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舅親達が
「外で私の事を友人知人に対して具体的にどう言っていたのか」
に関して何も知らなかったけれど…
(知りたくもなかったし)
時折舅親達の友人らが客として訪れた時に
「恩知らずは地獄に落ちる」
「早めに改心するべき」
「身の程をわきまえて生きるのが人間の道」
だのと
「何故か説教まがいの事を言い出す」
事が多々あった事から何となく察することはできた…。
私は実の親が何処でどうしてるかも知らない天涯孤独だったので
「一応、受け入れてもらえた」
事に多少は感謝していたものの
夫は夫で、すぐに浮気しだして家に寄り付かないようになり
「自分の両親を私に押し付け、自分は自由になるために結婚した」
かのような状態だった。
「騙された!イジメられてた中卒となんか関わるんじゃなかった!知ってたら絶対関わらなかったのに!」
と罵っていたので、夫は彼の両親と同じ人種だったという事も分かった。
(クズだらけだ…)
と思いながらも、自分の内心を誰にも話せずに日々鬱屈していた。
ある日、夜中に高熱が出て
(普通の家族なら救急車を呼ぶなりするだろうに)
何の心配も気遣いもなく放置され、そのまま私は肺炎で死んだのだけど…
それに関しても、実はどうでも良かった。
お腹を痛めて産んだ実の子でさえも
(ジジババに誘導されて)
私を(母親を)嫌っていた家庭環境だったので色々諦めていたのだ…。
ただーー
私が死んだ後、私は不思議と意識体としてしばらく存在し続けていて、周りの様子が見聞きできていたので…
姑が近所の人達に
「本当は救急車を呼びたかったけど、◯◯さん(私のこと)が『寝てれば良くなるから大袈裟にしないで』と言ったから」
と嘘の言い訳をして嘘泣きしていたのを目撃してしまい…
流石に本気で嫌になった。
未必の故意ーー。
「放置すれば死ぬかも知れない」
そんな状況で敢えて放置するのは
「死んでくれても良い」
という殺意があったからであり
「当人の意向を尊重したら亡くなった」
という善人ぶりっ子の虚言を吐くのはオカシイ。
私の人権を踏み付けにして自己美化し過ぎている。
けど、まぁ、自分を善人だと思い込んでる人達は
「嫁をドアマット扱いして、尚且つそんな非道さを世間様の目からは綺麗に隠して善人ぶる」
という欺瞞行動を
「作戦も立てずに自然体で実行してしまえる」
のだ。
何の罪悪感もなく。
踏み付けにされた側からすれば
「せめて善人ぶらないで欲しい」
「ちゃんと事実と向き合って欲しい」
と思う。
だけど
「何を言っても無駄だ」
という事が分かっていたので未練にまではならなかった。
本当にーー
何を言っても無駄だったのだ…。
お陰で未練も沸かずに無事に成仏はできた。
(参入待機空間へとあがれた)
「関わる事自体がバカらしくなるくらいに話が通じない」
ような相手に対しては
「関わらない」
以外に自分が損をさせられる落とし穴を避けられない。
その真理が如実に理解できた人生だったと思う。
あんな社会には
あんな世界には
「生まれる事自体が間違いだった」
と分かった。
それが揺るぎない真実ーー。
前世のことを思い出すと
(家族からドアマット扱いを受ける、という体験は何気に人の心をジワジワ壊してしまうんだよなぁ…)
と理解できる。
その点ではクレアに対して同情は感じる。
屋敷内に先祖の絵や家族の絵が掛かっているので、パトラスが幼い頃にパトリックの母親が(姑が)まだ生きていた事が分かる。
夫の親と暮らすのは相手の人間性次第では本当に厄介なのだ。
クレアも嫁いだ頃には苦労したのかも知れない。
世の中には
「自分が苦労したから、次の者にも苦労させるべきだ」
と思う人もいれば
「自分が苦労したから、次の者には苦労させたくない」
と思う人もいる。
私としては
「弱者には苦労は必然的に降りかかるのだから、わざわざ苦労させる必要があるのだろうか?」
と疑問に思う。
つまり
「獅子は我が子を千尋の谷へ落とす」
のは
「獅子が動物界の強者」
であり
「意図的に苦労をさせなければ苦労が降りかからない」
からだと思っている。
獅子ではない弱い動物が
「わざわざ我が子を千尋の谷へ落とす」
のだとしたら…
それは過剰な試練であり客観的にはただの虐待。
そうした道理を、あの【世界】の人達は理解できていなかった気がする…。
あの国の人達には不自然なくらいに同じ国民への同胞愛が欠けていた。
それでいて外国人へ不自然なくらい配慮して人類愛を持つようにとの強制があった。
国全体が不景気だと
「外国人を雇用すると補助金が出るから外国人を雇う」
ような企業が増えた。
国の民間企業全体で外国人を身近に引き入れ
「生産品の質の低下・サービスの質の低下・組織的技術窃盗・資金窃盗等の諸問題」
も共に引き込みながら、泥舟のように沈みこんでいった。
「苦痛が人間を賢くする」
のだとして…
「苦痛によって賢くなった人間の言葉が社会内で意味のない家畜の鳴き声としか認識されない」
のなら
「賢さとは一体何なのだろうな」
と今でも疑問に思う。
「物事の因果関係に対する認識を見誤っている」
社会では諸々が倒錯する。
「苦痛体験が人を賢くする」
「苦痛体験の克服が人を大成させる」
などという因果関係はない。
苦痛体験から人が救われるのは
「救い上げる人がいるから」
だ。
苦痛体験から救われた人が出世できるのは
「引き上げる人がいるから」
だ。
救い上げる人、引き上げる人がいなければ、苦痛体験の最中にある困窮者の苦痛はただ延々と続くだけ。
苦痛体験から救われるのにも、コネが必要だったり、公平な救済者の存在が必要だった。
そうしたものに救われた人達が、その事実を理解せずに
「苦痛体験をしても腐らずにいれば救われるものだ」
「救われた私は救われるのに相応しい人間だったから救われた」
という解釈で
「救済体験は誰かのお陰ではなく自分の手柄だ」
と勘違いするような…
そうした因果関係の誤認識があると
「誰かが私を救い出してくれたように、私も誰かを救い出してあげなければ」
という社会内役割循環は起きないもの。
弱者を見ても
「当人に何か問題があるから誰も助けないのだろう」
と偏見を向けて、弱者を排除する方向へ向かう。
あの【世界】は
「生まれながらに味方のいない無力な弱者」
にとっては生まれながらに地獄だった。
あんな【世界】、逃げ出せて清々する。
今世の私に「獅子の子」に該当する潜在力があるのだとしても、もう辛い思いはせずに楽々生きたいところだ…。




