向いた。
「あ、すみません。……この本、すごく気になったんですけど、あの、どうやって借りればいいんでしょうか」
「そうだったんですね。それなら、まずは当館の利用カードをお作りしますよ。お手数ですが、こちらの申込書にお名前とご住所のご記入をお願いできますか?」
私は引き出しからクリップボードを取り出し、ボールペンと一緒に手渡した。「ありがとうございます、助かります」とそれを受け取った男性は、少し濡れたスーツの袖を気にしながら、カウンターにボードを置いて手際よく文字を書き進め、すぐに私に返してくれた。そこには『納富 斎』という名前が並んでいた。
「納富さまですね。確認のために、免許証など身分を証明できるものはございますか?」
「はい、これで大丈夫ですか?」
お預かりした免許証を見ながら、私は手元のパソコンのキーボードを叩き、システムの画面に名前や住所を入力し始めた。
カタカタ、と館内の雨音に私のタイピング音だけが混ざる、静かな待ち時間。
カウンターを挟んでじっと待っていた納富さんが、少し照れくさそうに頭を掻きながら、ポツリと口を開いた。
「図書館なんて学生の時以来、何年も来ていなくて。本を読むのも本当に久しぶりで、勝手がわからなくて……」
大人っぽいスーツ姿に対して、どこか素直で不器用そうな言葉に、私の緊張は自然とほぐれていった。画面を見つめたまま、私は少しトーンを和げて答える。
「いえ、開館したばかりですから、初めての方も多いですよ」
そう言いながらエンターキーを叩くと、システムへの登録が完了した。私は新しく発行された青色の貸出カードを彼に手渡した。
「お待たせいたしました。こちらが当館の利用カードになります。本日お貸出しする本は、2週間後のご返却となります。お返しする時はこちらのカウンターか、閉館後なら図書館入り口の返却ボックスに入れていただいても大丈夫です。市内の他の図書館でも返却できますよ」
「なるほど、それは便利ですね。ありがとうございます。……あの、外、急にひどい雨になりましたね」
カードを受け取った納富さんが、ふとガラス窓の外に目を向けた。
「そうですね。外、少し冷え込んできていますから、お気をつけてお持ち帰りください」
いつもなら「ありがとうございました」と定型文しか言えない私が、雨に濡れた彼のスーツの肩を見て、思わずそんな言葉を付け足していた。自分の突飛な行動に、眼鏡の奥で私の目が少し泳ぐ。
納富さんは一瞬、驚いたように目を見張り──それから、ふわりと穏やかに笑った。
「ありがとうございます。この雨で、いつも使ってる路線が遅れちゃって。運転再開まで時間があるからふらっと入ってみたんですけど……でも、仕事帰りの雨宿りがてら、素敵な本に出会えて良かったです。カードも作れたし、読むのが楽しみだな」
本を鞄に仕舞うと、彼は「ありがとうございました」と小さく会釈をして、再び雨の夜の街へと消えていった。
彼が去ったあとの自動ドアの向こうには、相変わらずしっとりとした雨模様が広がっている。
新しい職場に慣れて、少しだけホッとしていた私の胸の奥に、彼が残していった温かい余韻が、凪いだ海のように静かに、心地よく広がっていった。
これから始まる長い雨の季節が、ほんの少しだけ、待ち遠しく思えるくらいに。




