EP 9
「不器用な大公の、重すぎない極上の溺愛」
大公邸で迎える朝は、驚くほど静かで、穏やかだった。
前世の限界OLだった頃の朝といえば、最悪の一言に尽きる。けたたましく鳴る目覚まし時計を叩き割るような勢いで止め、胃に流し込むのは冷たいコンビニのおにぎりか、栄養ゼリーだけ。満員電車で他人のスーツの匂いに顔をしかめながら、「今日もまた手柄を奪われるのか」という絶望と共に会社へ向かっていた。
けれど、今は違う。
ふかふかのベッドで自然と目を覚まし、窓を開ければ、手入れの行き届いた美しい庭園から爽やかな風が吹き込んでくる。
「アマネお姉ちゃん! おはよう!」
元気な声と共に、私の部屋に駆け込んできたのはリンだ。
相変わらず天真爛漫な彼女は、昨日私が【善行ポイント通販】で取り寄せた地球の『ふわふわホットケーキミックス(10pt)』と『無添加メープルシロップ(10pt)』の箱を両手に抱えていた。
「シェフのおじさんに、これで朝ごはん作ってもらお! お姉ちゃんも一緒に食べよ!」
「ふふっ、おはようリン。ええ、厨房に行きましょうか」
大公邸の厨房は、今や私たちにとって憩いの場となっていた。
最初こそ「大公閣下のお客人が厨房に入るなど!」と恐縮していた料理長も、私が地球の便利な調理器具や、極上の調味料(ポイント通販で取り寄せたものだ)をいくつかお裾分けすると、すっかり打ち解けてくれたのだ。
フライパンでこんがりと焼き上げられた、分厚くてふわふわのホットケーキ。
そこにたっぷりのバターとメープルシロップをとろりと掛けると、厨房中がたまらなく甘く、幸せな香りに包まれた。
「んんんーーーっ! ほっぺたが落ちちゃうよぉ!」
リンは目をキラキラさせながら、大きな口でホットケーキを頬張る。
「ゆっくり食べなさい。ほら、口の周りがシロップだらけよ」
私がハンカチで彼女の口元を拭ってあげると、リンはえへへと嬉しそうに笑った。
前世では、誰かと一緒に「美味しいね」と笑い合いながら朝食を食べる時間なんて、一秒たりともなかった。
リンのこの無邪気な笑顔を見ているだけで、私の心はじんわりと満たされていく。闘気も魔法もない私でも、こんな風に大切な「お友達」を笑顔にできることが、たまらなく嬉しかった。
「――朝から、ずいぶんと幸せそうな匂いがするな」
ふいに、厨房の入り口から落ち着いた低い声が響いた。
振り返ると、軍服をカッチリと着込んだオルフェウス様が立っていた。朝からすでに数件の政務をこなしてきたのか、少しだけ目元に疲労の色が滲んでいる。
「オ、オルフェウス様! 申し訳ありません、厨房でお騒がせしてしまって……」
「いや、構わない。私の屋敷がこんなに温かい空気に満ちているのは、良いことだ。……それは、君が取り寄せたという珍しいお菓子か?」
「はい。ホットケーキといって、とても甘くて元気が出るんですよ。よろしければ、大公閣下も一口いかがですか?」
私が切り分けたホットケーキを小皿に乗せて差し出すと、オルフェウス様は少し驚いたように瞬きをした後、柔らかな微笑を浮かべてそれを受け取った。
「……美味いな。信じられないほど優しくて、温かい味がする。まるで、君そのものだ」
さらりと、とんでもない甘い言葉を落とすものだから、私の心臓がドキンと跳ねた。
彼は真顔でそういうことを言う。不器用な軍人だと思っていたけれど、その真っ直ぐな言葉は、どんな甘い蜜よりも私の胸の奥を甘く痺れさせる。
「アマネ。食事が済んだら、少し庭園を歩かないか。君に話しておきたいことがある」
「はい、喜んで」
*
朝霧が晴れ始めた、美しい薔薇の咲き誇る庭園。
オルフェウス様は私の歩幅に合わせて、ゆっくりと隣を歩いてくれていた。
ただ隣を歩いているだけなのに、彼から伝わる静かな覇気と、私を気遣う確かな温もりが、絶対的な安心感を与えてくれる。
「昨日、私の部下に命じて、エギルの駐屯地と、ヴァイオレット伯爵家について少し調べさせた」
静寂を破るように、オルフェウス様が口を開いた。
エギルの名前が出た瞬間、私の肩が微かに強張ったのを、彼は見逃さなかった。
「……調べてみて、呆れ果てたよ。エギルは君を『1馬力の無能』と罵りながら、部隊の兵站、経理、人員配置の書類作成から、祝賀会の準備に至るまで、その事務処理のすべてを君一人に押し付けていたそうだな。おまけに、それをすべて『自分の有能さゆえの手柄』として上層部に報告していた」
オルフェウス様の紫の瞳には、静かだが、確かな怒りの炎が揺らめいていた。
彼が怒っているのは、軍の規律が乱されていたからだけではない。私に対するエギルの「搾取」という行為そのものに、本気で憤ってくれているのだ。
「その上、君の実家であるヴァイオレット伯爵家も、君を厄介者扱いし、エギルからの援助金目当てに君を売り飛ばしていたようなものだった。……アマネ。君は、どれほど孤独で、理不尽な思いを抱え込んで生きてきたんだ」
オルフェウス様の大きな手が、私の両手をそっと包み込んだ。
彼の手の温もりが、私の芯にある凍りついていた部分をゆっくりと溶かしていくのを感じた。
「……もう、慣れっこでしたから」
私は静かに首を振った。
エギルだけではない。前世の限界OL時代から、私はずっとそうやって生きてきた。他人に手柄を奪われ、都合よく使われ、「役に立たなければ捨てられる」という恐怖と戦いながら、すり減るまで働き続けた。
「私が頑張らなければ。私が有能であることを証明しなければ、私には居場所なんてない。価値なんてない……ずっと、そう思っていたんです」
ふっと、自嘲するような笑みがこぼれた。
しかし、次の瞬間。
オルフェウス様は私の手を引き寄せ、ごく自然な動作で、私をその大きな胸の中にすっぽりと抱きしめたのだ。
「え……っ、オ、オルフェウス様……!?」
「それは違う。断じて違うぞ、アマネ」
耳元で響く、彼の低く切実な声。
軍服越しに伝わる彼の力強い鼓動が、私の全身を熱くする。
「君の価値は、君がどれだけ働けるか、どれだけ私の役に立つかなどで決まるものではない。君がそこにいて、ただ微笑んでくれるだけで……君のその純粋な優しさが存在しているだけで、私や、この屋敷の者たちはどれほど救われているか」
オルフェウス様は私をそっと引き離し、真摯な眼差しで私の瞳を覗き込んだ。
「君はもう、誰かのために無理をして役に立とうとしなくていい。ただ、君が君らしく、幸せに笑っていてくれること。それが私の最大の望みだ」
そう言って、彼は胸元のポケットから、小さなベルベットの箱を取り出した。
箱を開けると、そこには、美しい紫色の宝石――アメジストがあしらわれた、繊細な銀の髪留めが収められていた。
「私の瞳の色と、君の家名を象徴する花をあしらって作らせた。……これを、私の庇護と、絶対の誓いの証として受け取ってほしい」
オルフェウス様は、私の髪にそっとその髪留めを飾ってくれた。
重すぎない、けれど確かな独占欲と、深い溺愛が込められた贈り物。
「もう二度と、誰にも君を虐げさせはしない。私を、頼ってくれないか」
その言葉に、私の瞳から、堪えきれない涙がポロポロと溢れ出した。
前世で一人きりで死んだ夜。誰かに言ってほしかった言葉を、今、この世界で最も気高く、力強い人が言ってくれている。
搾取され続けた私の魂が、彼の手によって完全に救済された瞬間だった。
「……はいっ。ありがとうございます……オルフェウス様……っ」
私は泣き笑いの顔で、彼の言葉に深く頷いた。
*
【幕間:自滅への暴走】
一方、その頃。
ルナミス帝国軍、エギルの執務室からは、ガシャン!と物が壁に叩きつけられるけたたましい音が響いていた。
「ええい! どいつもこいつも、役立たずのクズどもめ!」
エギルは血走った目で、机の上の書類をめちゃくちゃに散らかしていた。
昨日から、彼の部隊の訓練は完全にストップしている。兵士たちは胃腸の限界と慢性的な睡眠不足で次々と倒れ、誰一人として『二郎系超回復理論』の過酷なメニューをこなすことができなくなっていた。
さらには、軍務の書類処理も滞り始めていた。
これまでアマネが一人で完璧にこなしていた膨大なデスクワーク。いざエギル自身や副官がやろうとすると、どこに何の発注書があるのか、スケジュールはどう組まれていたのか、全く把握できず、パニック状態に陥っていたのだ。
「少将閣下! このままでは、明日の軍事総会での部隊演習に穴が開いてしまいます! それだけは、マルクス皇帝陛下やオルフェウス大公閣下に対して致命的な失態となります!」
副官が青ざめた顔で報告する。
その言葉に、エギルはギリッと奥歯を噛み締めた。
彼のプライドが、自分の無能さを認めることを全力で拒否していた。
「……ふん。分かっている。少し、やり方を間違えただけだ」
エギルは忌々しげに舌打ちをした後、まるで良いことを思いついたかのように、醜く口角を歪めた。
「あの無能女……アマネめ。どうせ行く当てもなく、今頃は帝都の路地裏で泣きながら後悔しているに違いない。婚約破棄された女が一人で生きていけるはずがないのだからな」
「し、しかし……」
「俺が直接出向いて、再び軍に戻ることを『許して』やればいい。そうすれば、奴は泣いて喜んで、また俺のために死に物狂いで働くはずだ!」
自分の部隊が崩壊している原因が、アマネの「裏の優しさ(善行)」を失ったからだと理解しつつも、彼はまだ、アマネを自分の「都合のいい道具」としてしか見ていなかった。
自分が行って命令すれば、彼女は当然のようにひれ伏し、自分のもとへ這いつくばって戻ってくると思い込んでいるのだ。
「待っていろ、アマネ。お前が泣いてすがりつく姿を見てやる」
エギルは傲慢な笑みを浮かべ、少数の側近だけを引き連れて、帝都の街へと探しに出発した。
彼が向かおうとしている先――そこが、自分のような浅薄な男が絶対に立ち入ってはならない、最高権力者の『逆鱗』であることにも気づかずに。
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