EP 6
「深夜の菜園強奪事件(※計画通り)」
オルフェウス様が国境の視察へと旅立ち、数日が経過した。
大公邸の主が不在であっても、屋敷の中は驚くほど穏やかで温かい空気に包まれていた。かつての軍事施設のようなピリピリとした緊張感はすっかり鳴りを潜め、使用人たちも騎士たちも、皆どこかリラックスした表情で職務をこなしている。
「アマネさん。今日もお庭の『折れたス』は、青々と素晴らしい葉を広げていましたよ。明日あたり、また収穫して皆のサラダにしましょうか」
「あ……ええ、そうですね。ヴァルキュリアさんがそうおっしゃるなら……」
夜のサロン。
温かいハーブティーを飲みながら、私は引きつった笑顔で頷いた。
あの『折れたス』――食べると前世の就活のトラウマである「お祈りメール」が脳内に直接響き渡るという、私にとっては最悪の精神破壊野菜。しかし、この世界の人々にとっては「礼儀正しく励ましてくれる上に、凄まじい疲労回復効果がある奇跡のハーブ」としてすっかり定着してしまっていた。
みんなの健康のためには良いことだと分かっているのだが、収穫のたびにあの『……慎重に選考を重ねました結果……』という音声を聞かされる私のメンタルは、少しずつ削られているのが実情だった。
「んゅ……お姉ちゃん、むにゃむにゃ……」
私の膝枕で眠るリンの金色の髪を撫でながら、どうにかあの野菜を私が収穫せずに済む方法はないものかと現実逃避していた、その時だった。
「――曲者だ!! 菜園の方角に侵入者あり! 包囲しろ!」
突如、窓の外から騎士たちの鋭い怒声と、金属が打ち合う激しい音が響き渡った。
「なっ……大公邸に侵入者!?」
ヴァルキュリアさんがガタッと立ち上がり、瞬時に手元へ聖槍グラニを召喚する。
「アマネさん、リンちゃんを守って下がっていてください。私が加勢して一網打尽にしてやります!」
「ま、待ってくださいヴァルキュリアさん! 私も行きます!」
眠い目をこするリンを抱きかかえ、私はヴァルキュリアさんの後を追って、騒ぎの起きている裏庭の菜園へと駆けつけた。
*
「ひぃぃっ! お、お許しを!」
「命だけは助けてくれぇっ!」
裏庭の菜園では、黒装束に身を包んだ数人の男たちが、大公邸の精鋭騎士たちによって完全に包囲され、地面に押さえつけられていた。
さすがは帝国最強の軍人が集う大公邸。隠密の侵入者など、物の数分で制圧されてしまったようだ。
「アマネ様! 危険ですのでお下がりください!」
騎士団長が私に気づき、慌てて駆け寄ってくる。
「怪我人は出ていないかしら? この人たちは、一体何を……」
私が男たちの足元を見ると、そこには大きな麻袋が転がっていた。
そして、その袋の口からは、青々とした見覚えのある野菜――あの『折れたス』の株と、種が入った小袋が大量にこぼれ落ちていた。
(えっ……泥棒の狙いって、まさか……あのレタス!?)
「おそらく、どこぞの貴族が金で雇った盗賊でしょう」
騎士団長が、吐き捨てるように言った。
「最近、大公邸で『万病に効き、疲労を完全に取り去る奇跡のハーブ』が栽培されているという噂が帝都で出回っておりました。オルフェウス大公閣下のご不在を狙い、そのハーブの株と種を根こそぎ強奪して、自分たちの利権にしようと企んだに違いありません。本当に、下劣で浅ましい輩です!」
「なるほど……」
私は、地面に転がる『折れたス』の山と、恐怖に震える盗賊たちを交互に見つめた。
普通なら、ここで彼らを捕らえ、背後にいる黒幕を吐かせて断罪するべきなのだろう。
けれど、私の頭の中には、全く別の考えが浮かんでいた。
(……待って。彼らがこの『折れたス』を全部持っていってくれるなら、私はもう、あのトラウマお祈りメールを聞きながら収穫しなくて済むのでは……?)
それに、盗賊とはいえ、ただのお野菜を盗みに来ただけだ。
前世で限界OLだった頃、お腹を空かせてもコンビニのサンドイッチすら買えず、誰かの残したお弁当を羨ましく見つめていた惨めな夜を思い出す。
こんな夜中に、他人の家の野菜を盗まなければならないなんて。きっと彼らも、食べるものに困るほど追い詰められているに違いない。
「……騎士団長。その人たちを、放してあげてください」
私は静かに、けれどはっきりとした声で言った。
「えっ……? ア、アマネ様? 今、なんと……」
騎士団長も、周囲の騎士たちも、そして取り押さえられていた盗賊たちまでもが、ポカンと口を開けて私を見た。
「こんな深夜に、他人の家のお野菜を盗みに来るなんて……きっと、よほどお腹が空いていて、食べるものにも困っていたのですね。かわいそうに」
私は、盗賊たちに向けて心から同情の眼差しを向けた。
「あのハーブは確かに元気が出るお野菜ですけれど、ただの葉物野菜です。そんなもののために、命を危険に晒す必要はありませんわ。……騎士団長、彼らが集めたお野菜は、そのまま彼らに持たせてあげてください」
「なっ……! アマネ様、しかし! それでは背後の黒幕が……!」
「いいのです。お野菜の種なんて、また植えれば育ちます。私たちが独り占めするよりも、飢えている方々に分け与える方が、きっとオルフェウス様も喜んでくださいますわ」
私は、とびきりの慈愛を込めた(そして、トラウマ野菜を押し付けられる安堵に満ちた)笑顔で締めくくった。
「アマネ、様……」
その瞬間。
騎士団長の目から、ブワッ!と大粒の涙が噴き出した。
「おおぉぉ……なんという、なんという広き御心か! 自らの財産を盗もうとした罪人に対してすら、慈悲をかけ、糧を与えるとは……! 貴女様は、本当に女神の化身であられるのか!」
「俺たちのような血生臭い軍人には、決して思い至らない無償の愛……! これこそが、大公邸を救ったアマネ様の気高さ……!」
周囲の騎士たちも、次々とその場に膝をつき、感涙にむせび泣き始めた。
「アマネさん……。天界の書物にある『右の頬を打たれたら左の頬を差し出せ』という教えを、まさか人間界で体現する方がおられるとは。私、監査官として、あなたのその高潔な魂に深く敬意を表します……っ!」
ヴァルキュリアさんまで、感動のあまり聖槍を放り出し、ハンカチで目頭を押さえている。
(い、いや……そんな大層なことではなくて、ただトラウマ野菜を押し付けたかっただけで……)
予想外の神格化に内心焦りながらも、私は盗賊たちに向かって小さく頷いた。
「さあ、お行きなさい。そのお野菜を食べて、少しでも元気を出してくださいね」
「あ、ありがてぇぇっ! 大公邸の女神様、一生忘れませぇぇんっ!」
盗賊たちは麻袋を抱え、涙と鼻水を撒き散らしながら、夜の闇へと脱兎のごとく逃げ去っていった。
誰も蹴落とさないし、復讐もしない。
私はただ「かわいそうな人たちに野菜を譲った」だけ。大公邸の平和は守られ、私のメンタルも守られた。まさに完璧な結末だった。
――彼らが持ち去ったあの『折れたス』が、このアナステシア世界に存在するいかなる拷問よりも恐ろしい『社会人メンタルブレイク兵器』であり、それを狙った貴族たちが自らの手で地獄の釜の蓋を開けることになるなど、私は微塵も想像していなかったのだ。
*
【幕間:愚か者たちの祝杯】
その日の深夜。
農務を司るボルドー伯爵の屋敷では、隠密部隊から麻袋を受け取ったボルドー伯爵と、アマネの父親であるヴァイオレット伯爵が、勝利の美酒に酔いしれていた。
「クックックッ……見ろ、ヴァイオレット伯! 大公邸の警備などザルも同然だったわ! 奴ら、ハーブを盗まれただけでなく、アマネとかいう小娘の『慈悲』とやらで、隠密たちを無傷で逃がしおったらしいぞ!」
「はーっはっは! あのアマネは、昔から本当に頭の鈍い、お人好しの阿呆ですからな! 自分がどれほどの財産を失ったかも分からず、施しをしたと勘違いしているのでしょう!」
ボルドー伯爵は、麻袋の中から青々とした『折れたス』の株を取り出し、恍惚とした表情でそれを眺めた。
「見ろ、この生命力に満ちた葉を。微かな魔力すら帯びているのが分かる。……しかも隠密の話によれば、菜園の奥に、一際禍々しい……いや、神々しいオーラを放つ『特別に大きく育った品種』があったので、それも丸ごと引っこ抜いてきたそうだ」
テーブルの上に置かれたのは、他の『折れたス』とは少し形の違う、立派に結球した極上のレタスだった。
(※アマネの【善行ポイント】がカンストした影響で確率変異を起こした、激レア・最悪の【最終面接お祈り種】である)
「素晴らしい! 明後日の『兵糧および医療物資コンペティション』で、この最高級品種を我々の新商品として発表するのだ。大公の軍事利権を奪い、我々が帝国の実権を握る日も近いぞ!」
「ええ! エギル少将に投資した損失など、これで何十倍にもなって返ってきますな!」
傲慢な貴族たちは、最高級のワイングラスを合わせ、下劣な笑い声を響かせた。
自分たちが手にしたものが、輝かしい未来への切符などではなく、自分たちの精神を根本から破壊する『絶望の時限爆弾』であることを、彼らはまだ知らない。
大公邸の菜園からトラウマ野菜がなくなり、アマネが安らかな眠りについていた頃。
敵対貴族たちの『完全なる自滅』へのカウントダウンは、ついに最終段階へと突入していた。




