EP 9
「汚い中華屋での極上の打ち上げ」
親善ダービーでの前代未聞の大騒動が片付き、アバロン魔皇国に夜の帳が下りた頃。
私たち一行は、ルーベンス将軍の案内で、魔皇国の首都の路地裏へと足を踏み入れていた。
「おいおい、将軍。帝国を代表する大公閣下と、その婚約者を案内する場所がここか?」
オルフェウス様が、呆れたようにため息を吐いた。
私たちの目の前にあったのは、赤提灯がぶら下がり、油で黒ずんだ暖簾が風に揺れる、見るからに年季の入った大衆中華食堂だった。店の中からは、カンカンと中華鍋を振るう音と、食欲をそそるニンニクと油の香りが漂ってきている。
「ふん。宮廷の堅苦しい晩餐会なんて、肩が凝るだけだろう。ここが俺の『行きつけ』だ。魔皇国で一番美味い飯を食わせてやる」
ルーベンス将軍は、軍服の襟元をラフに緩め、完全に「仕事終わりのオッサン」の顔になっていた。昼間の冷徹で皮肉屋な将軍の面影はない。
店内に入ると、油で少しベタつく床と、壁に貼られた手書きのメニュー札がいかにも大衆食堂といった風情だ。
「おやじ、奥の座敷空いてるか! 油っこい炒飯と、焼き餃子をありったけだ!」
「おう、将軍! 今日はえらいべっぴんさんたちを連れてるな!」
魔族の店主が威勢よく応え、私たちは奥の円卓へと案内された。
「……アマネ、ドレスが汚れないように気をつけろ」
オルフェウス様が、私を座らせる前に椅子をハンカチでサッと拭いてくれる。どんな大衆食堂であっても、彼の私へのエスコートは完璧で甘い。
「ありがとうございます、オルフェウス様。でも私、こういう活気のあるお店、嫌いじゃありませんわ」
前世のOL時代、残業帰りに上司の愚痴をこぼしながら同期と入ったチェーンの中華屋。高級なフレンチよりも、ああいう場所で食べる熱々の餃子の方が、ずっと心に染みたものだ。
「お姉ちゃん、ここすっごくいい匂いがするー!」
リンが両手に箸を握りしめ、テーブルをバンバンと叩いて料理を待ち望んでいる。
「こら、リンちゃん。お行儀が悪いですよ」
ヴァルキュリアさんがたしなめるが、彼女自身も鼻をヒクヒクさせて、厨房からの匂いに完全に心を奪われていた。
「ほらよ、お待ちどう!」
どんっ!とテーブルに置かれたのは、山盛りの黄金色の炒飯と、カリッと羽のついた大ぶりの焼き餃子だった。
「おおっ! これだこれ。休日はこいつに限る」
ルーベンス将軍が嬉しそうに箸を割り、コップに水を注ごうとした、その時だった。
「将軍。お疲れ様でした。今日は私から、特別なお飲み物の差し入れです」
私は脳内で【善行ポイント通販】を開き、ポイントを消費した。
ドンッ! とテーブルに実体化させたのは、地球の『キンキンに冷えた生ビール(大ジョッキ・15pt)』と、餃子のお供である『究極の食べるラー油(フライドガーリック増し増し・10pt)』の小瓶だ。
「なっ……なんだこの、黄金色のシュワシュワした飲み物は!? ジョッキの表面に霜が降りているぞ!?」
「地球の『ビール』ですわ。喉が渇いている時に飲むと、最高なんですよ。そしてこちらのラー油を、餃子のタレにたっぷり入れて食べてみてください」
ルーベンス将軍は、疑り深そうにしながらも、冷えたジョッキを手に取った。
そして、ゴクッ、ゴクッ、と喉を鳴らして一気に半分ほど飲み干す。
「――っっっっ!!」
カアァァンッ!! と、彼の頭の中で鐘が鳴る音が聞こえた気がした。
「ぷはぁぁぁぁっっ!! な、なんだこれはぁぁっ!!」
ルーベンス将軍が、座敷のテーブルをバンッ! と叩いて絶叫した。
「イモッカ(芋焼酎)のようなキツさはなく、喉を突き抜ける爽快な炭酸と、麦の深いコク……! 脳髄に直接響くような、この圧倒的な冷たさと美味さはなんだ!!」
「さらに、そちらの餃子をどうぞ」
促されるままに、将軍は『究極の食べるラー油』をたっぷりと絡ませた焼き餃子を口に放り込んだ。
ザクッ! ジュワァァッ!
フライドガーリックの香ばしいザクザク感。ごま油の芳醇な香り。そしてピリッとした程よい辛味が、肉汁たっぷりの餃子の旨味を何十倍にも引き上げ、口の中で爆発する。
「う、うおおおおおぉぉっ!!」
魔皇国の猛将の目から、ブワッ! と感動の涙が噴き出した。
「美味い……美味すぎる! ビールで流し込むと、無限に食えるぞこれ! 俺が今まで食ってきた中華は、一体何だったんだ!」
彼は完全に「仕事終わりのただのオッサン」と化し、無我夢中で餃子とビールを往復し始めた。
「アマネさん! 私にも、私にもその……『びーる』とやらを!」
普段は規律を重んじるヴァルキュリアさんが、ジョッキを両手で突き出して懇願してきた。
「ヴァルキュリアさんは、少し度数の低いフルーツビールにしましょうか。ラー油もどうぞ」
天界の修行僧のような不味いレーション(EPA型の硬い黒パンと苦い青汁)を主食としているヴァルキュリアさんにとって、ニンニクと油と旨味の暴力である「食べるラー油餃子」は、あまりにも刺激が強すぎたらしい。
「はわわわっ……! な、なんという背徳的な味……! こんなに美味しいものを食べてしまったら、もう天界の青汁には戻れません……っ。る、ルチアナ様ごめんなさい、私、人間界の欲望に堕ちます!」
聖騎士としての矜持はどこへやら、彼女は涙を流しながらフライドガーリックを白米(炒飯)に乗せて掻き込んでいる。
「あははっ、二人ともすごい食べっぷり!」
リンも負けじと、炒飯をスプーンで大口を開けて頬張っている。
「……ふっ。アマネ、君は本当に魔性の女だな。魔皇国の将軍と天界の監査官を、たった一瓶の調味料で完全に骨抜きにしてしまうとは」
私の隣で、オルフェウス様が小さく笑い声を立てた。
「オルフェウス様も、どうぞ。あーん」
私が箸で餃子をつまんで口元に運ぶと、彼は嬉しそうに目を細め、私の手からそれを受け取った。
「ああ、美味い。だが、君の淹れてくれるお茶の甘さには敵わないな」
彼は私の耳元で囁き、そっと私の腰を抱き寄せた。周囲の喧騒の中でも、彼と私の間だけは、甘く蕩けるような空気に包まれている。
「んん〜っ! ぷはぁっ!」
すっかりジョッキを空け、すっかり酔っ払ったルーベンス将軍が、赤い顔をして私の方へと身を乗り出してきた。
「なぁ〜、アマネちゃ〜ん」
「えっ、将軍?」
彼は完全にデレた親父の顔になり、呂律の回らない口調で語り出した。
「お前、本当にいい女だな〜! 俺の二日酔いも治してくれるし、こんなに美味い酒とメシまで出してくれるし……。どうだ? ルナミスの大公なんかの所にいるより、魔皇国に来ないか? 俺の部下になれば、三食この餃子とビールを奢ってやるぞ〜!」
魔皇国のトップが、酔った勢いで他国の大公妃(予定)を直接ヘッドハンティングするという、とんでもない暴挙に出たのだ。
「ええっ!? い、いえ、私はオルフェウス様の――」
私が慌てて断ろうとした、その瞬間。
ガシッ!!
オルフェウス様の大きな手が、ルーベンス将軍の顔面(正確には額の辺り)を鷲掴みにした。
「――おい。誰の妻に気安く絡んでいる、ルーベンス」
ゴゴゴゴゴッ……!
大衆食堂の座敷に、帝国最強の大公による、絶対零度の殺気と闘気が渦巻いた。
「アマネは私のものだ。たとえ魔王ラスティアが直接頭を下げてきても、彼女の髪の毛一本たりとも譲るつもりはない。……これ以上私の女神を愚弄するなら、今ここでその首を刎ねるぞ」
「ひぃぃっ!? す、すまん大公! 酔った勢いだ、冗談だ!」
オルフェウス様のガチの独占欲と殺気に当てられ、ルーベンス将軍は一瞬で酔いが覚めたらしく、両手を挙げて降参のポーズをとった。
「もうっ、オルフェウス様。将軍をいじめないでください」
私がクスクスと笑いながらオルフェウス様の腕にそっと触れると、彼の纏っていた殺気は嘘のように霧散し、大きな手が私の頭を優しく撫でた。
「君が優しすぎるのだ。他の男が君に魅了される前に、早く私の城の奥深くに閉じ込めてしまいたいよ」
「ふふっ。私はずっと、オルフェウス様のそばにいますから」
「あーあ、お兄ちゃんたち、またイチャイチャしてるー!」
「はわわ……ごちそうさまです……っ」
リンとヴァルキュリアさんが、炒飯を頬張りながら生温かい目を向けてくる。
誰も蹴落とさない。復讐もいらない。
私のささやかな善行と、地球の美味しいご飯が繋いでくれた、国境を越えた温かい友情。
油っこい中華の匂いと、笑い声に包まれた路地裏の食堂で。
私は、自分が今、これ以上ないほど幸せな居場所にいることを、心の底から実感していた。




