EP 2
「皮肉屋の魔族将軍、地球の休肝日セットに屈する」
数日間の優雅な列車の旅を経て、私たちはついに目的の地へと降り立った。
ルナミス帝国から遥か西に位置する、アバロン魔皇国。
駅のホームに降り立つと、帝国の白亜の街並みとは打って変わって、黒曜石や魔晶石をふんだんに使った、重厚でゴシックな建築物が広がっていた。行き交う人々も、頭に角を生やした者や、コウモリのような羽を持つ魔族たちが多く、異国情緒に溢れている。
「すごい……! お姉ちゃん、あの建物、真っ黒でピカピカしてるよ!」
リンが目を輝かせて、魔晶石の塔を指差した。
「本当ね。とっても綺麗……」
「アマネ。長旅で疲れは出ていないか?」
オルフェウス様が、私の腰にそっと手を添え、周囲の喧騒から守るように寄り添ってくれる。
「ええ、大丈夫です。オルフェウス様がずっと気遣ってくださったおかげで、とても元気ですわ」
私が微笑んで答えると、彼は満足そうに頷いた。
「――ようこそお越しくださいました、ルナミス帝国のオルフェウス大公閣下」
ホームの奥から、低く冷徹な声が響いた。
現れたのは、漆黒の軍服を着崩し、長い銀髪を後ろで無造作に束ねた、長身の魔族の男性だった。
魔皇国軍を束ねる穏健派のトップ、ルーベンス将軍。
彼の周囲には、実力者特有のビリビリとした闇魔法のオーラが漂っており、その後ろに控える魔族の兵士たちも、彼に絶対の忠誠を誓っているのがわかる。
「出迎え感謝する、ルーベンス将軍。明日の『ジオ・リザード親善ダービー』、魔皇国の手腕を楽しみにしているぞ」
オルフェウス様が、帝国最高司令官としての堂々たる覇気で応じた。
「ええ。我ら魔皇国が誇るジオ・リザードの走り、存分にご覧に入れましょう。……して、そちらの可愛らしいお嬢さんが、大公がわざわざ外遊に同伴されたという『特別なパートナー』ですかな?」
ルーベンス将軍の鋭い黄金色の瞳が、私へと向けられた。
魔力も闘気も持たない、ただの人間の娘。彼のような百戦錬磨の将軍からすれば、私は道端の石ころのように無力に見えるはずだ。彼は皮肉めいた笑みを浮かべ、私を値踏みするように見下ろしてきた。
――しかし。
前世で限界OLとして、数々のブラック上司や疲弊した同僚たちを見てきた私の「社会人センサー」は、彼の冷徹なオーラの奥にある『別のもの』を確実に見抜いていた。
(……この人、顔色が尋常じゃなく悪い。それに、目元には濃いクマがあるし、さっきから微妙に眉間をピクピクさせて、光や大きな音を無意識に避けている……)
魔皇国の威信を背負う冷徹な将軍。
だが、その実態は――。
(間違いない。これ、重度の二日酔いと、過労による深刻な胃もたれだわ……!)
おそらく、昨晩遅くまで強いお酒(ルナミス帝国でも流通しているイモッカのようなものだろうか)を痛飲し、そのアルコールが全く抜けていないのだ。加えて、上層部からの無茶振りや、明日のダービーの準備など、中間管理職特有の強烈なストレスに晒されているに違いない。
「初めまして、ルーベンス将軍。アマネ・ヴァイオレットと申します。本日はお招きいただき、ありがとうございます」
私は優雅にカーテシーをしながら、静かに【善行ポイント通販】のウィンドウを開いた。
列車の旅の間、メイドたちや車掌さんに労いの言葉をかけたり、お茶を淹れたりしたおかげで、ポイントは潤沢にある。
選んだのは、地球の『二日酔い特効・高濃度ウコンドリンク(15pt)』と、肝臓に染み渡る『オルニチンたっぷり・熱々のしじみ汁(20pt)』の【最強の休肝日セット】だ。
「……ほう、礼儀正しいお嬢さんだ。大公が手元に置くのも頷け……うっ」
ルーベンス将軍が皮肉を続けようとした瞬間、彼はわずかに顔をしかめ、口元を押さえた。胃から込み上げてきた吐き気を、必死に闘気とプライドで抑え込んでいるのがわかる。
「将軍。もしよろしければ、こちらをどうぞ」
私は、空間から実体化させた小さな黄金色の瓶と、湯気を立てるお椀(しじみ汁)を、周囲の兵士たちには見えないようにそっと差し出した。
「……あ? なんだこれは。俺に毒でも盛ろうってのか?」
ルーベンス将軍は怪訝な顔をして、鋭く目を細めた。
「毒ではありませんわ。これは、ルナミス帝国に伝わる『二日酔いと胃もたれを即座に消し去る』特別な滋養スープです。……昨晩は、少しお酒を召し上がりすぎたのではありませんか? お仕事の重圧もあって、お辛いでしょう」
私が小声で囁くと、ルーベンス将軍は図星を突かれたようにビクッと肩を震わせた。
「なっ……! お、俺が二日酔いだなどと、なぜ分かった!?」
「顔色と、お辛そうな呼吸を見れば分かります。偉大な将軍である前に、あなたも日々お仕事を頑張る一人の大人ですから。どうか、冷めないうちにお召し上がりください」
私は、彼のプライドを傷つけないよう、あくまで「ささやかな差し入れ」として微笑んだ。
ルーベンス将軍はしばらく私とスープを交互に見つめていたが、胃の限界が来ていたのだろう。観念したように、小さく息を吐いてお椀を受け取った。
そして、熱々のしじみ汁を一口、口に含む。
「――っ!?」
ルーベンス将軍の目が、限界まで見開かれた。
彼の中にあった警戒心が一瞬で吹き飛び、代わりに押し寄せてきたのは、かつて経験したことのない『圧倒的な癒やし』だった。
しじみから溶け出した濃厚な琥珀色のエキスと、オルニチンの旨味。それに合わさる、地球の合わせ味噌の深いコクと塩味。
それが、アルコールで荒れ果てた彼の胃壁と、疲弊しきった肝臓に、まるで聖女の回復魔法のように優しく、じんわりと浸透していく。
「な……なんだ、これは……」
彼は震える手で、二口、三口とスープを飲み進めた。
飲むたびに、頭を覆っていた重い霧が晴れていく。胃のムカつきは嘘のように消え去り、体の芯からポカポカとした温かい活力が湧き上がってくるではないか。
続いて、黄金色のウコンドリンクを一気に飲み干すと、二日酔いの気怠さは完全に彼の中から消滅してしまった。
「……信じられん。魔皇国のいかなる魔法薬よりも、五臓六腑に染み渡る……。なんだこの、涙が出そうになるほど深く、優しい味は……」
ルーベンス将軍は、空になったお椀を両手で包み込みながら、茫然と呟いた。
彼を取り巻いていた冷徹で皮肉屋なオーラはどこへやら。そこにはただ、極上のスープによって胃袋と心を完全に掌握された、一人の「疲れ切ったオッサン」の安堵の顔があった。
「お口に合って良かったですわ。明日のダービー、魔皇国の責任者として色々とご苦労もあるでしょうけれど、あまりご無理はなさらないでくださいね」
私がハンカチを手渡すと、ルーベンス将軍はハッと我に返り、慌てて咳払いをしていつもの冷徹な表情を取り繕った。
しかし、その黄金色の瞳が私に向ける視線には、先ほどの侮蔑は欠片も残っていなかった。
「……アマネ嬢、と言ったな」
彼は低く、けれど確かな敬意のこもった声で私の名を呼んだ。
「お前のその……『見極める目』と、無駄のない的確な采配。大公が惚れ込む理由が、身をもって理解できた。……素晴らしいスープだった。礼を言う」
ルーベンス将軍が、私に向かって微かに、しかし深く頭を下げた。
周囲の魔族の兵士たちが、「あの皮肉屋の将軍が、人間の娘に頭を下げただと!?」と信じられないものを見る目でどよめいている。
「ふっ。言っただろう、ルーベンス。彼女は、帝国が誇る至宝だと」
オルフェウス様が、誇らしげに私の肩を抱き寄せ、私の髪に口づけを落とした。
「これ以上、私の妻に見惚れるのはやめてもらおうか。視察の案内を頼む」
「……チッ。相変わらず独占欲の強い男だ」
ルーベンス将軍は舌打ちをしながらも、その口元には先ほどまでにはなかった、微かな笑みが浮かんでいた。
「こちらへどうぞ、大公閣下。アマネ嬢」
案内を始めた彼の足取りは、先ほどまでの重たさが嘘のように軽く、力強かった。
誰も蹴落とさない。闘うこともない。
私はただ、疲れている人に「お疲れ様」のしじみ汁を手渡しただけ。
しかし、そのささやかな善行は、異国の皮肉屋な将軍の心を一瞬で解きほぐし、私という存在を「ただの娘」から「畏敬すべき存在」へと塗り替えてしまった。
「お姉ちゃんのご飯、最高だもんね!」
リンが私の手を引きながら、ニコニコと笑う。
「……悪くない。いや、最高だ」
前を歩くルーベンス将軍が、誰に聞こえるでもなく、胃の辺りをさすりながらポツリと呟いた。
その言葉に、私は思わずクスッと笑ってしまった。
どうやらこの魔皇国でも、私の周りには温かい「居場所」が広がり始めているようだ。
だが、この時、私たちはまだ知らなかった。
私たちの裏側で、ルーベンス将軍が事前に悪徳商人に依頼していた『魔農産物の密輸』が、競馬場をかつてない阿鼻叫喚の地獄へと変える、最悪のトラブルの火種としてくすぶり始めていることを。
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