第二章 天界からの監査と、お祈り野菜の目覚め
「大公邸の甘い新婚生活と、天界からの不穏な影」
前世の私にとって、「朝」とは絶望と同義だった。
ジリリリリッ! と鼓膜を破るような目覚まし時計の音で跳ね起き、鉛のように重い体を無理やり引きずって洗面所へ向かう。
朝食をとる時間なんて当然ない。最寄りのコンビニでパサパサのサンドイッチと栄養ゼリーを買い、殺伐とした満員電車に押し込まれる。他人の苛立ちと湿気たスーツの匂いに顔をしかめながら、「今日もまた、理不尽に怒鳴られて、手柄を奪われるのか」と、自分の人生がすり減っていくのをただ無気力にやり過ごすだけの毎日。
――けれど、今の私の朝は、信じられないほど穏やかで、甘い。
「アマネお姉ちゃん、おはよう! 今日もいいお天気だよ!」
ふかふかの羽毛布団の中でまどろんでいると、元気な声と共に、私の部屋のカーテンがシャッと勢いよく開けられた。
眩しい朝の光に目を細めると、黄金色の髪を揺らしたリンが、私のベッドにダイブしてくる。
「おはよう、リン。ふふっ、元気ね」
「だって、お姉ちゃんと一緒に食べる朝ごはんが楽しみなんだもん! 今日は何にするの?」
目をキラキラさせるリンの頭を撫でながら、私は脳内で【善行ポイント通販】のウィンドウを開いた。
昨日も、屋敷のメイドたちの仕事を手伝ったり、警備の騎士たちに労いの言葉をかけたりしたおかげで、私のポイントはたっぷりと貯まっている。エギルに搾取されていた頃とは違い、この大公邸では、私のささやかな親切が何倍もの「感謝」となって返ってくるのだ。
「そうね……今日は、少し贅沢をしましょうか」
私はポイントを消費して、地球の『高級ホテルの優雅なモーニングセット(30pt)』と、淹れたての『香り高いドリップコーヒー(10pt)』を取り寄せた。
ふわりと光が瞬き、部屋の丸テーブルの上に、焼きたてのクロワッサン、とろとろのスクランブルエッグ、厚切りのベーコン、そして彩り豊かなフルーツの盛り合わせが現れる。
「うわあああ! すっごくいい匂い! お姉ちゃん、これ最高だよ!」
「熱いから気をつけてね。さあ、一緒に食べましょう」
リンと二人でテーブルを囲み、サクサクのクロワッサンを頬張る。バターの芳醇な香りと、とろけるような卵の甘みが口いっぱいに広がった。
誰にも急かされず、美味しいものを「美味しいね」と笑い合いながら食べる朝。前世では絶対に手に入らなかった、心からの安らぎがここにはあった。
「――朝から、ずいぶんと幸せそうな顔をしているな」
不意に、ノックの音と共に扉が開き、深い紫の瞳をした長身の男性が姿を現した。
漆黒の軍服を隙なく着こなした帝国最強の男、オルフェウス大公。私を冷酷な搾取から救い出し、この上ない溺愛を与えてくれる、私の大切な婚約者だ。
「オ、オルフェウス様。おはようございます。こんな朝早くから、もうお仕事をされていたのですか?」
「ああ。少し急ぎの決裁があってな。だが、君の顔を見たら、残りの仕事などすべて投げ出してしまいたくなった」
オルフェウス様は静かに微笑みながら歩み寄ると、私の背後からそっと両腕を回し、私の首筋に甘く口づけた。
「ひゃっ……オ、オルフェウス様、リンが見ていますっ」
「構わないだろう。私が私の婚約者を愛でて、誰に文句を言われる筋合いがある?」
彼は悪びれもせず、私の髪に飾られたアメジストの髪留めに触れた。
「君の正式な入籍の手続きは、つつがなく進んでいる。元実家のヴァイオレット伯爵家や、エギルの残党どもが何か口を出してくるかもしれんが、私の名にかけてすべて叩き潰すから、君は何も心配しなくていい」
「オルフェウス様……ありがとうございます」
彼の大きく温かい手に包まれながら、私は深く息を吐き出した。
誰も蹴落とさず、ただ私らしく善く生きるだけで、こんなにも絶対的な味方が守ってくれる。前世の孤独な朝が、まるで遠い昔の幻だったかのように思えた。
しかし、私がこの甘い新婚生活のような朝を満喫していたその頃。
私の預かり知らぬ遥か天上――神々の住まう『天界』では、一つの重大な事件が発覚しようとしていた。
*
【幕間:天界からの監査】
「……ちょっと、ルチアナ様。これは一体、どういうことですか」
神界(GOD)の一角。女神ルチアナの私室、通称・コタツ部屋。
いつもならルチアナが芋ジャージ姿で缶ビールを煽っているその部屋は、今、極寒のブリザードが吹き荒れているかのような緊迫感に包まれていた。
「あ、あははは……ヴ、ヴァルキュリアちゃん、今日も朝からお美しいわね。その、お肌の調子も……」
「質問に答えてください」
冷徹な声でルチアナの言葉を遮ったのは、天使族の族長であり、ルチアナの右腕を務めるヴァルキュリアだった。
美しい白銀の甲冑に身を包み、背中には黄金の光輪を輝かせた永遠の17歳。規律と慈愛を重んじる彼女の眉間には、現在、深々としたシワが刻まれている。
ヴァルキュリアの手には、天界の予算管理システムである『エンジェルスマートフォン』の利用明細が握られていた。
「このクレジットカードの利用履歴。明らかに異常です。なぜ、アナステシア世界のルナミス帝国という特定の座標から、『高級ホテルのモーニングセット』だの、『高性能胃腸薬』だの、『保湿ハンドクリーム』だのという、地球の物資が連続で不正発注されているのですか?」
「そ、それは……ほら、システムのエラーっていうか……」
ルチアナは目を泳がせながら、コタツ布団をギュッと握りしめた。
彼女は知っている。この不正アクセスの原因が、見習い女神のリリスが人間界に落としたサブアカウントの端末であり、それを拾った人間の令嬢が、【善行】という名のバグを利用して無限に地球のアイテムを引き出しているという事実を。
「エラーで済む問題ではありません。ただでさえ、ルチアナ様がアイドルの朝倉月人君のソシャゲやグッズに国費を溶かしているせいで、我々の部署の予算は常に火の車なんですよ!?」
ダンッ! と、ヴァルキュリアがコタツの天板を平手で叩く。
その迫力に、ルチアナは「ひぃっ」と小さく悲鳴を上げた。
「それに、最近若い天使たちが人間界へ旅行に行ったきり、次々と音信不通になる事案も発生しています。この不正アクセスの座標……ルナミス帝国の周辺に、何か世界を歪めるバグが存在しているとしか思えません」
ヴァルキュリアは、フゥッと重いため息を吐いた。
美しく厳しい彼女だが、実はルチアナの尻拭いや、部下たちの管理に追われ、最近は慢性的な胃痛に悩まされている。彼女の唯一の癒やしである薬草栽培も、忙しすぎて手入れが追いついていない状態だった。
「……仕方がありません。私が直々に人間界へ降臨し、このバグの発生源を監査し、粛清します」
「えっ!? ヴァルキュリアが直接行くの!?」
「当然です。これ以上、上司(オリン様)に目をつけられる前に、私が処理してまいります。……聖槍グラニ、起動」
ヴァルキュリアが右手を虚空に伸ばすと、眩い黄金の光と共に、神気を帯びた巨大な槍が出現した。
彼女は一億ボルトの雷を操り、悪を塵に変える最強の聖騎士だ。その彼女が、ルール違反の「バグ」であるアマネを見つければ、即座に黒焦げにされてしまうだろう。
「あっ、ちょ、ちょっと待って! その令嬢の隣には、幻の第六聖獣『麒麟』がいるっぽいのよ! 変に刺激したら……!」
「言い訳は後で聞きます。では、行ってまいります」
ルチアナの制止を無視し、ヴァルキュリアはその背に純白の翼を広げた。
ズガンッ!! という轟音と共に、彼女の体はコタツ部屋の天井を突き破り、一直線に人間界――アナステシア世界へと降下していった。
残されたルチアナは、ぽっかりと空いた天井の穴を見上げながら、「あちゃー……終わったわ」と頭を抱えるしかなかった。
*
ルナミス帝国、大公邸の庭園。
オルフェウス様が軍務へ向かった後、私はリンと一緒に、美しい薔薇の手入れをする庭師のお手伝いをしていた。
「アマネお姉ちゃん! このお花、すっごくいい匂いがするよ!」
「本当ね。リンの髪の色みたいに綺麗な黄色い薔薇」
穏やかな昼下がり。
誰もが平和な日常を享受していた、その時だった。
ゴゴゴゴゴゴッ……!!
突如として、大公邸の遥か上空の空が、不自然に渦を巻き始めた。
どんよりとした雲が割れ、そこから、目を射るような黄金の光が一直線に屋敷の庭園へと降り注ぐ。
「な、何事だ!?」
「敵襲か!? アマネ様をお守りしろ!」
庭を警備していた騎士たちが慌てて剣を抜き、私とリンを庇うように陣形を組んだ。
だが、降り注ぐ光の柱の圧力は尋常ではない。闘気を練り上げた騎士たちですら、その神々しい圧倒的な力に当てられ、膝を屈しそうになっていた。
「お姉ちゃん、あれ……!」
リンが私の服の裾を強く握りしめ、空を見上げる。
光の柱の中から、一人の女性が静かに舞い降りてきた。
白銀の甲冑。背中には純白の翼。そして、頭上に輝く黄金の光輪。
彼女の手に握られた白銀の槍からは、チリチリと青白い雷光が漏れ出し、周囲の空気を焦がしている。
「……特定座標への降臨、完了しました。バグの発生源は、この屋敷ですね」
絶対的な規律と、有無を言わせぬ武力を体現したような、天使族の長。
最強の聖騎士ヴァルキュリアの、静かで冷徹な声が、庭園に響き渡った。
私の【善行ポイント通販】という最大の秘密が、ついに天界に目をつけられた瞬間。
大公邸の甘い新婚生活に、突如として最大のピンチが訪れようとしていた。
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