EP 4
「公衆の面前での婚約破棄。喜んでお受けします」
豪奢なシャンデリアが眩い光を放つ、帝国軍大ホール。
ルナミス軍の精鋭と高位貴族たちが集う祝賀会は、完璧な進行の元、盛大に幕を開けていた。
私が手配した一流のオーケストラが優雅なワルツを奏でる中、招待客たちはグラスを傾け、色とりどりの料理に舌鼓を打っている。
厨房と給仕係の連携は、事前の綿密なミーティングと、昨夜私がこっそり配った「地球の栄養ドリンク」のおかげで、一糸乱れぬ動きを見せていた。料理の温度、ワインを注ぐタイミング、すべてが計算通りだ。
「ははは! 皆、楽しんでくれているようだな!」
ホールの中心で、銀髪を揺らしたエギルが取り巻きの将校たちに囲まれ、上機嫌に笑い声を上げている。
「この祝賀会の完璧な設営も、すべて俺の効率的なマネジメントの賜物だ! いかに軍の規律と俺の理論が優れているかの証明でもある!」
堂々と手柄を独り占めするその姿を、私はホールの隅から冷ややかに見つめていた。
前世の記憶が重なる。私が徹夜で組み上げたプロジェクトが成功した時の打ち上げで、ブラック課長が「私の指導が良かったから」と上層部にアピールして回っていた、あの吐き気のする光景と全く同じだ。
自分が搾取されている事実を突きつけられるたび、前世の私はトイレの個室で声を殺して泣いていた。
けれど、今の私の心には、さざ波一つ立っていない。
「アマネ様」
ふいに、背後から小声で呼ばれた。昨日、私が栄養ドリンクを渡したメイドだ。
「アマネ様、あんな風にエギル様がご自分の手柄のように振る舞われるなんて……。この数日間、アマネ様がどれほど身を粉にして準備をされていたか、私たちは皆、知っております。あまりにも理不尽です」
「気にしてくれてありがとう。でも、いいのよ。彼が満足しているなら、それで」
私はメイドに向かって、心から穏やかに微笑んだ。
そう、本当にどうでもいいのだ。他人の評価に依存して自分の価値を決める生き方は、もう終わりにした。
息が詰まるほどきつく締め上げられたコルセット。重たいシルクのドレス。
エギルが「見栄えを良くしろ」と命じたこの窮屈な衣装も、もう少しで脱ぎ捨てることができる。
その時、ホールの中央に立ったエギルが、スプーンでワイングラスを軽く叩き、澄んだ音を響かせた。
オーケストラの演奏が止み、人々の視線が彼に集まる。
「ご歓談中の皆様、少しよろしいだろうか」
エギルは自信に満ちた笑みを浮かべ、高らかに声を張り上げた。
自身の部隊がいかに強大か、彼が考案した『二郎系超回復理論』がいかに帝国に貢献するかを、延々と語り始める。
そして、一通りの自慢話が終わった後、彼の氷のような視線が、真っ直ぐにホールの隅に立つ私を射抜いた。
「この輝かしい帝国軍の未来において、足手まといになる者は排除せねばならない。……アマネ・ヴァイオレット! 前へ出ろ!」
命令口調で呼びつけられ、ホール中の視線が一斉に私に突き刺さる。
好奇の目、嘲笑の目、そして同情の目。
私は背筋をピンと伸ばし、足音を立てずに優雅な足取りでエギルの前へと歩み出た。
「皆様もご存知の通り、私の婚約者である彼女は、闘気も魔法も一切使えない『完全に1馬力の無能』だ」
エギルは、まるで見世物でも紹介するかのように両手を広げ、私を指差した。
「効率こそがすべての我が部隊において、彼女の存在はあまりにも生産性がない。日々進化する私の理論についてこられず、軍の足を引っ張るばかりか、名門ルナミスの名を汚す存在でしかないのだ!」
周囲から、クスクスと忍び笑いが漏れる。
「やはり、あの1馬力令嬢か」
「エギル少将には、もっと有能なご令嬢が相応しいな」
心無い言葉が、刃のように私に向けられる。
エギルは私を見下ろし、口角を意地悪く歪めた。
きっと彼は、私がここで泣き崩れ、「どうか捨てないでください」とすがりつくのを期待しているのだろう。自身の権力と有能さを誇示するための、哀れな引き立て役として。
「よって、私はこの場をもって宣言する! アマネ・ヴァイオレット! 貴様との婚約を、本日ただいまをもって破棄する!」
決定的な言葉が、ホールに響き渡った。
静寂が落ちる。誰もが、婚約破棄を突きつけられた惨めな令嬢の反応を待っていた。
私は、ゆっくりと顔を上げた。
息を吸い込む。コルセットの窮屈さよりも、ずっと深いところから、清々しい風が吹き抜けていくのを感じた。
ああ、終わった。
前世の過労死から続いた、私を縛り付けていたすべての鎖が、今、音を立てて砕け散ったのだ。
私は、満面の、心からの笑みを浮かべた。
「――はい。喜んで、お受けいたします」
その言葉が響いた瞬間、ホールの空気が凍りついた。
嘲笑を浮かべていた貴族たちの顔が固まり、エギルは信じられないものを見たかのように目を丸くした。
「な……んだと?」
「これまで、至らぬ私を置いてくださり、誠にありがとうございました。エギル少将の輝かしいご未来を、心よりお祈り申し上げます」
私は、ドレスの裾をつまみ、一糸乱れぬ完璧なカーテシー(淑女の礼)を披露した。
悲壮感など欠片もない。ただ、晴れやかな、自由を喜ぶ鳥のような笑顔で。
「なっ、貴様……自分が何を言われたか分かっているのか!? 俺に捨てられて、お前のような1馬力の無能が一人で生きていけるわけがないだろう!」
エギルが顔を真っ赤にして怒鳴りつける。自分のシナリオ通りに動かない私に、彼は明らかに動揺していた。
「ご心配には及びませんわ。……ああ、念のためご報告させていただきます。この祝賀会の進行、厨房への手配、および来月までの部隊の備品発注の決裁はすべて完了し、副官のデスクに引き継ぎ書としてまとめてございます。私からの『業務』は、これで最後とさせていただきます」
私はそう告げると、踵を返した。
もう、彼に向けてやる言葉は一つもない。
「ま、待て! アマネ!」
エギルの制止を無視して、私はホールの出口へと歩き出した。
その時だった。
私の行く手を阻むように群がっていた貴族たちの間を縫って、屋敷のメイドたち、そして靴擦れの手当てをした若い護衛兵たちが、サッと動いて私のために道を空けたのだ。
彼らは誰もエギルに許可を求めていない。
ただ、去りゆく私に向かって、静かに、そして誰よりも深く頭を下げた。
その目には、理不尽に耐え抜いた私への絶対的な敬意と、少しの涙が光っていた。
誰も蹴落とさない。ただ、己の義務を果たし、優しさを振り撒いただけ。
それだけで、私はこの屋敷の裏方たちにとっての「心」になっていたのだ。
私は彼らに小さく頷き返し、扉の向こうへと姿を消した。
後に残されたのは、完璧な引き継ぎを終えて去った私と、なぜか「勝者」であるはずなのに酷く滑稽に見えるエギル、そして、ざわめきに包まれたホールだけ。
――ふと、その去り際。
二階のVIP専用バルコニーから、一つだけ、全く別の冷たくも鋭い視線が私を追っていたような気がした。
エギルのような浅薄な男とは違う、深い夜闇のような瞳。だが、今の私にそれを確かめる理由はない。私は振り返ることなく、光の届かない回廊へと歩を進めた。
*
自室に戻った私は、息の詰まるコルセットと重たいドレスを力任せに脱ぎ捨てた。
代わりに、動きやすい平民用のシンプルなワンピースと、夜の冷え込みを防ぐために【善行ポイント通販】の残りのポイントで取り寄せた、地球の『保温性抜群・高機能フリース素材のフード付きマント』を羽織る。
ベッドの下に隠しておいた小さなトランクを手に取った。
中には数冊の手帳と、最低限の路銀だけ。本当に、これだけだ。
そっと屋敷の裏口から抜け出す。
警備の兵士は、私を見ると驚いた顔をしたが、何も言わずに門を開けてくれた。彼もまた、私が昨日差し入れをした兵士の一人だった。
「気をつけて、アマネ様……」
「ありがとう。あなたも、体に気をつけてね」
冷たい夜風が頬を撫でる。
ルナミス帝国の巨大な軍事施設の門をくぐり抜け、私は完全に一人になった。
婚約も、家名も、居場所も失った。
けれど、胸の中はどこまでも軽かった。
大きく息を吸い込む。冷たい空気が、肺の奥まで澄み渡るように広がっていく。
「……あははっ」
誰もいない夜道で、私は声を上げて笑った。
自由だ。私は自由になったのだ。
これからどうやって生きていくのか、どこへ行くのか、何の当てもない。
でも、私の視界の端には、温かい光を放つ【善行ポイント通販】のウィンドウが静かに寄り添っている。これさえあれば、私は誰の都合のいい道具にもならず、自分の足で歩いていける。
「さて、まずは今日の寝床を探さないとね」
私はトランクを握り直し、帝国の中央から離れるように、灯りの少ない辺境の居住区へと向かって歩き出した。
この孤独な夜道で、私を本当の意味で変えてくれる「最高の親友」に出会うことになるとは、この時の私はまだ知る由もなかった。
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