EP 11
「元婚約者の襲来。そして毅然たる拒絶」
明日に控えた帝国軍の『軍事総会』および夜会に向けて、大公邸は華やいだ空気に包まれていた。
「アマネ様、本当によくお似合いです!」
「ええ、オルフェウス様がアマネ様のために特注されたこのドレス、アマネ様の透明感のあるお肌にぴったりですわ!」
私の自室では、メイドのアンナたちが集まり、明日の夜会で着るドレスの最終調整をしてくれていた。
深い夜空のような群青色のシルクに、繊細な銀糸で月と星の刺繍が施された、息を呑むほど美しいドレス。エギルに押し付けられていた、見栄を張るためだけの窮屈なコルセットドレスとは違い、私の体に負担をかけないよう、驚くほど軽くて柔らかい素材で仕立てられている。
前世で限界OLだった頃は、会社の忘年会や祝賀パーティーといえば、いつも幹事や裏方を押し付けられるばかりだった。
他人が楽しむための手配に奔走し、自分は隅の方で冷めた食事をかき込むだけ。綺麗に着飾って、誰かのエスコートで主役のように扱われる日が来るなんて、想像したこともなかった。
「みんな、ありがとう。これも皆さんが普段から手伝ってくれるおかげよ」
「とんでもございません! アマネ様が私どもの荒れた手や疲れをいつも気遣ってくださるからこそ、私たちもアマネ様のために最高の仕事をしたいのです!」
アンナたちが満面の笑みで答えてくれる。
私が【善行ポイント通販】で配ったちょっとしたハンドクリームや入浴剤。そんなささやかな気遣いが、こうして巡り巡って、私自身の周囲を最高に温かい場所にしてくれているのだ。
コンコン、と控えめなノックの音が響いた。
「アマネ様。少々よろしいでしょうか」
扉の向こうから声をかけてきたのは、屋敷の警備を統括する騎士団長だった。
「どうしたの?」
「はっ。実は……門の前に、エギル・ヴァン・ルナミス少将が押し掛けてきておりまして。アマネ様に面会を求め、少々騒いでおります」
「エギル様が……?」
その名を聞いた瞬間、メイドたちの顔がサッと険しくなった。彼女たちも、私がどんな理不尽な理由で屋敷を追い出されたかを知っているからだ。
「アマネ様、お会いになる必要はございません! 騎士団長、すぐにつまみ出してください!」
「ええ。大公閣下もご不在ですし、あのような礼儀知らずな男、門前払いにするのが当然です」
騎士団長も頷き、剣の柄に手をかけたが、私は静かに首を横に振った。
「ありがとう。でも、私が行くわ。……彼には、一度はっきりと自分の口で伝えておかなければならないから」
ここで追い返しても、彼は己の非を認めず、何度も大公邸に迷惑をかけにくるだろう。
私はもう、彼に搾取されていた頃の弱い私ではないのだ。
「お姉ちゃん、私も行く!」
部屋の隅でおやつを食べていたリンが、パタパタと駆け寄ってきて私の手をぎゅっと握った。
「あのバカ男がお姉ちゃんをいじめるなら、私がやっつけるからね!」
「ふふ、ありがとうリン。でも、ただお話ししてお別れするだけだから、大丈夫よ」
私はリンと手を繋ぎ、騎士たちに守られながら、大公邸の重厚な正門へと向かった。
*
「おい! さっさと門を開けろ! 俺はルナミス軍の少将だぞ!」
鉄格子の向こうで、エギルが苛立たしげに声を荒げていた。
門前に立つ彼の姿を見て、私は微かに息を呑んだ。
いつも完璧に整えられていた銀髪は乱れ、軍服にはシワが寄っている。何より、目の下には濃いクマができ、頬はゲッソリとこけていた。
己の『二郎系超回復理論』が崩壊し、部隊の事務処理にも追われ、極限まで追い詰められているのが一目でわかる惨状だった。
「エギル様」
私が静かに声をかけると、エギルは弾かれたように顔を上げた。
「アマネ……!」
エギルは私の姿を見た瞬間、目を見開いた。
きっと彼は、私が大公邸の片隅でボロボロになって下働きをしていると思っていたのだろう。
しかし、目の前にいる私は、艶やかな髪にアメジストの髪留めを輝かせ、上質な服を身に纏い、健康的で晴れやかな表情をしている。彼とは完全な対極だった。
それでも、エギルは己のプライドを保つように、傲慢な笑みを顔に貼り付けた。
「ふん。やはりここにいたか。こんな場所で下働きなど、さぞ辛かっただろう。だが安心しろ。俺が直々に迎えに来てやったぞ」
「……迎えに、ですか?」
「そうだ。少し、部隊の書類整理が滞っていてな。お前のような1馬力の無能でも、事務作業くらいは役に立つ。俺が『許してやる』から、今すぐ荷物をまとめてついてこい」
相変わらずの、人を道具としか見ない言葉。
かつての私なら、この声に怯え、「見捨てられないように」と従っていたかもしれない。
でも今は、心の底から冷めた感情しか湧いてこなかった。彼への怒りすらなく、ただただ、哀れな人だとしか思えない。
「エギル様。お気遣いには感謝いたしますが、お断りいたします」
私は真っ直ぐに彼の目を見て、静かに、けれどはっきりと告げた。
「な……んだと?」
「私はもう、あなたのもとへ戻るつもりは一切ございません。どうか、お引き取りください」
「強がるな! お前のような無能が、大公邸でまともな扱いを受けているはずがないだろう! 意地を張っていないで、俺の恩情にすがりつけばいいんだ!」
エギルが顔を真っ赤にして鉄格子を掴み、怒鳴りつける。
私は微かに微笑んだ。
「強がりではありません。私は今、とても幸せなのです。私の頑張りを認めて、大切にしてくださる方と……心から大好きだと言える、大切なお友達に囲まれていますから」
私がリンの手を優しく握ると、エギルはギリッと歯を食いしばった。
自分の都合の良いシナリオが崩れ去り、本気で私に拒絶されているという事実が、ついに彼の薄っぺらい自尊心を傷つけたのだ。
「このッ、恩知らずが……! 俺がどれだけお前を庇護してやってきたか……!」
エギルが激昂し、鉄格子の隙間から無理やり手を伸ばして、私の腕を掴もうとしたその瞬間。
「――お姉ちゃんに、触るな!!」
バリバリバリッ!!
リンが鋭く叫んだ瞬間、彼女の小さな体から、金色の凄まじい雷光が弾けた。
それは、大公邸の騎士たちすら息を呑むほどの、神々しくも圧倒的な『聖獣』の気配。
放たれた一条の稲妻が、エギルの伸ばした手の数ミリ先、鉄格子の石柱を深々と黒焦げに穿った。
「ひぃっ!?」
エギルは悲鳴を上げ、無様に尻餅をついて地面を転がった。
恐怖で見開かれた瞳が、私の隣で金色のオーラを漂わせるリンを震えながら見上げている。
「私の最高のお友達に、これ以上近づいたら……次は黒焦げにするからね!」
リンが小さな拳を握りしめて睨みつけると、エギルは顔面を蒼白にして、声も出せずに後ずさった。
「リン、ありがとう。もう十分よ」
私はリンの肩を撫でて雷を鎮めさせると、地面にへたり込むエギルを見下ろした。
「……そういうことです。あなたの部隊のことは、ご自身の力でなんとかなさってください。有能なあなたなら、きっとお一人でもできますわよね」
私は彼に手を下さず、罵倒すらしない。
ただ、彼が私から搾取していた事実と、これからの彼の自滅を、冷徹に切り離しただけだ。
「さようなら、エギル様。もう二度と、私の前には現れないでください」
私は背を向け、騎士団長に目配せをした。
重厚な正門が、ガシャンと音を立てて完全に閉ざされる。
鉄格子の向こうで、すべてを失ったエギルが、呆然と地に伏したまま動けなくなっているのが見えた。
*
「――見事な決着だったな、アマネ」
屋敷のエントランスに戻ると、軍議から帰還したばかりのオルフェウス様が立っていた。
彼は私が門で対峙していたのを、静かに見守ってくれていたらしい。
「オルフェウス様……申し訳ありません、お屋敷の前で騒ぎを起こしてしまって。お手を煩わせる前に、自分の過去には自分で決着をつけたかったのです」
「謝る必要はない。君は毅然としていて、とても気高かった」
オルフェウス様は私に歩み寄ると、私の頭を大きな手でそっと撫でた。
「不要な情に流されず、己の足で立ち、過去を切り捨てた。……君は本当に強い人だ」
「オルフェウス様やリンが、私に居場所をくださったからです。一人では、きっとあんな風には言えませんでした」
「ふっ。君はどこまでも謙虚だな」
オルフェウス様は目を細め、私の髪を飾るアメジストの髪留めにそっと触れた。
「明日は軍事総会。エギルの無能さが、全帝国軍の前に白日の下に晒される日だ。そして、君が私の隣に立つ日でもある」
彼の深い紫の瞳が、熱を帯びて私を見つめる。
「さあ、明日に備えてゆっくり休むといい。君の美しい晴れ姿を、楽しみにしているよ」
私は深く頷いた。
過去の鎖は、今日で完全に断ち切った。明日からは、ただ幸せになるために、この人の隣を歩いていくのだ。
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