第56話:変化していく未来
───蝦夷国南部
季節は初夏となった。
この頃には、本格的な開拓が始まる。
狩猟生活から脱し、農耕中心での生活というものに協力的なアイヌだけを集めて、蝦夷地での開拓村建設が始まった。
尾張本国からの、植民者は少ない。
理由は明白だが、普通に寒くて食料も不足しているような場所の開拓なんて、誰も臨んでいないからだ。
現代の道民には悪いが、この時代の蝦夷地、北海道は寒い上に食料がまともに育たないような地獄である。
現代技術があってさえ、アレだけの燃料費がかかるような場所だ。
この時代にあっては、言わずもがなである。
尾張から派遣されてきた"教導員"たちは、農業生活を望むアイヌたちに向かって、宣言した。
「この地は、寒くて夏が短いらしいな?なら、とりあえず、今年は"蕎麦"を植えよう」
農地だった場所なんてないような、原生林豊富な蝦夷地で、いきなり米や麦なんて作るのは無理だ。
東北方面でさえ、米はまともに育たないのに、即農地に転用できる場所もないのでは、なおのことである。
だから、彼らは最初の年は、寒さにも強く、生育期間が短くても済む蕎麦を中心に育てると決めたのだ。
その判断は的確で、この蕎麦は、蝦夷地での最初の収穫だとして、尾張にも送られ食べられることとなる。
織田信長は、その蕎麦を切り蕎麦にして食べ、蝦夷地での開拓成功を確信することとなった。
そうして、最初の蕎麦栽培成功を皮切りに、蝦夷地での開墾は進んで行った。
鉄製の農具工具が使われた開墾開拓ではあったが、その進捗は芳しいものとはとてもいえなかった。
しかし、それでも、着実に開拓は進んでいき、100年後には日本の食糧庫と呼ばれるまでに育つこととなる。
蝦夷地開拓は、アイヌを中心に、着実に歩を進めるのだった。
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光もあれば闇もある。
そうした成功の影で、沈んでいった話も存在する。
蝦夷地での開墾は、織田家としては試行錯誤の連続だった。
信長自身も、農業の経験も知識もなく、現代人(転生前)としての基本知識くらいしか持っていなかった。
せいぜいが、小学生の頃に行った農業体験くらいである。
そんな織田家が、北海道のような北端で農業をするというには、試行錯誤しかなかったのだ。
が、幸いにも、釜石で周辺を見聞した者が一行の中におり、彼の意見から蕎麦が採用され、成功したというのがことの顛末だった。
だから、それ以外にも、失敗は多くあった。
特に、米を育てようとした組は、完全に失敗しており、アイヌからの信頼を一部失ったという面もあった。
だが、塩の供給や蕎麦の成功のこともあって、信頼が完全に失われたわけではなく、
「織田家も失敗することはあるのだ」と、最終的には好意的な目線で見てもらえることになる。
失敗した組は、アイヌたち以上に自分たち自身でそのことを責め、蝦夷地を離れて尾張へと帰った者も出た。
しかし、大部分は、そのまま蕎麦を中心に、色々な作物を試していくことに決め、蝦夷地各地での農業改革に邁進することになる。
また、失敗した米や綿花など、最終的に、蝦夷地では絶対に成功しないと言われた作物も、
聖水を使った場合にはどうなるのか?という実験も行われた。
これには、ほぼ完全に成功し、綿花はいささか不良気味ではあったが、栽培そのものには成功を収めた。
これを見ていた蠣崎家の者たちも、完全に織田の恐ろしさの真髄を垣間見たような顔をして、それまでの態度を改めていくこととなる。
とはいえ、今まで、命令で嫌々やっていたものを、自分から望んで行うようになった、という違いが出たくらいなのだが・・・。
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───尾張
蝦夷地との最初の交易が終わった後、尾張には、織田の船団が蝦夷地から帰還を果たしていた。
満載の荷を積んで現れた織田家の船団は、織田商人たちに囲まれ、その北国の珍品珍味が各国へとばら撒かれていくこととなる。
積荷には、見たことのないような立派な鳥の羽や、干鮭・塩引鮭、動物の毛皮など、多くの産品が尾張港へと持ち込まれた。
港に集まった織田商人たちは熱狂し、しばらくの間、蝦夷地の産品は織田家領内で流行となる。
ただ、鳥の羽については、織田家ではさほど人気が出ず、他国へと高値で売り捌かれることとなる。
蝦夷地から来た鷲や鷹の美しい羽は、他国の武家の人気となり、資金に余裕のある武家では、
それらの羽根が、武家としてのステータスとして語られるようになる。
ただ、それらを買い取れるような武家は、既に三好と大友家くらいになっており、
それら以外の武家では、かなりの無理をして羽根を買い集めたところも出たという。
その結果、家が傾いたことで、"家をも傾ける羽根"として、逆に人気が出ることともなった。
「ほぉ・・。蝦夷地には可能性あり、か・・。予想以上に有望なようだな、蝦夷地は」
俺は、蝦夷地開拓団からの報告書を読み、その結果に満足していた。
報告によれば、蝦夷地には今回運ばれた以外にも産品が豊富で、ニシンや昆布、らっこの毛皮などというものもあるという。
また、狐やヒグマ、蝦夷鹿という動物も多くいて、それらの皮だけでなく肉も、商品として申し分ないのでは?という将来性のある報告だった。
その他にも海産物は豊かで、鮑や海鼠といったものも、領内だけでなく明や南蛮などに売れるのでは?という提案もあった。
「明や南蛮との取引か・・・
そろそろ、もっと大々的にやってもいい頃かもしれんな」
俺は、その報告書の提案を前向きに考えることを決めた。
そうして数ヶ月後、再度 蝦夷地からの荷が届き、それらの品を堺商人を介して、明人や南蛮人に売ることを決めた。
自国領内に明人や南蛮人を受け入れる準備が、整っていなかったためである。
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───旧琉球王国
琉球王国では、教育と人員処分が進んでいた。
琉球王国の貴族階級や王族は真っ先に処分され、生き残りは0だった。
逃げ出した者もいたのだが、そもそも、港湾施設を潰され最初に制圧されているために、大々的に逃げ出すこともできずに、小舟での脱出となった。
そんな彼らが生き残ってどこかに辿り着けるはずもなく、そのまま大洋へと沈むこととなる。
───琉球王国の制圧から半年
琉球王国は、織田家沖縄領と名を改められ、正式に織田家へと編入されることになる。
だが、編入が行われたのは沖縄本島のみで、他の諸島は、しばらくの間放置されることとなる。
これには、織田家の管理リソースの問題があり、沖縄本島の教化だけで限界だったというのが、事の真相であった。
こうして、琉球王国は完全に崩壊。
九州南端の島津家も蹂躙されたことで、九州では大友家が幅を利かせ、織田家と共に隆盛を極めることとなる。
また、大友家はこれらを機に、中央集権改革を進めていき、大友義統は、後に大友家中興の祖とも呼ばれることになる。
ただ、この評価は正確ではないと,後世においては議論され、
「中興の祖でなく、それまでの大友家とは別物だ」という意見も多々出ることとなり、現代においてもその議論は終わっていない。
ともあれ、かつての琉球王国においては情状酌量の余地もなしに、多くが断罪され、ほとんどの男性が日本の各国へと販売されることとなる。
また、琉球王国の女性は、一定年齢以上のものは除き、処分されることもなく、教育を施されたのちに沖縄領内の娼館に置かれることとなる。
ただ、幸いにも彼女たちにとっての幸運は、織田家が他家とは異なり先進的で、食料や病といった面では一切の妥協を許さなかったところだろう。
結果的に、旧琉球王国の女性たちは、男性たちとは異なり、その生活に満足するようになっていく。
娼婦として、織田家所属の者たちとの性行為を義務付けられたとはいえ、織田家の将兵は基本的に清潔であり、教育も行き届いていた。
さらには、身請け制度もしっかり整っていたために、娼館に入った翌日には身請けされ、『織田将兵の妻になる』といった事例も出た。
もちろん、全員が全員幸せになったというわけではない。
かつて貴族階級だった者などは、下の階級の者に高飛車に出られなくなり消沈した者も存在した。
が、生活水準の低下で困った者は一人もいない。
そもそもが、織田家の生活水準の底辺でも、各大名の生活水準よりも高かったからだ。
それが原因で、織田領内から出られない、といった者も出る始末だ。
織田家では、この数十年後、将兵の成り手に困るという事態に陥り、上層部が頭を悩ませることとなる。
だが、それでも、織田家当主への信仰心は衰えず、専業武士制度から徴兵制へと舵を切ることになる。
農兵を使わず、専業武士制度を作り上げた織田家の実質的な敗北だという声も、後世では上がるほどの方針転換だったと言われる。
実際、この当時、織田信長の著書では、徴兵制度の問題点についても語られ、その点に関しては十分すぎるほどの検討が行われてからの実施だったという。
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