第一章【搾取OL、冷酷大公の屋敷を癒やして溺愛される】
「前世は過労死、今世は1馬力の無能令嬢」
「また、サービス残業……」
深夜のオフィス。誰もいないフロアに、パソコンのモニターの青白い光だけがぽつんと浮かんでいる。
私が三日徹夜して作り上げたコンペの企画書は、夕方、課長によってあっさりと奪われた。
『天海さん、この資料、私の名前で上に提出しておくから。あ、明日の朝の会議用の資料も作っておいてね。じゃ、お疲れ様!』
悪びれる様子もなく言い放ち、定時で帰っていった課長の背中を思い出すと、乾いた笑いしか出なかった。
私の手柄は、いつも他人のものになる。
理不尽だと声を上げる気力すら、もう残っていなかった。
ただ、やらなければいけないからやる。歯車のように、感情を押し殺して。
「……少しだけ、休もう……」
視界がぐらりと揺れた。
冷たいデスクに突っ伏した瞬間、私の意識は深い暗闇へと落ちていった。
限界OL「天海音」の人生は、おそらくそこで終わったのだ。
*
ふと、甘い香りで目を覚ました。
重い瞼を持ち上げると、視界に飛び込んできたのは、見慣れたオフィスの天井ではなく、豪奢な装飾が施された天蓋付きのベッドだった。
「……ここ、は……?」
体を起こすと、頭の中に滝のように別の記憶が流れ込んできた。
ルナミス帝国。魔法と闘気、そしてモンスターが存在する広大な大陸。
そして私は、この帝国の名門貴族、ヴァイオレット伯爵家の令嬢――「アマネ・ヴァイオレット(17歳)」。
前世の記憶と、今世の記憶がパズルのようにカチリと噛み合う。
驚くほどすんなりと、自分が「異世界に転生した」という事実を受け入れている自分がいた。前世の心が完全に死んでいたからかもしれない。
だが、安堵したのも束の間、今世のアマネの記憶を辿り、私は重いため息をついた。
このルナミス帝国は、建国者である転生者「佐藤太郎」が持ち込んだ知識によって、独自の超魔導近代文明を築き上げている国だ。魔導列車が走り、魔導通信石で通話をする、魔法と闘気がすべての基準となる力の世界。
人々は自らの持つエネルギーを「馬力」という単位で測る。
帝国兵士なら20馬力、戦闘職なら100馬力を超えるのが当たり前のこの世界で――私、アマネの馬力は「完全に1馬力」だった。
闘気も魔法も一切使えない。地球人の一般人レベル。
この力こそがすべての帝国において、私は一族の恥であり、「無能」の烙印を押された厄介者として冷遇されていた。
バンッ!
突然、自室の重厚なオーク材の扉が乱暴に蹴り開けられた。
ビクッと肩を揺らした私の前に現れたのは、軍服に身を包んだ銀髪の美しい青年。
彼こそが、アマネの婚約者であり、帝国軍の若きエリート少将、エギル・ヴァン・ルナミスだった。
「おい、いつまで寝ているつもりだ。これだから生産性のない1馬力の無能は困る」
エギルは冷酷な氷のような瞳で私を見下ろすと、ドサリ、とベッドの傍らのテーブルに膨大な書類の束を投げつけた。
軍の事務処理の山だ。
「……これは?」
「見ればわかるだろう。部隊の備品発注書と、訓練スケジュールの精査だ。俺は前線の指揮で忙しい。貴様のような闘気も魔法も使えない木偶の坊でも、書類の計算くらいはできるだろう? 婚約者として、せめて少しは軍に貢献しろ」
相変わらずの、人を道具としか見ていない冷たい声だった。
アマネの記憶がズキズキと痛む。エギルは私を婚約者として愛したことなど一度もない。ただ、家柄の都合で押し付けられた「無能な荷物」として、あらゆる雑用を私に押し付けては、その手柄を自分のものにしてきたのだ。
「いいか、俺の部隊は今、帝国最強を目指している」
エギルは誇らしげに胸を張った。
「俺が考案した『二郎系超回復理論』によって、部隊の効率は劇的に向上した。猛訓練で限界まで肉体を追い込み、豚神屋の『ニンニクマシマシアブラカタメ』を胃にぶち込み、直後に回復魔法をかける。このループで、一般兵でも数ヶ月で100馬力を超える化け物になるのだ。効率こそがすべて。貴様のような低馬力の人間が、俺の足を引っ張ることなど許されない」
狂っている。
そんな無茶苦茶な方法で兵士を酷使すれば、肉体は回復魔法で繋ぎ止められても、心が先に壊れてしまう。
だが、エギルにとって兵士の心など、ただの「数値」でしかないのだ。
「明後日の軍部祝賀会までに、その書類をすべて完璧に終わらせておけ。それができなければ、婚約者としての価値はないと思え」
エギルは吐き捨てるようにそう言うと、踵を返して部屋を出て行った。
残されたのは、冷たい空気と、机の上に積み上げられた絶望的な高さの書類の山だけ。
私は、その書類を見つめながら、静かに拳を握りしめた。
『天海さん、あとはよろしくね』
エギルの後ろ姿が、前世のブラック課長と完全に重なった。
人を「馬力」や「効率」という数字でしか見ない男。
私の努力を、時間を、命を吸い取って、自分の手柄にする男。
まただ。また私は、この世界でも「都合のいい女」として搾取されて、ボロボロになって過労死するのか?
「……冗談じゃない」
乾いた声が、部屋に響いた。
もう嫌だ。あんな思いは二度とごめんだ。
前世の天海音は、他人に期待し、理不尽に耐え続けた結果、冷たいデスクで孤独に死んだ。
だが、今世の私は違う。アマネの記憶の中にある、愛読書『モモ』の一節が蘇る。効率だけを求め、人の時間を奪う灰色の男たち。彼らに魂まで売り渡してはいけない。
「私はもう、誰かの都合のいい道具にはならない」
誰かを蹴落としたり、復讐してやろうなんて思わない。ただ、自分の心を守りたい。静かに、私らしく、穏やかに生きたいだけなのだ。
決意を込めて、私は散らばった書類を拾い集めようと手を伸ばした。
その瞬間だった。
『チャリン♪』
脳内に、まるで硬貨が落ちたような、高く澄んだ音が響いた。
「え……?」
目を開くと、視界の右端に、半透明の淡い光を放つウィンドウが浮かび上がっていた。
【善行ポイント通販】
・現在のポイント:0pt
・商品リストを開く
「通販……?」
恐る恐る空中の『商品リストを開く』という文字に触れてみる。
すると、ずらりと並んだのは、ルナミス帝国には存在しないはずの品々だった。
地球の高性能な胃腸薬、風邪薬、温かくて軽いフリース素材のブランケット、疲労を回復する甘いチョコレートや栄養ゼリー。
それは、佐藤太郎がもたらしたような兵器や戦車ではなく、誰かの痛みを和らげ、心を「癒やす」ための品物ばかりだった。
どうやら、誰かのために「善い行い」をすることでポイントが貯まり、このリストのアイテムを取り寄せることができるらしい。
信じられない現象に、私の心臓が高鳴る。
闘気もない。魔法もない。1馬力の私。
でも、この「癒やす力」があれば、私は私自身の足で立って生きていけるかもしれない。
窓の外を見遣る。灰色の空の下、帝国軍の駐屯地が見えた。
あそこにはきっと、エギルの狂った効率主義に押し潰され、心身をすり減らしている人たちがたくさんいるはずだ。
「……やってやろうじゃない」
私は書類の山に向き直った。
この仕事を完璧に終わらせてやる。エギルに認めてもらうためではない。彼に対して、一切の借りを作らずに堂々と出ていくためだ。
彼は明後日の祝賀会で、用済みとなった私を公衆の面前で切り捨てるつもりだろう。
上等だ。
その時が来たら、私は心からの笑顔で、その婚約破棄をお受けしよう。
私の本当の人生は、そこから始まるのだから。
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