EP 8
戦神の額への口づけと、崩壊するメッキ
大公領の国境付近の平原。
つい数分前まで、血走った目で村を滅ぼそうとしていた数十頭のロックバイソンたちは、今やすっかり大人しくなり、私が【善行ポイント通販】で用意した『極上の干し草の壁』と『ハニーかぼちゃペースト』を幸せそうにモグモグと咀嚼していた。
「大公夫人様、本当に、本当にありがとうございます!」
「俺たちの村を、命を……救ってくださって……っ!」
無傷で助かった村人たちが、涙ながらに私のもとへ駆け寄り、何度も何度も深く頭を下げてくれる。
「もう大丈夫ですよ。怪我をした方はいませんか?」
私が屈み込んで、泣きべそをかいていた小さな子供の頭を優しく撫でてあげると、その子は安心したようにふにゃっと笑ってくれた。
PVや投げ銭なんかなくても。この温かい笑顔を見られるだけで、私の心は十分に満たされていた。
「……アマネ」
不意に、私の背中から、低く、そしてどこまでも深く優しい声が降り注いだ。
振り返ると、漆黒の魔剣を鞘に納めたオルフェウス大公が、静かに私を見下ろしていた。
「オルフェウス様。……剣を、抜かずに済みましたわね」
私がホッとして微笑むと、オルフェウス様は大きく息を吐き出し、私の肩を両手で優しく包み込んだ。
「ああ。私は、戦場で血の雨を降らせることしか知らぬ不器用な男だ。あの大群を前にしても、力でねじ伏せ、斬り捨てるという解決策しか浮かばなかった」
彼は、干し草を食む巨大な魔物たちと、歓喜に沸く村人たちを交互に見やり、そして、まるで信じられない奇跡でも目の当たりにしたかのように、目を細めた。
「だが、君は……悲劇が起こる前に、すべてを『優しさ』で終わらせてしまうのだな。……誰も傷つけず、血を一滴も流さずに」
「オルフェウス様……」
オルフェウス様の大きな手が、私の頬にそっと触れる。
黒い革手袋越しのその手は、魔物を斬り裂く時の残酷さなど微塵もなく、ただ私という存在を愛おしんでやまない、熱を帯びた優しいものだった。
「私の妻は、ルナミス軍の防壁よりも強固な盾を、『干し草とカボチャ』で作り上げてしまった。……全く、君という女は、どこまで私の心を満たせば気が済むのだ」
「ふふっ……それは、私の後ろで、オルフェウス様がこうして守ってくださっているからですわ」
私が少しだけ上目遣いに彼を見つめると、オルフェウス様の紫の瞳が、ふっと熱く揺らめいた。
「アマネ……」
彼は、周囲に騎士や村人たちがいるのも構わず、私をその逞しい腕の中へとグッと引き寄せた。
そして、私の額に、誓いの印のような深くて熱い口づけを落としたのだ。
「――っ!?」
私は顔から火が出そうになり、彼の漆黒の軍装の胸元をギュッと握りしめた。
「オ、オルフェウス様っ。皆さんが見ていらっしゃいますわ……!」
「構わん。君がどれほど美しく、慈愛に満ちていようと、君の心とこの身体は、すべて私のものだ。……それを、世界中に見せつけてやらねば、私のこの嫉妬深い心が収まらんのだ」
限界OLとして生きていた前世では、誰かにこんなにも必要とされ、溺愛されることなんて一度もなかった。
不器用で、ちょっと重たいくらいの絶対的な愛情。
それが、私の心の奥底をジンジンと甘く満たし、この人の隣で生きていく幸せを、これでもかというほど実感させてくれていた。
――しかし。
その、この世で最も温かく美しい『真実の愛と善意』の光景を、崖の上から血走った目で見下ろしている男がいた。
「(ふ、ふざけんな……! なんなんだよ、あの感動的な茶番はぁぁっ!!)」
偽りの勇者ゼロスは、エンジェルすまーとふぉんを握りしめ、顔を真っ赤にしてワナワナと震え上がっていた。
彼の練り上げた『悲劇からの逆転劇』という完璧なシナリオは、アマネの干し草の壁によって完全に粉砕されていた。
それどころか、頼みの綱であるスポンサー『炎上神ワイズ』のアカウントが凍結され、自慢の【マネー】スキルで課金することすらできなくなっていたのだ。
「エラーだと!? なんでワイズ様の口座が凍結されてんだよ! クソッ、クソッ! これじゃあ俺の魔力が上げられねぇ! ただの剣術じゃ、あの牛の群れを一発で吹き飛ばす派手な絵面が撮れねぇじゃねぇか!」
ゼロスは、スマートフォンの画面を何度も乱暴に叩いたが、システムは無情なエラー音を返すだけだった。
見栄と金で塗り固められた彼から、『課金』という最大の武器が奪われた。
残されたのは、整形された顔と厚底ブーツ、そして中身がスッカラカンの、卑屈で小賢しいプライドだけ。
「許さねぇ……! 俺の配信を、俺の栄光を邪魔しやがって……!!」
パニックと怒りで完全に理性を失ったゼロスは、カメラマンたちを突き飛ばし、崖の斜面を転がるようにして平原へと駆け下りていった。
「おい、てめぇら!!」
平和な空気に包まれていた私たちの前に、泥だらけの純白の鎧を引きずりながら、ゼロスが乱入してきたのである。
「……勇者様?」
私が驚いて振り返ると、ゼロスは顔を醜く歪め、私を指差して金切り声を上げた。
「この平民上がりが! お前が余計なことをするから、俺の計画が全部パーになったじゃねぇか!」
「計画……?」
「とぼけんな! 俺がわざわざ闇商人から『凶暴化の香炉』を買い付けて、あの牛どもを村へ向かわせたんだぞ! 村が半分くらいぶっ壊れて、お前らが泣き叫ぶ『最高の絵面』が撮れるはずだったのに……お前のそのふざけた草の山のせいで、俺の『自作自演のやらせ』が台無しになったんだよぉぉっ!!」
――シーン。
ゼロスの口から飛び出した、信じられないほどの『最悪の暴露』に。
村人たちも、騎士たちも、そして私も、完全に言葉を失った。
「自作自演……。あなたが、この温厚なロックバイソンたちに薬を使って暴走させ、村を襲わせたというのですか?」
私が静かに、しかし明確な怒りを込めて問いかけると、ゼロスは悪びれる様子もなく鼻を鳴らした。
「当たり前だろ! 悲劇がなきゃ、勇者の活躍は始まんねぇんだよ! だから俺がマッチポンプで炎上させてやったってのに、お前の『金にならない偽善』のせいで、俺のPVとスパチャが全部水の泡だ!!」
ゼロスは、自分の『やらせ』を恥じるどころか、それを邪魔されたことへの逆恨みで完全に発狂していた。
「……なるほど。貴様のその腐り切った腹の底、よく分かった」
ズォォォォォォォッッ!!!!
私の隣で、オルフェウス様が、先ほどまで私に向けていた甘い眼差しを完全に消し去り、地獄の底から響くような声で呟いた。
彼から放たれる『戦神の殺気』が、今度こそ物理的な圧力となって、平原の空気を軋ませる。
「ひぃっ……!」
ゼロスは、その圧倒的な威圧感に、ヒュッと息を呑んで後ずさった。
課金バフを失った彼にとって、オルフェウス大公の殺気は、ただの「死の宣告」に他ならない。
「我が領民を道具として扱い、悲劇を弄んだ罪。そして、我が妻の『無償の善意』を愚弄した罪。……天界の犬であろうと、もはや生かしてはおかん」
オルフェウス様が、漆黒の魔剣をスッと引き抜く。
「ま、待てよ! 俺はインフルエンサーだぞ! 俺を殺せば、天界のワイズ様が黙ってねぇし、ネットで大炎上するぞ! ゴリラ大公、てめぇの評判も地に落ちるんだからな!」
ゼロスは、みっともなく腰を抜かしながら、必死に自分の『見栄(影響力)』を盾にしようとした。
――しかし。
その時、私たちのすぐ背後の茂みから、聞き慣れた二つの声が、冷酷な笑い声と共に響いたのである。
「(……はいはーい、アマネお嬢! その必要は全くないっすよ!)」
「(ええ、このクズの炎上なら、もう『始まって』いますわ)」
茂みから立ち上がったのは、大公邸のポンコツコンビ――フェイトさんとリーザさんであった。
リーザさんの手には、光り輝く『エンジェルすまーとふぉん』が掲げられており、そのレンズは、顔面蒼白のゼロスをしっかりと捉えていた。
「な、なんだお前ら!? そのカメラ……まさか!」
ゼロスが震える声で叫ぶ。
「アイドルの特技、『ゲリラ・シークレット生配信』ですわ」
リーザさんが、極上の(極悪な)営業スマイルを浮かべて宣告した。
「勇者ゼロス様。あなたが今、自分の口で暴露した『やらせの悲劇の自作自演』。……ゴッドチューブの裏機能を使って、全世界に、ノーカットで『生放送』させていただきましたの!」
――限界OLの『見返りを求めない善行』を鼻で笑った偽りの勇者は。
自らの口と、見下していた地下アイドルが仕掛けた隠しカメラによって、己の最悪のメッキを全世界に晒し上げてしまったのである。
因果応報の自滅劇(大炎上)が、ついに完璧な形で幕を開けようとしていた。
読んでいただきありがとうございます。
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