EP 6
「冷酷大公オルフェウスの御目に留まる」
「……こんな所で、何をしている」
低く、どこか冷ややかな、しかし絶対的な威厳を孕んだ声が朝の冷気を震わせた。
私はゆっくりと体を起こし、声の主を見上げた。
目の前に停まっているのは、漆黒の車体に『剣と月』の紋章が刻まれた豪奢な馬車。ルナミス帝国軍において、その紋章を使用できるのはただ一人しかいない。
馬車から降り立ち、私を見下ろしている長身の男。
深い夜闇のような黒髪に、すべてを見透かすような鋭い紫の瞳。軍服の上からでもわかる鍛え抜かれた体躯からは、隠しきれないほどの圧倒的な覇気が立ち上っている。
「……オルフェウス大公閣下」
私は静かに彼の名を口にした。
オルフェウス・ヴァン・ルナミス。マルクス皇帝の右腕であり、帝国軍の最高司令官。つまり、私を追い出したエギル少将の、直属の最高上司にあたる人物だ。
冷徹で、軍の規律を何よりも重んじると噂される彼が、なぜこんな居住区の外れにいるのだろうか。
「朝の視察中だ。治安維持の状況を確認にな」
私の疑問を察したように、オルフェウス大公は短く答えた。そして、ベンチで私と、私に抱きついてスヤスヤと眠るリンを交互に見つめた。
「昨夜の祝賀会で婚約破棄された令嬢が、なぜこんな路地裏のベンチで、浮浪児とおぼしき子供と丸まっている? 実家に帰らなかったのか」
「……帰る実家は、もうございませんので」
私はベンチから立ち上がり、フリース素材のマントを整えて、深くカーテシーをした。
ヴァイオレット伯爵家は、エギルとの婚約を条件に多額の援助を受けている。婚約破棄された私など、おめおめと帰れば激怒した両親にどんな扱いを受けるか分かったものではない。
「それに、私は今、とても自由で幸せなのです。この子という、初めての『お友達』もできましたし」
私がリンの柔らかい金髪を撫でながら微笑むと、大公は微かに目を丸くした。
「……エギルを、恨んでいないのか。奴は公衆の面前で君を『1馬力の無能』と罵り、恥をかかせて捨てたのだぞ」
「恨む理由がございません。エギル様は効率と馬力を何よりも重んじる方。そして私は、闘気も魔法も使えない人間です。価値観が違った、ただそれだけのこと。むしろ、私を解放してくださったことに感謝しているくらいですわ」
強がりでもなんでもない、心からの本音だった。
前世で私を搾取し続けたブラック企業の課長を、今さら恨む気にもなれないのと同じだ。恨みや怒りに心を囚われるのは、自分の時間を無駄にする一番愚かな行為なのだから。
私の言葉を聞いたオルフェウス大公は、ふっと、氷が溶けるような微かな笑みを口元に浮かべた。
「……やはり、私の目に狂いはなかったか」
「え?」
「昨夜の祝賀会、私は二階のバルコニーから見ていた。君がエギルに切り捨てられた瞬間、ホール中の誰よりも気高く、美しい笑顔を見せたことをな」
大公はゆっくりと私に近づき、その大きな手で、私の冷たい頬にそっと触れた。
ビクッと肩が跳ねたが、彼の指先は軍人とは思えないほど優しく、ひどく温かかった。
「今朝、エギルの部隊から提出された『引き継ぎ書』とやらを見た。あれは君がまとめたものだな? 完璧だった。一切の無駄がなく、部隊の兵站から予算の穴まで見事にカバーされていた。あんな緻密で思いやりに溢れた書類、エギルに作れるはずがない」
「……」
「それに、今朝からエギルの部隊で、原因不明の体調不良者が続出しているらしい。兵士たちは口々に『あの差し入れがないと無理だ』と嘆いているそうだ。……君が、裏で兵士たちを支えていたのだろう?」
すべて、見抜かれていた。
エギルがどれだけ自分の『二郎系超回復理論』の成果だと豪語しても、本当に部隊を回していたのが誰なのか、この最高権力者の目は誤魔化せなかったのだ。
「エギルは愚かだ。己の足元を支えていた真の宝に気づかず、自ら泥水の中へ投げ捨てた。……だが、私にとっては幸運だった」
オルフェウス大公は、私の前にスッと片膝をついた。
帝国最強の男が、家も身分も失ったたった1馬力の私に対して、騎士の礼をとったのだ。
「アマネ嬢。どうか、私の屋敷に来てはくれないか」
「……大公閣下の、屋敷に、ですか?」
「ああ。私の屋敷は広すぎる上に、血生臭い軍人ばかりでどうにも冷え切っていてな。君のように、人を見捨てず、確かな実務能力と『温かい心』を持った存在が必要なのだ」
彼の紫の瞳が、真っ直ぐに私を射抜く。
前世では、私がどれだけ完璧に仕事をこなしても、倒れるまで働いても、役員や社長が私を評価してくれることなど一度もなかった。「代わりはいくらでもいる」と使い捨てられるだけだった。
それなのに、今世では、出会って間もないこの最高権力者が、私の「目に見えない価値」を認め、必要だと言ってくれている。
「んんっ……ふわぁ」
その時、私の足元で丸まっていたリンが目を覚ました。
彼女は眠い目を擦りながら、目の前に片膝をつくオルフェウス大公を見上げた。
「アマネお姉ちゃん、この怖そうな顔のお兄さん、だぁれ?」
「リン、おはよう。この方は、帝国軍の最高司令官で……」
「ふーん……」
リンはオルフェウス大公の顔をじっと見つめ、すんすんと匂いを嗅ぐような仕草をした。そして、パァッと顔を輝かせた。
「お姉ちゃん、このお兄さん、すっごくいい人だよ! あのおにぎりみたいに、中身がポカポカしてる! 昨日のバカ男とは全然違う!」
「リ、リン!?」
初対面の大公に向かってなんてことを言うのかと焦ったが、オルフェウス大公は気を悪くするどころか、低く声を立てて笑った。
「はははっ! 子供は正直だな。……君のその小さな友人も、もちろん一緒に歓迎しよう。約束する、アマネ。私の庇護下にある限り、もう二度と、誰にも君を不当に虐げさせはしない」
その言葉に、私の胸の奥がじんわりと熱くなった。
彼なら、きっと嘘はつかない。この大きな手は、私の手柄を奪うためではなく、私を守るために差し出されているのだと、不思議と確信できた。
「……ふふっ。そこまで言っていただけるのなら。私とリンを、雇っていただけますか?」
「雇うなどと。君は私の大切な客人だ。さあ、手を取ってくれ」
私は、オルフェウス大公の差し出された手に、自分の手を重ねた。
彼が軽く引くと、ふわりと体が浮き上がり、そのまま大切にエスコートされて馬車へと乗り込んだ。リンも「わーい、ふかふかの馬車だー!」と大はしゃぎで後に続く。
馬車の扉が閉まり、ゆっくりと車輪が回り始める。
ふと窓の外を見ると、遠くの空が白み始め、美しい朝焼けがルナミス帝国を照らし出していた。
エギルは今頃、自分の足元が崩れ始めていることに焦っているだろうか。
でも、私にはもう関係のないことだ。
私を正当に評価してくれる最高の主(あるいは、それ以上の人)と、最強のお友達。そして、私だけの【善行ポイント通販】。
限界OLだった私の本当の人生が、ついに動き出したのだ。
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