黄金のブレーキ ― 崩壊を操る計算(アルゴリズム)
1920年代後半。
世界は空前の狂乱の中にいた。
ニューヨークのウォール街から始まった株価の暴騰は、ロンドン、パリ、そして東京へと波及し、人々は「永遠の繁栄」を信じて疑わなかった。
だが、その狂騒の頂点において、ヨシュア・ゴールドシュミットだけは、世界の帳簿から聞こえる「悲鳴」を聴いていた。
「……サミュエル、算盤を。この数字は、もう生きていない」
車椅子の上で、ヨシュアは震える手で銀の算盤を弾いた。
かつての鋭い音は、今や深淵を叩くような重苦しい音へと変わっている。
計算が導き出した答えは、明白だった。実体経済を遥かに超えて膨れ上がった「期待」という名の借金が、今まさに限界を迎えようとしている。
放置すれば、世界はただの崩壊では済まない。文明そのものが破産する。
「ヨシュア様、市場はまだ強気です。今、売りを仕掛ければ、ゴールドシュミット・シンジケートは全世界を敵に回すことになります。暴落の引き金を引いた『死神』として、歴史に刻まれるでしょう」
サミュエルの言葉に、ヨシュアは初めて弱々しく笑った。
「死神か……。……いいさ、サミュエル。暴走する列車を止めるには、自ら線路に身を投じる者がいなければならない。……このままでは、膨れ上がったバブルが弾けた際、その衝撃でまた戦争が起きる。飢えた民衆が再び銃を手に取る前に、私がこの手で『計画的に』世界をリセットしてやるッ!!」
1929年10月24日、ブラック・サーズデー。
ヨシュアは、保有する全資産を市場へ放出するよう命じた。
それは、世界最強の銀行家による「市場への宣戦布告」であった。
「ゴールドシュミットが売っているぞ!」
「あの老いぼれは正気を失ったのか!?」
罵声と悲鳴が飛び交う中、市場は地獄へと変貌した。
だが、ヨシュアは冷徹に、そして迅速に、暴落の「底」をコントロールしていた。
彼は全資産を失う覚悟で、暴落した優良企業の株を次々と買い戻し、企業の倒産と連鎖的な失業を最小限に食い止める「黄金の受け皿」を形成した。
その夜、嵐の去った執務室で、ヨシュアはサミュエルにだけ、本心を漏らした。
「……怖いのだ、サミュエル。……世界中の人々の憎しみを、私がこの算盤一つで背負い込んでいることが。……もし、私の計算が一厘でも狂っていたら、明日、世界は終わっていたかもしれない」
ヨシュアの目には、涙が浮かんでいた。
一世紀近く、強欲な権力者たちと戦い続けてきた鉄の男が、初めて見せた「弱さ」だった。
「やられたら、やり返す。……欲望に溺れ、未来を食いつぶそうとしたこの時代の罪。その報いを、私が『悪役』となることで清算し、次の世代へ真っ白な帳簿を渡してやるのだ……」
ヨシュアはサミュエルの手を握った。
「サミュエル……。これから来る冬は長い。……だが、蓄えた『平和の配当金』を、最も苦しい者たちへ配り続けろ。……金は、流れてこそ命を繋ぐ血液になる」
1920年代末。
世界を襲った大恐慌は、ヨシュア・ゴールドシュミットという「巨大な防波堤」によって、最悪の事態を免れた。
人々は彼を「恐慌の元凶」と呼び、石を投げたが、ヨシュアは静かに、自らが傷だらけにして止めた「世界の歯車」を見つめていた。
それは、神に代わって「運命」を監査し続けた、孤独な老兵の決算であった。




