EP 10
「崩壊する元婚約者の部隊」
オルフェウス様から贈られた、アメジストの髪留め。
朝、鏡の前でそれを髪に飾るたび、私の胸の奥に温かいものが広がっていくのを感じる。
「わぁっ! アマネお姉ちゃん、それすっごく似合ってる! キラキラしてて、お姉ちゃんの綺麗な髪にぴったりだね!」
後ろから抱きついてきたリンが、目を輝かせて髪留めを褒めてくれた。
「ありがとう、リン。オルフェウス様がくださったのよ」
「うんっ! あのお兄さん、本当にアマネお姉ちゃんのこと大事にしてるんだね。私、あのお兄さんのこと、もっと好きになっちゃった!」
天真爛漫なリンの言葉に、私は照れくさく思いながらも、深く頷いた。
前世では、誰かに自分の存在を肯定されることなんて一度もなかった。ただの「便利な歯車」として消費され、壊れれば捨てられるだけ。
ブラック企業で働いていた頃、私より先に限界を迎えて辞めていった優秀な先輩がいた。先輩がいなくなった途端、部署の業務は完全に回らなくなり、プロジェクトは音を立てて崩壊した。
上に立つ人間は「代わりはいくらでもいる」と豪語していたが、実際には、その人がいかに裏で泥臭い調整をし、チームの潤滑油になっていたかに気づいていなかったのだ。
今のエギルも、きっと同じだろう。
私が裏でどれだけ兵士たちの精神的なケアをし、事務作業をこなしていたか。それを失った今頃、彼の部隊がどうなっているかは想像に難くない。
けれど、今の私にはもう何の関係もないことだ。私はただ、私を大切にしてくれる人たちのために、このささやかな力を使いたい。
「お姉ちゃん、お庭に行こう! 今日はお日様がぽかぽかしてて、すごく気持ちいいよ!」
「ええ、そうね」
リンと手を繋いで、広大な庭園へと向かう。
庭の奥では、初老の庭師が、立派な生垣の手入れをしながら「いててて……」と腰をトントンと叩いていた。
『チャリン♪』
私はすかさず【善行ポイント通販】のウィンドウを開いた。
最近、屋敷の人々にちょっとした差し入れをするのが日課のようになっている。私はポイントを使って、地球の『持続性・温感湿布(10pt)』と、日差しの強い中での作業を労うための『熱中症対策・塩タブレット(5pt)』を取り寄せた。
「庭師長さん、お疲れ様です。少し休憩なさいませんか?」
「おお、アマネ様。これはお恥ずかしいところを。少し腰が痛んでおりましてな」
「これを腰に貼ってみてください。じんわりと温かくなって、痛みが和らぎますよ。あと、汗をかいた時はこの塩飴を舐めてくださいね」
「こ、こんな素晴らしいものを……! アマネ様は、我々のような下働きにも等しく御心を砕いてくださる。本当に、女神様のようなお方だ」
庭師長が深く頭を下げるのを笑顔で見送りながら、私は小さく息を吐いた。
誰も蹴落とさない。復讐なんてしない。ただ、目の前で頑張っている人に親切にするだけ。それだけで、世界はこんなにも優しく、温かい場所になるのだ。
「――今日も、朝から屋敷の者を癒やしてくれているのだな」
穏やかな声が聞こえ、振り返ると、軍服姿のオルフェウス様が立っていた。
彼の紫の瞳が、私の髪に光るアメジストの髪留めを捉え、たまらなく愛おしそうに細められる。
「おはようございます、オルフェウス様。今日は少し、お帰りが早いのですね」
「ああ。明日は年に一度の、帝国軍の『軍事総会』がある。各部隊の演習結果の報告や、来期の予算を決める重要な会議だが、その後の夜会には、高位貴族たちがこぞって参加する」
オルフェウス様は私に歩み寄ると、ごく自然な動作で私の手を取り、その甲に唇を落とした。
何度されても、その真っ直ぐな愛情表現に顔が熱くなる。
「アマネ。明日の軍事総会および夜会に、私の『最愛のパートナー』として、エスコートさせてはくれないか」
「え……!?」
私は驚いて目を見開いた。
「わ、私のような身分なき者が、大公閣下の隣に立つなど……それに、私はエギル様に婚約破棄されたばかりの身です。オルフェウス様の経歴に傷がついてしまいます」
「傷などつくものか」
オルフェウス様は、私の言葉を力強く遮った。
「エギルが手放した至宝を、私が拾い上げたというだけの話だ。それに、君がこの屋敷にもたらした功績は、どんな武勲にも勝る。君こそが、私の隣に立つにふさわしい。……どうか、私に君を守る栄誉を与えてくれないか」
その真摯な言葉に、私は胸がいっぱいになり、小さく頷いた。
「……はい。私でよろしければ、喜んで」
彼のエスコートで社交界の場に出るということは、必然的に、元婚約者であるエギルと顔を合わせることを意味する。
だが、今の私には一切の恐れはなかった。最強の親友と、最高権力者の溺愛に守られている私を、あの男がどうこうできるはずがないのだから。
*
【幕間:自滅へのカウントダウン】
その頃。
ルナミス帝国軍、エギルの駐屯地は、完全なる「崩壊」の時を迎えていた。
「もう……無理だ……!」
「俺は、一口も食えねえ……!」
訓練広場。
エギルが誇る『二郎系超回復理論』の根幹である、豚神屋の超特盛りラーメン。
しかし、目の前に置かれたその丼に手を伸ばす者は、誰一人としていなかった。数名の兵士が、油の匂いを嗅いだだけでえずき、地面に嘔吐して倒れ伏している。
「貴様ら! これは俺の命令だぞ! 明日の軍事総会での演習報告がどれほど重要か分かっているのか! 食え! 食って闘気を練り上げろ!」
エギルが顔を真っ赤にして怒鳴り散らすが、兵士たちの目は完全に光を失っていた。
肉体の疲労は回復魔法で誤魔化せても、胃腸の限界と、精神の崩壊はもう止められない。アマネの配っていた地球の胃薬と栄養剤、そして温かい励ましの言葉という「真の支柱」を失った部隊は、わずか数日で完全に瓦解してしまったのだ。
「少将閣下! もう部隊はボイコット状態です! それに、明日の軍事総会へ提出する報告書の作成も、全く終わっておりません! これまではアマネ様がすべて一人で完璧に仕上げてくださっていたため、どこにデータがあるのかすら……!」
青ざめた顔の副官が、震える声で報告する。
その言葉に、エギルはギリッと奥歯を噛み砕くほどの力で食いしばった。
「アマネ……アマネだと! なぜ、あの1馬力の無能女がいないだけで、俺の完璧な部隊がこうも脆く崩れるのだ!」
エギルは己の無能さを認めることができず、ただただ苛立ちを募らせていた。
彼がどれだけ自分の理論を誇示しても、それを現実の「成果」に結びつけていたのは、すべてアマネの献身的な裏方作業と善行のおかげだったのだ。
「少将閣下! アマネ様の行方について、情報が入りました!」
そこへ、街へ探索に出させていた部下の一人が駆け込んできた。
「本当か!? あの女、どこで泣き喚いている! どうせ路地裏で野垂れ死にそうになっているのだろう!」
「い、いえ……それが……」
部下は言いにくそうに視線を泳がせ、やがて声を絞り出した。
「アマネ様は……あの、オルフェウス大公閣下のお屋敷に、滞在されているとのことです」
「な……に?」
エギルの頭の中で、何かがショートした。
オルフェウス大公。帝国最強の男であり、エギル自身の直属の最高司令官。
なぜ、自分が捨てた1馬力の無能が、そんな雲の上の存在の屋敷にいるというのだ。
「ば、馬鹿な……。大公閣下が、あんな無能を拾う理由がない……」
エギルはブツブツと呟きながら、必死に自分の都合の良い解釈を組み立て始めた。
「……そうだ。大公閣下は軍の規律に厳しい御方だ。あのような無能女、きっと哀れに思って、一番下っ端の雑用係として拾ってやったに違いない。今頃、屋敷の隅で酷使されて、涙を流して後悔しているはずだ」
エギルは醜く顔を歪め、傲慢な笑みを浮かべた。
「俺が迎えに行ってやればいい。俺が『許してやるから戻ってこい』と命じれば、奴は喜んで俺にすがりつくに決まっている。そうすれば、部隊の書類も、兵站の管理も、すべて元通りになる!」
自分が捨てた女が、格上の男に「溺愛」されているなどと、彼の浅薄な頭では想像すらできなかった。
彼は、自分の傲慢さがすでに致命的なラインを超えていることに気づかぬまま、マントを翻した。
「馬を出せ! 俺自ら、オルフェウス大公邸に出向いてやる!」
それは、エギルという男が、自らの手で完全なる「破滅の扉」を叩きに行く、終わりの始まりだった。
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