EP 2
「【善行ポイント通販】の目覚めと、裏方の癒やし」
翌朝。
私は自室のデスクに積み上げられた書類の山を前に、小さく息を吐き出した。
「よし、これで完璧」
徹夜で片付けた書類は、美しく整頓され、いくつかの束に分けられている。
エギルが投げつけてきたのは、部隊の備品発注書と訓練スケジュールの精査だった。彼は私を「1馬力の無能」と見下していたが、前世で限界OLとして数え切れないほどの企画書や経理データを処理してきた私にとって、この程度の事務作業は造作もないことだった。
むしろ、エギルの作った大雑把な見積もりには穴が多く、無駄な経費が湯水のように流出しているのが一目でわかった。私はそれらをすべて修正し、誰が見ても一瞬で理解できるフォーマットにまとめ直した。
彼に褒められたいわけではない。これは「立つ鳥跡を濁さず」の精神だ。
自分の義務を完璧に果たし、彼に一切の文句を言わせず、堂々とこの屋敷を出ていくための準備である。
私は書類の束を抱え、エギルが指揮を執る帝国軍の駐屯地へと向かった。
*
駐屯地に足を踏み入れると、土煙と汗の匂い、そして――むせ返るような強烈なニンニクと豚の脂の匂いが鼻を突いた。
「うぉぉぉぉっ! 気合いだ! 次、豚神屋の特盛り配給!」
「食え! 食って胃を広げろ! 直後に治癒魔術師、回復魔法をかけろ!」
広場では、エギルが誇る『二郎系超回復理論』の訓練が地獄のような光景を繰り広げていた。
重装備での過酷な行軍を終えた兵士たちが、フラフラになりながら巨大な丼に盛られた「ニンニクマシマシアブラカタメ」のラーメンを無理やり胃に詰め込んでいる。そして、その直後に治癒魔術師が光を放ち、強制的に肉体の疲労をリセットする。
たしかに、魔法の力で筋繊維は爆速で修復され、一時的に闘気は跳ね上がっているようだ。だが、彼らの目は完全に死んでいた。
胃袋の限界を超えた脂質と塩分。魔法で肉体は治せても、内臓の悲鳴や、精神的な疲労までは回復魔法では癒やせない。
私はその異様な光景に目を伏せ、足早に執務室へと向かい、副官のデスクに書類を提出した。
用事は済んだ。早くこの息が詰まる場所から立ち去ろう。
そう思って駐屯地の裏手を通りかかった時だった。
「おぇぇっ……げほっ、うぅっ……」
物陰から、苦しげな嗚咽が聞こえた。
立ち止まって覗き込むと、まだ十代半ばほどの若い見習い兵士が、壁に手をついて胃液を吐き出そうとえずいていた。
彼の顔は土気色で、額には脂汗がびっしりと浮かんでいる。
「……大丈夫ですか?」
私は思わず駆け寄り、自分のハンカチを取り出して彼の口元を拭い、冷え切った背中を優しくさすった。
「あ、アマネ様……申し訳、ありません。俺、情けなくて……」
「喋らなくていいわ。ゆっくり息を吐いて」
見習い兵士は、私の顔を見てボロボロと涙をこぼした。
「お、俺……もう、肉の脂の匂いを嗅ぐだけで、吐き気がして……でも、食べないと闘気が上がらないと、エギル少将に殴られる……っ。回復魔法をかけられても、胃の奥がずっと焼けるように痛いんです……っ」
その言葉に、私の胸がギュッと締め付けられた。
前世の記憶がフラッシュバックする。
連日のサービス残業で胃を壊し、オフィスのトイレの個室で一人、声を殺して胃液を吐いていた夜。
あの時、誰も私を助けてはくれなかった。「自己管理がなってない」と冷たくあしらわれるだけだった。
だからこそ、目の前の彼がどれほど孤独で、壊れそうになっているかが痛いほどわかった。
(このままじゃ、この子は心から壊れてしまう……)
見返りなんてどうでもいい。ただ、この苦しみを少しでも和らげてあげたい。
そう強く願った瞬間だった。
『チャリン♪』
昨日聞いたのと同じ、高く澄んだ音が脳内に響き、視界の右端に半透明のウィンドウが浮かび上がった。
【純粋な善行を検知しました。50ptを獲得。】
【現在のポイント:50pt】
(……! やっぱり、見返りを求めない行動でポイントが貯まるんだ!)
私は即座に【商品リスト】のアイコンをタップした。
リストの中には、地球の薬や食べ物がずらりと並んでいる。私はその中から、即効性の高い『地球の高性能な胃腸薬(10pt)』と、口の中をさっぱりさせる『苺味のフルーツキャンディ(5pt)』、そして『ミネラルウォーター(5pt)』を選択し、購入ボタンを押した。
手のひらに淡い光が集まり、次の瞬間、カプセル剤とペットボトル、そして可愛らしい包み紙の飴が実体化していた。
「これを飲んで」
「これは……?」
「よく効くお薬よ。内緒にしてね」
私はボトルの蓋を開け、彼に薬を飲ませた。
地球の製薬会社の技術は伊達ではない。数分もしないうちに、少年の土気色だった顔に少しずつ赤みが戻り、荒かった呼吸が落ち着いていった。
「……嘘みたいだ。胃の焼けるような痛みが、すーっと消えていく……」
「良かった。口の中がまだ気持ち悪いでしょう? これも舐めて」
私が包み紙を剥いて苺味のキャンディを口に入れてやると、少年は目を見開いた。
「……あまい」
それは、ただの砂糖の塊ではない。人工的かもしれないが、地球の子供たちが笑顔になるように作られた、優しくてフルーティーな甘さだ。
ニンニクと豚の脂と、汗の味しか知らなかった少年の瞳から、大粒の涙がポロポロとこぼれ落ちた。
「おいしい……すごく、優しい味がします……」
「そう。ゆっくり休んでね」
私はもう一度彼の背中を撫でた。
愛読書だった『モモ』の一節を思い出す。効率だけを追い求め、人々の時間と心を奪っていく灰色の男たち。
エギルはまさに、この世界の灰色の男だ。兵士たちを数字と馬力でしか評価せず、心をすり潰している。
闘気もない、魔法も使えない私に、彼らを軍事的に救う力はない。
でも、私にはこの「人を癒やす力」がある。誰かの冷え切った心に、ほんの少しの甘さと温かさを届けることができるのだ。
「おい、そこで何をしている!」
ふいに、背後から鋭い声が飛んできた。
振り返ると、銀髪を揺らしたエギルが、数人の将校を引き連れてこちらへ歩いてくるところだった。彼の視線は、私ではなく、立ち上がった見習い兵士へと向けられていた。
「貴様、いつまで休んでいるつもりだ! ……ん?」
エギルは、兵士の顔色が良く、しっかりと足に力が入っているのを見て、ふっと満足げな笑みを浮かべた。
「ほう。どうやらようやく『二郎系超回復理論』が体に馴染んだようだな。一度限界を迎えた胃袋と肉体が、それを乗り越えて進化した証拠だ! 見ろ、これが俺の指導力だ!」
エギルは自分の手柄として高らかに宣言し、周囲の将校たちも「さすがはエギル少将だ」と媚びへつらうように同調した。
兵士は何か言いたげに私を見たが、私は静かに首を横に振り、微笑んでみせた。言う必要はない。
「アマネ、貴様もいつまでもこんな所で油を売っていないで、明日の祝賀会の準備に戻れ! 俺の部隊の邪魔をするな!」
「……ええ。存じておりますわ、少将閣下」
私は深くカーテシーをして、その場を立ち去った。
背を向けた私の口角は、自然と冷ややかな弧を描いていた。
自分の部下がなぜ立ち直れたのか、本当の理由にすら気づかない男。
心の悲鳴を無視し、すべてを自分の理論のおかげだと勘違いするその傲慢さは、いずれ必ず足元から崩れ去るだろう。
彼が「効率」という名の城に胡座をかいている間に、私は私の武器――「善行」で、この殺伐とした世界を生き抜いてみせる。
明日の軍部祝賀会。
彼が私を切り捨てるその瞬間が、今から待ち遠しくてたまらなかった。
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