EP 4
戦神の過保護な盾と、夜風に溶けるジェラシー
「――気安く私の妻に触れるな、三下」
ルナミス帝国の帝都、大公邸のプライベートガーデン。
キンキンに冷えたビールと枝豆の悪魔的なマリアージュによって、完全に出来上がった『酔っぱらいのオジサン』と化していた邪神・デュアダロス。
彼が「俺の隣で酌をしてくれや」と私の腕を引こうとした、まさにその瞬間だった。
横から伸びてきた黒い革手袋に包まれた大きな手が、デュアダロスの手首を万力のような力でガッチリと掴み止めていた。
普段は冷静沈着なオルフェウス様の深い紫の瞳が、今は獲物を狙う猛禽類のように鋭く細められ、周囲の空気を物理的に凍てつかせるような凄まじい『戦神の殺気』を放っている。
「痛っ!? い、痛てててててっ!! 折れる! 手首が砕ける!! てめぇ、なんてバカ力してやがるんだ、このゴリラ大公!!」
デュアダロスが、アルマーニのスーツを乱しながら、涙目で情けない悲鳴を上げた。
神話の時代、世界を二分した恐るべき邪神の手首が、人間の(とはいえ規格外の)大公の握力によってミシミシと嫌な音を立てている。
「オ、オルフェウス様! どうかお手を離してあげてくださいませ!」
私は慌てて、オルフェウス様の逞しい腕にすがりついた。
前世のブラック企業時代、接待の席で酔っ払った取引先のオジサンが「お姉ちゃん、こっち来てお酌してよ」と絡んでくるのは日常茶飯事だった。
限界OLの私にとっては、そんなセクハラまがいの要求など「あーら、社長ったら酔っ払いすぎですよ〜。お酒こぼしちゃいますから、私はこちらで注ぎますね」と、笑顔で華麗にスルー(物理回避)するのがお決まりのルーティンだったのだ。
今回も、仕事(クレーム対応)モードに入っていた私は、適当にあしらって枝豆のお代わりでも差し出すつもりだったのだが。
「……アマネ、君は少し下がっていなさい」
オルフェウス様は、デュアダロスの手首を握ったまま、空いているもう片方の手で私の肩を抱き寄せ、自分の大きな背中の後ろへとスッと隠した。
「いくら哀れなクレーマーとはいえ、これ以上の無礼は、私の剣が許さん」
オルフェウス様の低く、地を這うような声が響く。
「君は、私の誇り高き妻だ。このような無頼漢に酌をしてやる義理など、どこにもない。……こいつがこれ以上君を汚れた目で見るというなら、私がこの場で、その目をくり抜く」
――ドクンッ。
その言葉を聞いた瞬間。
私の心臓が、肋骨を突き破りそうなほど大きく跳ね上がった。
私の目の前にある、漆黒のマントに包まれた、広くて逞しい背中。
彼から漂う、微かな葉巻と、落ち着いた男性用の香水の香り。
どんな強大な敵(神)を前にしても一歩も引かず、ただ『愛する妻を守る』という一点において、一切の容赦を持たないその圧倒的な男らしさ。
(あぁっ……もう……っ。どうしてこの方は、いつもこういう時に……っ)
仕事(クレーム対応)だと割り切って、感情を殺して接客をしていた限界OLの分厚い鎧が。
彼の不器用で、けれど誰よりも深く熱い『独占欲』の前に、音を立てて崩れ去っていくのを感じた。
顔の温度が一気に急上昇し、耳の先まで真っ赤に染まっていくのが自分でも分かる。
「オ、オルフェウス、様……」
私は、彼の大マントの裾を、両手でギュッと握りしめることしかできなかった。
前世で、理不尽に怒鳴られても、セクハラまがいの要求をされても、会社の上司は誰も私を庇ってくれなかった。「うまくやれよ」と笑って見ているだけだった。
でも、今世の私の夫は違う。
私が少しでも嫌な思いをすれば、それが世界の理(神)であろうと、本気で怒り、本気で守り抜いてくれるのだ。
(反則ですわ……。こんなの、ドキドキしないわけがありませんもの……っ)
私は、彼の広い背中に額をコツンと押し当て、上がりきった心拍数を必死に落ち着かせようとした。
「イ、イテテテテッ! 分かった! 分かったから離せ!! 俺が悪かった! 嬢ちゃんには指一本触れねぇから!!」
デュアダロスが、ついに耐えきれずに地面をバンバンと叩いて降伏した。
「……二言はないな」
オルフェウス様が、氷のような視線でもう一度念を押し、バッと手を離す。
「いってぇぇ……! なんだよテメェ、マジで容赦ねぇな! 神の骨にヒビが入るかと思ったぜ……」
デュアダロスは、解放された手首をさすりながら、涙目でオルフェウス様を睨みつけた。しかし、大公の微動だにしない威圧感の前に、すぐに視線を逸らしてシュンと肩を落とした。
「……チッ。なんだよ、どいつもこいつも。俺をヤカラ扱いしやがって……」
極道神は、空になったビールのジョッキを両手で包み込むように持ち、芝生の上にペタンと座り込んだ。
そして、なぜか急に、いじけたようにポロポロと涙をこぼし始めたのだ。
「いいよなぁ、大公さんはよぉ……。そんなに可愛くて、優しくて、メシの美味い嫁さんがいてよぉ……」
「……は?」
オルフェウス様が、あまりの急展開に戸惑いの声を漏らす。
「俺なんか、古代大戦で負けてからずっと、天魔窟のカビ臭いヤクザ事務所(独房)で一人ぼっちだぜ? ルチアナの奴は『永遠の十七歳』とか痛いこと言って下界で遊び歩いてるし、フレアの野郎は弁当のデリバリーを忘れやがるし!……誰も、俺の隣で一緒に酒を飲んでくれる奴なんていねぇんだよぉぉっ!!」
「え、あ、あの……デュアダロス様……?」
なんと。
インテリヤクザな邪神は、ビールを一気飲みしたことによる『悪酔い』と、オルフェウス様の『アマネへの過保護っぷり』を見せつけられたことによる強烈な『孤独感(非リア充の悲哀)』によって、完全に泣き上戸のメンヘラおじさんと化してしまったのである。
「うわぁぁぁん! 俺だって、俺だって本当は、誰かに優しく酌をしてもらいたかっただけなのにぃぃっ! シャバの温もりが恋しかっただけなのにぃぃっ!!」
デュアダロスが、アルマーニの袖で顔をグシャグシャに拭いながら、大声で泣きわめいている。
その姿は、もう世界を滅ぼす邪神でもなんでもない。ただの、キャバクラで女の子に冷たくされて泣いている、寂しい哀愁オジサンである。
「オ、オルフェウス様。……すっかり毒気が抜けてしまったようですわね」
私は、彼の背中からそっと顔を出し、苦笑いしながら囁いた。
「……う、うむ。まさか、一国の主である私が、酒乱の愚痴を聞かされる羽目になるとはな……」
オルフェウス様も、完全に殺気を削がれ、魔剣を鞘に納めて額を押さえていた。
(でも、これでお酒のおかわりをお出ししないわけにはいきませんわね……。私がお酌をするのは、オルフェウス様が絶対に許してくださらないでしょうし)
私は、エプロンのポケットの中で思案した。
限界OLのクレーム対応術において、「寂しくて絡んでくるオジサン」には、適度な相槌と、賑やかな話し相手(ホステス役)をあてがって、徹底的に承認欲求を満たしてあげるのが一番効果的だ。
私の視線の先。
茂みの陰で、「ヤバい展開っすね」「でも、あの邪神、案外チョロそうですわよ」とヒソヒソ囁き合っている、大公邸のポンコツコンビ(フェイトさんとリーザさん)の姿が目に入った。
「フェイトさん、リーザさん。……そしてリンちゃん」
私は、完璧な営業スマイルを浮かべ、彼らに向かって手招きをした。
「へっ? 俺たちっすか?」
「は、はい! アマネ様、お呼びでしょうか!」
恐る恐る近づいてきた二人のクズと、手にお煎餅を持ってニコニコしている親友の聖獣。
「デュアダロス様が、お一人で寂しがっていらっしゃいます。あなたたち三人で、お客様のお相手(接待)をして差し上げて。……もちろん、今日の大公邸の『みかじめ料』は、お客様の懐から巻き上げて構いませんわよ」
「「み、みかじめ料!?」」
その言葉を聞いた瞬間。
フェイトさんのギャンブラーの瞳と、リーザさんのアイドルの瞳に、ギラリと『¥』のマークが点灯した。
「そういうことなら任せるっす! 酒の席の盛り上げとサイコロ博打なら、俺の右に出る者はいないっすよ!」
「ええ! アイドルの営業スマイルで、あのチョロそうなオジサンから、天魔窟のレアアイテムを絞り尽くしてやりますの!」
現金なダメ人間二人は、先ほどまでの恐怖を完全に忘れ去り、いそいそとデュアダロスのもとへと向かっていった。
「おっちゃん、泣かないで! リンが、美味しいスルメを焼いてあげるね!」
リンちゃんも、邪神の威圧感など全く気にせず、トコトコと歩いていく。
こうして、オルフェウス様の不器用で激甘な独占欲によって守られた私は、直接的な接客(ホステス業務)を免除され。
代わりに、大公邸が誇る『ポンコツ&聖獣トリオ』による、極道神への前代未聞のドンチャン騒ぎ(接待)が幕を開けることになったのである。
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