EP 7
「ガチガチの軍人屋敷を、地球のアイテムで温める」
オルフェウス大公の馬車に揺られ、到着した先は、帝都の特区にそびえ立つ巨大な屋敷だった。
黒曜石と白亜の石材で組まれた外壁は、貴族の邸宅というよりは難攻不落の要塞に近い。門をくぐると、銀の甲冑に身を包んだ護衛騎士たちが、一糸乱れぬ動きで大公に向けて敬礼をした。
「アマネ嬢、長旅ご苦労だった。ここが私の屋敷だ」
「立派な邸宅ですね。……少し、軍事施設のような趣もありますけれど」
「はは、耳が痛いな。私が軍務に追われているせいで、屋敷の者たちにもつい軍隊式の規律を求めてしまっていてな。機能的ではあるが、潤いには欠けるだろう」
大公は苦笑しながら、私とリンを屋敷の中へと案内してくれた。
エントランスホールには塵一つ落ちておらず、すれ違うメイドや執事たちは、秒針のように正確な動きで職務をこなしている。私語は一切なく、ただ主への忠誠と義務感だけで動いているのが伝わってきた。
エギルの駐屯地のような、人を使い潰す悪意や理不尽な搾取はない。彼らは正当な対価と誇りを持って働いている。
だが――あまりにも「ガチガチ」だった。
前世の限界OLだった頃を思い出す。
私の勤めていたブラック企業では、休憩室ですら気が休まらなかった。安いインスタントコーヒーの粉が散らばったテーブルで、誰もが無言でスマホを見つめ、5分で食事を胃に流し込んでデスクに戻っていく。効率と緊張感だけが支配する、冷たくて息の詰まる空間。
この屋敷で働く人たちの目にも、あの頃の私や同僚たちと同じ「慢性的な疲労と緊張」の色が微かに滲んでいた。
「アマネお姉ちゃん、ここ、すっごく広くて綺麗だけど……なんか、ちょっと寒々しいね」
私の隣で、大公邸の大きさに目をパチクリさせていたリンが、私の服の裾をきゅっと掴みながら小声で言った。神獣である彼女は、空気や感情の揺れに敏感なのだろう。
「そうね。……大公閣下、私に少し、屋敷の中を案内していただけますか?」
「ああ、構わない。私はすぐに軍議へ向かわねばならないから、執事長に案内させよう。好きなように過ごしてくれていい」
大公は私の手を取り、労わるように優しく微笑んでから、軍務へと向かっていった。
残された私は、執事長に案内されながら屋敷を巡り、そして、使用人たちが短い休憩を取るための控室へと案内してもらった。
そこでは、数人のメイドたちが立ったまま、冷めた薄い紅茶を急いで喉に流し込んでいるところだった。
「ひっ、ア、アマネ様! 大公閣下のお客人とは知らず、失礼を……!」
「いいのよ、そのまま楽にしていて」
慌てて頭を下げるメイドたちを制し、私は彼女たちの手元を見た。
疲労の溜まった体には、冷たくて渋いお茶より、もっとふさわしいものがあるはずだ。
私が彼女たちの力になりたい、少しでもこの緊張を解きほぐしてあげたいと心から願った瞬間だった。
『チャリン♪』
【純粋な善行を検知しました。100ptを獲得。】
【現在のポイント:120pt】
脳内に響く澄んだ音と共に、私は【善行ポイント通販】のウィンドウを開いた。
リストの中から選んだのは、地球の高級茶葉を使った『カモミール&アップルのハーブティー(15pt)』と、疲労回復に効く『純粋はちみつ(10pt)』。さらに、地球の洋菓子店で作られた『バターたっぷりの焼き菓子アソート(20pt)』だ。
「少し、お湯を貸してもらえるかしら」
私が空間から突如としてティーセットと焼き菓子の箱を取り出すと、メイドたちは目を丸くした。
手早くお湯を沸かし、ティーポットにハーブティーの茶葉を入れる。ふわりと、甘いりんごとカモミールの安らぐ香りが控室いっぱいに広がった。
「わぁ……すっごくいい匂い! お花とりんごの匂いがする!」
リンが鼻をヒクヒクさせて目を輝かせる。
「さあ、お茶が入ったわ。はちみつを少し垂らすと、もっと美味しくなるのよ。お菓子も開けるから、みんな座って」
「そ、そのような! 大公閣下のお客人からお茶を淹れていただくなど、恐れ多くて……!」
「私からの差し入れよ。立ち仕事で足がパンパンでしょう? 5分でもいいから、座って息を抜かないと、心がカサカサになっちゃうわ」
私の強引ながらも優しい勧めに、メイドたちは恐る恐る椅子に腰を下ろした。
そして、温かいハーブティーを一口飲んだ瞬間――彼女たちの瞳から、ポロポロと大粒の涙がこぼれ落ちた。
「……っ、美味しい……なんて、温かくて、優しい味なんでしょうか……」
「体の中の強張りが、スゥッと溶けていくみたいです……。焼き菓子も、バターの香りが凄くて、口の中でほろほろと崩れて……うぅっ」
軍隊式の張り詰めた日々の中で、彼女たちはずっと気を張っていたのだ。
前世の私には、こんな風に誰かに温かいお茶を淹れてもらえる機会なんて一度もなかった。ただ搾取され、すり減っていくだけの毎日だった。
だからこそ、今こうして「見返りを求めない優しさ」を誰かに渡すことができて、それが相手の心を癒やしているという事実が、私自身の心をも満たしてくれた。
「アマネお姉ちゃん! 私もお茶飲む! お菓子も食べる!」
「ええ、いっぱい食べなさい」
口の周りにクッキーの欠片をつけたリンの頭を撫でながら、私は微笑んだ。
その後、私は屋敷の裏手で警備の交代をしていた護衛騎士たちの元へも足を運んだ。
重い甲冑を着込んだ彼らの肩は、見るからにバキバキに凝り固まっている。
『チャリン♪』
ポイントを消費して取り寄せたのは、地球の『高濃度炭酸入浴剤(柚子の香り・20pt)』と『温泉成分配合・疲労回復バスソルト(20pt)』だ。
「皆様、警備お疲れ様です。もしよろしければ、今夜の入浴の際にこちらをお湯に入れてみてくださいな」
「アマネ様……? これは、魔力石の一種でしょうか。シュワシュワと音が鳴っておりますが」
「炭酸の泡が、筋肉の奥の疲労物質を洗い流してくれるお薬のようなものです。柚子の香りで、きっとよく眠れますよ」
いかにも屈強な騎士たちが、小さな入浴剤のタブレットを不思議そうに、けれどとても大切そうに両手で受け取る。
その日の夜、大公邸の兵士用大浴場から「うおおおぉぉ! なんだこのシュワシュワは! 肩の痛みが消えていくぞ!」「柚子の香りがたまらん! 天国だぁー!」という野太い歓声が響き渡ることになるのだが、それはまた別の話だ。
私は誰も蹴落とさない。エギルに対する復讐も企てていない。
ただ、地球のアイテムを使って、目の前で疲れている人たちに親切にしただけだ。
けれど、その「善行」は、わずか半日の間に、冷え切っていた軍人屋敷の空気を劇的に温かく、柔らかいものへと変えてしまった。
*
夕方。
軍議から予定より早く帰還したオルフェウス大公は、エントランスホールに足を踏み入れた瞬間、微かに目を丸くした。
いつもなら、ピリピリとした緊張感が出迎えるはずの屋敷内が、どこかふんわりと明るい。
すれ違うメイドたちの表情には自然な笑みが浮かび、警備に立つ騎士たちの顔色は驚くほど良く、足取りも軽い。
そして、屋敷の奥からは、ほんのりと甘いカモミールと焼き菓子の香りが漂ってきていた。
「……一体、我が家で何が起きたのだ」
大公が呟きながらサロンの扉を開けると、そこには、ソファですっかりくつろいで昼寝をしているリンと、彼女に膝枕をしながら読書をしている私の姿があった。
「あ、大公閣下。お帰りなさいませ」
「アマネ。……君が、この屋敷の空気を変えたのか?」
「いいえ、私はただ、皆様に温かいお茶と入浴剤を差し上げただけです。皆様、とても優秀で働き者ですから、少し息を抜く時間が必要だと思っただけで」
私が本を閉じて微笑むと、大公はしばらく言葉を失ったように私を見つめ――やがて、深く息を吐き出して、私の隣のソファに腰を下ろした。
「エギルの奴は、これほどの至宝を『1馬力の無能』と呼んだのか。……本当に、呆れるほどの愚か者だな」
「大公閣下?」
「オルフェウスでいい」
大公――オルフェウスは、長い指を伸ばし、私の頬にかかった髪をそっと耳の後ろへと撫でつけた。
その不意の仕草と、極上の宝石のような紫の瞳に見つめられ、私の心臓がトクン、と大きく跳ねる。
「私は、軍略や武力でしか人を守る術を知らなかった。だが、君はたった半日で、この巨大な屋敷の人間の心を癒やし、掌握してしまった。君のその『見返りを求めない優しさ』は、いかなる強力な魔法よりも得難い、素晴らしい力だ」
真っ直ぐな称賛の言葉に、頬が熱くなるのがわかった。
前世では誰にも見向きもされなかった私の本質を、この人はこうもあっさりと見抜き、慈しむように肯定してくれる。
「……ありがとうございます、オルフェウス様」
私がはにかむように微笑み返すと、彼の瞳がさらに優しく細められた。
リンの穏やかな寝息と、温かい紅茶の香りに包まれたサロン。搾取されるばかりだった私の人生に、かつてないほど穏やかで、甘い時間が流れ始めていた。
*
【幕間:崩壊の足音】
一方、その頃。
ルナミス帝国軍、エギルの駐屯地では、地獄のような惨状が広がっていた。
「おぇぇぇっ! だ、駄目だ……もう、油の匂いを嗅いだだけで吐き気が……!」
「胃が痛い……! アマネ様がくださっていた、あの甘い飴と胃薬がないと、この豚神屋の特盛りなんて食えねえよぉ……!」
夕食の時間。広場に並べられた「ニンニクマシマシアブラカタメ」の巨大なラーメン鉢を前に、兵士たちが次々と膝から崩れ落ちていた。
回復魔法をかけられても、すでに彼らの胃袋と精神は限界を突破していた。
「ええい! 貴様ら、何をしている! 食え! 食って闘気を上げろ!」
視察に訪れたエギルが、信じられないものを見るような目で怒鳴り散らす。
「俺の『二郎系超回復理論』は完璧なはずだ! あの1馬力の無能女を追い出して、無駄がなくなったというのに、なぜ部隊の士気が下がっている!? 気合いが足りんのだ! 食うまで立ち上がるな!」
エギルの怒声が響けば響くほど、兵士たちの心は彼から離れていく。
彼らは痛感していた。自分たちが狂った理論に耐えられていたのは、エギルの有能さのおかげなどではない。
毎日、裏でこっそりと地球の胃薬を配り、靴擦れの手当てをし、温かい言葉をかけてくれていた――アマネの存在があったからだということに。
「……アマネ様……戻ってきてください……」
一人の兵士の悲痛な呟きは、エギルの耳には届かない。
傲慢な少将の「完璧な部隊」は、真の支柱を失ったことで、音を立てて自滅への道を転がり落ち始めていた。
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