第53話:尾張塩① 〜隆景・幻庵〜
───元亀8年(1582年)
史実であれば、
織田信長が、本能寺と共に炎に包まれるはずだったその年。
日本では、雪とは異なる"白い結晶"が市場を蹂躙していた。
尾張国を中心とする織田家の支配領域
そこから無尽蔵と言えるほどにに吐き出される"精製塩"
それが『尾張塩』である。
かつてはかなりの高級品であった塩だが、それが今や、粟稗よりも安い値で市場に流れていた。
尾張の塩と他国の塩では、その色からして全く違う。
尾張塩は、精製が進み、各地で作られる塩に比べて圧倒的に白い。
見た目からして違うのだ。
それ以外にも、粒子の細かさやその雑味のない味は、流通する日本全国で絶賛されるほどには好評だった。
「この塩を一度使えば、他の塩には戻れん」
などと、正気で言うものがいる程度には、他国品より優れた品あり、かつその値も遥かに安かったのだ。
なら、このような状況が続けばどうなるだろう?
雑味があり、色も白くなく黒っぽい塩は、その製作に燃料代が欠かせずにどうしても高かった。
それが、流下式枝条架法や電熱、電気モーターなどを利用した製塩法を使う、織田家の尾張塩と争うのだ。
対抗などできるはずもない。
また、織田家ではこれ以外にも、当主織田信長や、その子息たちによる聖水製作で出る不純物もある。
海水を利用して作られた聖水の場合、その残った不純物というのは"塩"だ。
つまり、聖水製作においても塩が生まれる。
織田家においては、塩というのは高級品どころか、廉価品でさえなく、捨てるに困るゴミ同然のものでしかなかったのだ。
塩の摂取は人間が生きる上で重要だ。
そのことは織田家も領民たちも理解している。
しかし、農地に撒けば農地が使えなくなる上、
大量にあるとはいっても、尾張では他にも調味料が多くあるために、
そこまで使用されないものであることには、変わりなかったのである。
だがやはり、大多数の他国民は、尾張塩を歓迎した。
ほとんどの者たちにとっては、塩は安い方がよく
製塩業に従事する者の数は圧倒的に少なかったからである。
彼らにとって、塩というのは生活必需品。
生きていくために必要なエネルギーそのものなのだ。
それを歓迎しない者は、製塩業種に関わる者以外にはいなかったのだ。
だが、尾張の安い塩
その脅威には、その時、誰一人気づいていなかった。
それの仕手人であった織田信長そのひとも、尾張塩がもたらす脅威、その中身に気付かずにいたのだった。
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───中国地方:毛利家:吉田郡山城
毛利家の知謀担当、
小早川隆景は、執務部屋にて大量の書類と格闘していた。
「・・・また、塩商人が潰れたか」
隆景は、『尾張塩』のかかった握り飯を口に運びながら、苦々しげに報告書を読み進める。
かつては、塩の産地であった瀬戸内一帯からも、その煙が消えて久しい。
尾張塩は安く、そして圧倒的に質がいい。
毛利家でも、領内の製塩業を支援しており、
尾張塩が流通を始めた頃には、支援のために、領内塩商人から購入を優先するなどしていた。
だが、それも、一軒、また一軒と潰れるうちに、塩商人の方も、尾張塩を扱い始めた。
自分達で製塩するよりも安い価格で流通しているのだ。
それも、自分達で作ったより質の良いものが。
"誰が、自分達の作った粗悪品を買うのだ?"
そう考えたのだろう。
考えてしまったのだろう。
領内の製塩業は、技術そのものが絶えるほどにまで衰退した。
先ほど無くなった報告のあった塩商人も、わずかばかりの製塩を行っていたのが、今年に入ってからは全く製塩しなくなったそうだ。
完全に、尾張塩を販売するだけの仲介屋に成り果ててしまったという報告だった。
地場の製塩では、尾張塩には全く対抗できないのだ。
海水を薪で熱し、中の塩を取り出す方法では、薪代が嵩み続け、費用が掛かりすぎる。
尾張ではどのような方法が使われているのだろうか?
その方法を見せてもらった商人もいるようだが、実際に見たことのある商人にも、理屈は全くといっていいほどわからなかったらしい。
「何らかの技術であることは理解できたが、根本から違いすぎて、到底我々では真似できない」
それが、その商人の言葉だ。
実際に製塩業を担っていた商人でそれだ。
彼らだって、実際の作業の細かいところはわからずとも、概要くらいは理解している。
だが、そんな商人でさえそんな反応なのだ。
これでは、我らのような門外漢ではどうしようもない。
ここ数年は、毛利家でも製塩に関わる支援は止め、単なる塩商人との取引のみとなっていた。
だが、私が食しているこれも"尾張塩"だ。
既に、完全敗北したといっていい。
無論、毛利家が織田家に負けたというわけではない。
ないのだが・・・
織田布幣に、尾張塩。
石鹸に、陶磁器。
様々な安くて質のいい商品が、尾張方面から流れてくる。
金銀の施された装飾品や置物、衣類なんてのもあるらしい。
私などはここ数年、まともにそういったものに触れることさえないのでわからないが、京から噂だけは流れてくる。
「・・・終わりかもしれんな・・」
織田家の活動が活発になるに従って、年々、毛利家の運営が厳しくなっていくように感じる。
織田家はこちらを見てもいないというのに、我ら毛利は既に虫の息だ。
争う必要があるのかもわからんが、いざ戦うことがあっても、戦いにすらならんだろう。
隆景は、日の本で織田の恐ろしさを知る者の一人だった。
しかし、毛利の立脚するのは、"国人衆連合の長"としての毛利家だ。
織田家のように慣例や土地を無視しての行動などできるはずもない。
ましてや、それをしたとて「尾張塩に勝てるか?」と問われると、何も答えられない。
製塩業だけではない。
最近では、織田の活動によって出た流民が、毛利の領内にも多数移住していた。
その影響か、領内の治安は最悪だったのだ。
流民のような安い労働力は、各商会でも利用され、毛利でも石見銀の採掘に使ってる。
ただ、織田の侵攻によって生まれた流民には、圧倒的に男が多い。
そのために、領内の娼家に人が流れ、そこからの治安悪化が酷かったのだ。
娼家の方も、膨れ上がりすぎて破裂寸前、いや、既に破裂したところもあると聞く。
それほどに多くの影響が出ていた。
織田家に抗議するにしても、何をどう抗議すればいいのかさえわからない。
流民など、我らの戦であっても出る。
流民が出るような戦をやめろ、などとはいえない。
それに、そもそもだと戦って勝てるかどうかさえわからない。
織田の戦についての情報が少なすぎるのだ。
にも関わらず、広大な領土を保有していたりする。
しかも短期間で。
これでどうやって戦をしろというのか・・?
変わった形の矢が飛んでくることと、変わった船が使われていることくらいはわかっている。
だが、翻っていえば、それだけの情報しかない。
「だが、策はある・・・きっとある、はずだ。・・・頭を回せ」
ガリッ、と握り飯を齧る。
強烈な塩気が、疲労困憊の脳に染み渡るような感覚があった。
「(ふぅぅ、織田を嫌ってはいても、これは美味い・・・。これでまた、働ける)」
隆景は、無意識のうちに塩を求めていた。
激務による、疲労とストレスだろう。
眠りを避けるようとするあまり、最近では、塩の濃い味付けの干物や味噌汁、漬物。
尾張塩を使った、塩気の多い食品を特によく食していた。
領内経営で悩むことの多い昨今、直接 戦場に出ることも少なくなり、運動不足体が膿んでいた。
そんな時、廊下を走る荒々しい音が響き渡る。
バタンっと勢いよく襖が開かれ、伝令が飛び込んできた。
「報告します! 備中の国人衆、一斉蜂起! 織田の布幣などを求めて当家の蔵を襲っております!」
「なっ・・・!?」
隆景の顔色が、瞬時にドス黒い赤色へと変わる。
「主家への忠義よりも、織田の紙切れ(布幣)を選んだというのか・・・!
目先の利に釣られおって!馬鹿者どもが・・・!・・・・・ぇ・・・ぁ」
隆景は、激昂と共に立ち上がる。
謀反人の制圧のために、軍を出さねばならない。
号令をかけようとしたその時
ぷちゅっ
彼の脳の奥で、何かが弾ける音がした。
「(・・・え?)」
ドサッ
小早川隆景は、立ち上がった瞬間、力が抜けたようにそのまま前に倒れ込む。
受け身すら取らずに倒れていったその姿に、伝令や周囲にいた文官たちは焦り、
「と、殿いかがなされました!」「大丈夫ですか!殿、殿ぉ!」「い、医者を呼べ!早く!」と、誰もがパニックに陥った。
家臣たちの悲鳴が遠くでの出来事のように聞こえる。
「(あぁ・・・俺は死ぬのか・・?)」
意識だけは必死に体を動かそうとするが、全く体に力が入らない。
ぼーっとする部分もあるが、意識はハッキリしているといえる。
隆景は床に倒れ伏したまま、必死に体を動かそうとした。
起こしてくれ!と叫ぶも、実際に口から漏れたのは「お・・・・あ」という意味をなさない音だけだった。
手足が全く動かない。
指の一本さえ動かない。
自分の体が何一つ思い通りにならない状態だ。
今の隆景は、明晰な知性を持つ、ただの肉人形だった。
しばらくして医師が来る。
その診断は、"中風"
過労と運動不足、そして、塩分過多がもたらした不幸だった。
だが、その原因について、彼が知ることはおそらく生涯ないだろう。
織田家に降伏でもしない限りは・・・
この時を境に、毛利家は坂を下るように転がり落ちていくこととなる。
戦国時代の徒花は、この時を境に完全に散ってしまったのであった。
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───小早川と時を同じくして
関東の巨星もまた、静かにその命脈を絶たれようとしていた。
『北条幻庵』
北条五代を支え続けた、北条家の相談役だ。
九十を超えてなお矍鑠としていた彼だが、近年は食事の質が変わっていた。
「近頃の塩は、雑味がなくて美味いの」
そう言って、好物の汁物を満足げに啜る。
かつては高価ゆえに慎ましく使っていた塩だが、今は湯水のようにある。
長年、粗食を生業としていたが、この時代の粗食というのはそもそも、安い飯という程度の意味合いしかない。
安い塩が大量に出回れば、日常でも多く使われるようになるのは必定だった。
そして、幻庵にとっての不幸は、彼の味覚が加齢によって衰えていたことだった。
彼は、知らず知らずのうちに、老齢にとっては厳しい量の塩分を摂取することとなる。
「織田は凄まじいの・・・。これだけの塩をばら撒ける。それだけで織田の恐ろしさが伝わるわ・・。
あの者らに天下を狙う心算があれば、我が家はとうに・・・・・」
その塩からも、幻庵は織田の力のほどを悟った。
北条一国ではとてもではないが勝てないことも理解した。
だが、その幻庵にもわからないこともあった。
「・・・何故、武田だったのだ。せめて、当家であれば・・・」
天下を納めるのに、武田ではなく北条の力を使ってもらえれば・・。
武田と織田の立地の問題であることも、重々承知はしていたが、それでもなとくできるかは別問題だった。
北条が、相模一国にまで追い詰められた原因には、様々なものがあった。
だが、その中でも大きなものとして、織田の関与があったことは間違いないのだ。
武田の力が増大したのは、確実に織田家の助力のせいだった。
「まぁ、よかろう。武田も今は力を落としておる。畿内では余程に嫌われたようだの。」
「何より、長生きが大事よ。長生きせねば、天下も何も意味はないのだからの」
そういって、彼はその日、床へと入っていった。
翌日。
北条幻庵は、朝になっても起きて来ず、床で冷たくなっているのが発見された。
皆が皆、大往生だと口にしたが、実際には、塩分過多の高血圧が原因の卒中による死だった。
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